相思花 血潮を吸い上げて咲いたような赤い花は、死者が地上に迷わず戻る為に、戻った死者が凍えた魂をその彩で暖める為に咲く灯籠なのだと、幼い頃に教わった。 ―もうひとつ、これは極東の古い伝え。 その赤い花を見て、微笑んだ母の顔を思い出した。 エドワードが藤で錬成してやった豪奢な座椅子に腰掛けたリンが「死人花」と呟いて、畔を指差した。 「それ、その赤い花を摘んできテ。死人花ダ」 「彼岸花だろ。単子葉植物網ヒガンバナ科ヒガンバナ属。多年草」 「地獄花とも言うヨ。物騒な名前ばかり付けられてるその花、一輪摘んでくれないカ」 オリエンタルな風情のその植物を初めて目にしたのはシンに来てすぐの頃。アメストリスでは目にした事のないその花を、エドワードは一目見て気に入った。 赤が好きなのだ。原色に近い鮮やかな赤が好きだ。他人は彼の色彩感覚を含む芸術的センスを「趣味最悪」と言う。 「彼岸の頃に咲くから彼岸花。食べると茎や根に含まれるアステロイドが彼岸に連れてってくれるから彼岸花?」 放射状に開く花弁を指で弾きながら、何のことはない野草なのだが皇帝陛下所望の花を一輪、うやうやしく献上した。 「死人花、地獄花、幽霊花とも呼ぶヨー。どうも不吉な雰囲気を感じる花なんだろうネ」 「俺は好きだけどなぁ」 再び畔に踏み込み、群生する彼岸花畑の中からもう一輪を摘んできたエドワードを見ながら、リンは献上された先の一輪の茎を落とした。 上衣の汚れも気にせず地べたに腰を下ろした情人の髪をかきあげ、髪飾りのように花を飾ってやると見目麗しい情人は露骨に嫌な顔をする。 「おー、こうして見ると綺麗な花だネ。エドワードの金糸に赤が映えてイイヨー」 「女じゃあるまいし、こっ恥ずかしい」 「誰も見てないヨ。俺しか見てない、恥ずかしくなんてナイでス」 「そりゃこんな所に誰がいるよ、こんな夜中の田んぼのど真ん中に」 護衛も付けずにやってきた遠乗りの帰り道、何を気に入ったのか片田舎の田園で「ここで月見宴でもしようカ」といつもの気紛れを始めてしまった放蕩息子、もといシン国皇帝を諫め切れなかったエドワードは溜め息を吐くしかない。 「ランファンはどこ行った。こんな時こそ吹き矢とかクナイとか飛ばしてこの馬鹿痛めつけろよ」 「ランファンは女の子の日で辛そうにしてたかラ。だからこそサボリ、じゃない息抜きに遠乗りニ」 「最低だお前」 道理で簡単に城を抜け出せたと独り愚痴ると、ねちっこく髪を撫でていた男が赤い花の花弁を一枚また一枚と毟り、エドワードの頭上から撒き散らし始めた。 「似合うヨ、血糊みたいデ」 「どういう例えだ」 髪を撫でられるのが思いの外気持ちが良くてされるが儘にしていると、髪を滑り落ちた花弁が上衣の襟から胸元に入り込み、それを追ってリンの指がエドワードの胸元に滑り込んでくる。 驚いて上衣の上からリンの手を押さえるが、長い指が悪戯に鎖骨を擽っていくのでエドワードは堪らず声を上げてしまう。 「何のつもりだっ…」 「ん。血糊払ってル」 「血糊じゃないって…!」 胸元で押さえつけていたリンの手がするりと逃げ出しエドワードの口を塞ぐ。空いている手の人差し指を唇に当てて「しーっ」と言うリンの顔は至極真面目で、エドワードは暴れるのをやめた。 畔端で喧しいくらいに聴こえていた鈴虫の音がいつの間にかふっつりと消えている。 耳が痛くなる程の静寂の後――遠くで木立が鳴いた。 「この花を"相思花"と呼ぶ国もあるらしいヨ」 リンに起こされて、エドワードは気だるい体でのろのろと剥がれた服を整えた。 「随分と甘い名前だな」 「そうでもナイ。決して交われないからこそ互いに想い逢うって云う意味。どちらかと言えば悲恋の花ダ」 彼岸花は秋になると茎だけがひょろりと伸び、花を咲かせる。葉が伸びるのは花が散ってから冬を迎える僅かな間だけで、花と葉が同時に姿を見せる事はないのだと言う。 花は自身が散り落ちた後に現れる葉に焦がれて枯れていき、葉は花の残骸を糧に成長し、新しい花に焦がれてやがて枯れていく。 「…変な花」 「不思議な花だヨ。何百年と生態を変えずに片思いしっ放しなんだかラ」 ―極東の古い伝え。花は葉を想い、葉は花を想う。 幼い頃に母から聴いた言い伝えを、今の今まで忘れていた。 「花は葉を想い、葉は花を想う。だから相思花って呼ぶらしいヨー」 記憶の母は優しく笑っている。彼女もまた、この赤い花が好きだったのだ。 「…相思花」 「うん、まるで俺達みたいダ…どうだ、また抱き合いたくなったダロ?」 笑ってみせる男の額に徐に頭突きをくれたエドワードは、悶え転がる皇帝を尻目に林で休ませていた愛馬の元に歩いて行ってしまった。 「帰るのエドワードさん」 「当たり前だ、付き合いきれるか」 木立の幹に繋いでいた手綱を解き、右手に自分の白馬の手綱、左手にリンの黒馬の手綱を取って戻ってくる。 リンが持ってきた酒器を袋に片付け、リンの馬鞍に結びつけて「帰るぞ」とリンに手綱を押し付けてきた。 「月明かりの下抱き合って一晩過ごすの、ダメ?」 「駄目に決まってんだろ。野外で営むのは趣味じゃない」 「誰も見てないヨ」 「花が見てるだろ」 風に揺れる赤い花に視線を投げて、エドワードはぽつりと呟いた。 「…絆されたわけじゃねぇからな」 「ん?」 「オレはお前の事想ってなんてねーからな!」 目を丸くしたリンに背を向け馬に飛び乗って駆け出したエドワードを追い、リンも馬に飛び乗った。 夜闇の中でも月明かりに照らされた金糸は眩いばかりで、見失う事はなかった。 風に乗って、百合の香りと赤い花弁がリンの鼻先を掠めていく。 逃げて行く金糸の残光に混じる赤色は、想い想われる花の色。 行くな、逃げるなと縛ろうとしても、リンの手が届く前に彼は消えてしまうだろうと思っていた。 民一族を背負うリンと、弟の命を背負うエドワード。一時は交わった運命も、悲願が叶えば離れていく。望んでも同じ世界に立つ事はないと諦めていたのかもしれない。 花を想っても、同じ場所では咲けないのだと――彼岸花の葉のように。 元来リンは諦めのいい方だし、何かに固執したりするなど滅多にないのだ。国と一族以上にリンを縛る物など、この世にはひとつとしてなかったのに。 出逢わなければと彼が言った。 もう遅い。 血潮を咲かせる彼を見てしまったなら。 その香りをと願ってしまったなら。 永遠にと、彼岸花の葉も願うに違いない。 金糸を視界に捉えたまま、適度な距離を取って追っていく。 逃げろ逃げろ、何度でもこの手の中に捕まえてやる。 出逢わなければと彼が言っても。 捕まえた今は、もう放してやれない。 ←text top |