昼下がりだったか、夜更けだったか、早朝だったか、そんなのはべつにどうだって良かった。ぼくは急に胸のあたりに刺すような痛みを感じて、平坦で代わり映えのないノンレム睡眠からこの世に戻ってきた。たったそれだけの話だった。
「ルート?また、痛むの?」 揺すった頭の髪の毛からゆっくりと降りてくる退屈な匂いは甘くて、優しくて、ほんのすこしだけへんな気持ちにさせる。ぼくら若くて愚かな最先端に子孫を残すことを急がせる、そういう、無粋で、偉大な匂い。ぼくはこれが大好きだし、大嫌いでもある。「ウン、そうだな、カードをめくって絵柄をひっくり返すようにね、ぼくの心を裏返して、反対のことを言わせてしまう魔法なんだ…」、ビニール袋に包まれた真実が部屋の片隅で、ハエの群れを惹き付けながら黙って転がっていることを甘受しながら。 「ルート?」 「ああ、うん、いいんだ。大丈夫さ」 「嘘よ。今にも死にそうな顔して唸ってたわ」 「まさか」 「かわいそうに。ルート、骨のなかを走る回路が断線してしまいそうなのよ。心臓に近い位置だから、本当に断線してしまったらたいへんよ」 ぼくは答えなかった。些細な動きを肯定やあるいは否定のように受け取られる可能性を申し訳程度に危惧して、すぐ忘れた。うなじの向こう側でぼくを心配そうなうつろな目で見つめているだろう彼女の存在を思い描いて、仮定を取り下げるように、すぐ消した。 「そうだわ。リッタから電話があったの」 「…ああ」 「お金がほしいんですって。東の国へ緑色の石を掘りに行くの。そのためにステキなシャベルを買うそうよ。だからお金が必要だと言ってたわ」 「あとで連絡しておくよ」 「リッタったら苦しそうな声だったわ。あのひと生まれた瞬間から苦労してばかりね」 「そういうもんさ」 「運命論ってキライじゃないの。わたし」 「うん」 拾ってきた子猫が死んだ。不思議そうな顔でからっぽの水槽を天変地異のように引っ掻き回しながら彼女はそれを見つめて、「素晴らしいわね」と呆気に取られたようにつぶやいた。彼女の頭にいつものように白いリボンが揺れているのを眺めながら、ぼくは棚から物が落ちる音を聞いていた。「…頭を撫でてあげて」「こうかしら?」「…うん、」「……何かに触ったわ。あら…何かしら、これ」「それはね、視神経だよ」、花奈。…ガサガサと引っ掻き回す音、紙袋が破れて、浮き彫りになる。花奈はぼくが好きだ。ぼくも花奈が好きだ。きみは花奈。ぼくのきみの名前は花奈。 * * * 花奈が空まで飛んでいくベッドの中で詰め物になるのを見届けて、ぼくは抜けた髪の毛を一本拾って部屋を出た。階段を降りてドアを開けると、そこには一人の男が立っている。 ぼくは海に飛び込む方法について考えている。どのように言葉を使って命を軽々しく無駄にするべきか考えている。 「隆人。体の具合はどうだ」 「ありがとう、律太。あまりよくないけど、時期が過ぎればじきに良くなるよ。いまは雨が降るから、仕方がないんだ」 「無理はするなよ。薬を持ってきた」 「助かる。上がっていくかい?」 「ああ、…じゃあ、お邪魔しようか。迷惑でないのなら」 「大丈夫。花奈は寝てる」 すぐ悲しそうな顔をする癖のある律太は、ついこの間まで眼鏡をかけていたという事実にさえ縛られてまともに歌も歌えない不憫な男だ。彼の眼鏡のレンズは東の国でとれる綺麗な緑色の石を使って作られたもので、月の光を当てると鈍く七色に輝いていた。東の国の緑色の石は細かく砕いて燃やすと体に良くない緑色の煙を発して消えてしまうらしい。 「その煙を大量に吸い込んだ人間は死に至る。緑色の煙で満たされたその肺は硬化して、緑色の石そのものとなる。さらにそのまま1週間も放置すれば、肺に近いところからどんどん臓器が緑色の石に変わっていくんだ」 ぼくの考えを読んで律太が言った。その緑色の石の特性のことを東の国の言葉でウォナースオゥというのだそうだ。律太は下がってきた眼鏡を直すような仕草をして、すぐに我に返った。代わりに胸ポケットからちいさなガラスビンを取り出すと、中に入っている液体を一定の速度でゆらゆらと揺すって、そのビンの中に手品のように火をつけた。「…隆人はどう思う?」「なにが?」、そして突然ぼくにそうして言葉を向けて、右の目玉に真っ青な花を咲かせた。 「どうということはない。ただ何もかもに、お前はどう思う?」 「…運命論は嫌いじゃないんだ」 ひとこと答えて、階段の上を見やる。低迷する名前もない元素がやっと辿り着いたこの家の廊下で、誰もに忘れ去られて消えていく瞬間を待ち焦がれている。けれども、残念なことに、花奈は決してその元素のことを忘れはしないのだ。 |