1 シン国の気象、天候の記録は天文庁が管理している。建国以来の数千年の気象情報が記された「天文記」なるものが存在し、歴代の天文庁長官は、皇帝に暦や天文について問われた時に即答できるよう熟読していると聞くが、現皇帝であるリンは天文について長官に問うた事はない。 「そんなモノにまで手を出しテ…」 寝台に紐綴じの分厚い本を持ち込んだ情人を恨めしく思いながら、一度も目を通した事のない天文記なるものを、どれどれと横から覗き見する。 天文庁とはそもそも、宮内で取り仕切る行事や政の施行、冠婚葬祭の日取りの設定から農民への種蒔き時期の御触れまで、暦の吉兆に関する事柄の相談所のような役所だ。伝統と因習を重んじるこの国には必要不可欠な部分ではあるが、シン国内の近代化の進む昨今では然程活躍が期待されない為、先日高齢の高官数人を役職から解いて一大リストラを敢行し、大幅な人件費削減が行われた。たしか新しい長官には尚家の長兄を宛がった筈。 「この本、俺と長官しか読んじゃいけない筈なんだけどナ〜、なんでエドワードさんが読んでんだロ〜?」 「これからの時代は公文書も公開していかないと駄目だって、ハン長官が言ってた。知的財産は国が独占するばっかりじゃなく、広く人民に与えるべきだって。いいなぁ民主制、オレ大好き」 「因みに、いつの話ですかソレ」 「先週の謁見の時」 おそらくエドワードが鋼妃の姿で謁見に出た時、リンに隠れて長官にねだったのだろう。尚家の長兄も熱心な鋼妃信者だと聞いている。 最近、エドワードは「色仕掛け」のスキルを身に付けた。 「クビにしちゃおうかナ、アイツ」 「クビにしたら退職金で無駄な出費がかさむだろ、節約節約」 「………」 言いくるめられてぐうの音も出ない。妾った天女が段々悪女と化してきているのは、飲み水が合わなかったせいだろうか。 「で、面白いですカ天文記」 リンの目には退屈な数字の羅列にしか見えない誌面でも、エドワードには興味深い物のようだった。話し掛ければ返事がある程度には気が逸れているが、文献から目を離そうとはしない。 「これ、数十年前から記録が途切れてるみたいだけどなかなか面白いな。今年は月蝕が三度あるぜ」 「エ、そんなニ!?」 驚いて、寝台に横たわるエドワードの上にのし掛かって肩口から覗き込むが、文献の何処をどう読めばその情報を読み取れるのか、リンには皆目わからなかった。 「月蝕ってのは、毎年一度二度は必ずあるもんなんだよ。数年毎に三回ある年が来る。日中だったり、 観測場所の位置関係で月蝕が見えない時もあるけどな。次の月蝕は満月で時刻は夜半、なかなかの観測日和だな」 「エー、なんで分かるのエドワードさん」 「計算すればわかる。自転と公転の速度と、月の周期に太陽の角度とシンの緯度を掛けて」 「難しい公式の説明はいいヨ」 呪文のように数式を唱え始めた口を押さえて、傍にあったエドワードの耳朶をひと舐めしてやる。 舌が触れる前に、リンの下でエドワードの体が小さく震えた。 「やめろって…」 「エドワードは本読んでていいヨ」 耳裏に舌を這わせて舐める。ひく、ひくと身動ぐ体の下に腕を差し込み、膝を割って開いた脚の付け根を太股でぐりぐりと押し上げながら抱き竦めると、エドワードの口から迷惑そうな声が上がった。 「重い、邪魔、鼻息荒くてうるさい」 「エドワードさんに触ってるんだから鼻息荒いのは仕方ないでショ」 荒いのは鼻息だけじゃないヨ、とふざけながら腰を押し付けると、エドワードは急に上半身を起こしてリンを退けようとする。 「リン、リン馬鹿退けって!」 「今更逃がさないヨ?」 「逃げないから、窓! 窓開けろ!」 あたふたと慌てふためくエドワードを怪訝に見下ろしながら、リンも体を起こして寝台の横の窓を開け放つと、東の空に大きな満月がぽっかりと浮かんでいた。 「いま何刻?」 「もうすぐ日が代わる頃だと思うけド…」 リンの下から抜け出したエドワードが窓枠に手をかけた時、丁度刻限を知らせる鐘が鳴る。 「日が変わったネ」 「じゃあ、あとちょっとだな」 何が、と問いかける前に、エドワードが空を指差して「始まった」と叫んだ。指し示す先を見上げれば、満月が。 ←text top |