「姫様!」
離れの部屋に文字通り転がり込んできたのは、甲斐の若虎と名高き真田幸村であった。
彼は部屋の主が声をかけるより早く、切羽詰まったように吠える。
「姫様! 甲斐をお出になるとは真でございますか?!」
『その声、幸村で違いないですね』
「あっ、も、申し訳ございませぬ、姫。はい、幸村にございます」
姫と呼ばれた離れの主は、甲斐の虎、武田信玄の末の娘の名前で、彼女はとある悲劇に見舞われ盲目の身となり、今では声でしかひとを認識できないでいた。
そんな不自由な身の彼女が、甲斐の国を出ると言う話が噂されていた。国も武田の名も捨てて、遠い地へ移ると言うのだ。
『甲斐を出ると言うのは本当ですよ。私が父上に頼んだんです』
「な、なぜ急にそのようなことを!」
『急じゃありませんよ、ずっと考えてましたから』
姿勢よく座る名前の凛とした姿を見つめながら、幸村は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。もちろんその表情は名前にはわからない。
「姫様、お考え直しくだされ。姫様はお館様の、ひいてはこの武田が宝にございまする。姫様がいなくなれば、お館様も甲斐の民もどれほど悲しむことか」
幸村の声は、父としての信玄の心中を察し、武田の姫たる名前の身を案じる忠誠深い家臣の声に他ならなかった。しかしその悲痛さが、十割すべて家臣ゆえではないことを知る者は誰もいなかった。
『そう言ってくれて嬉しいですよ。だけど私はもういい歳になるし、そうなれば盲の身が今より足を引きずるでしょう』
「そんなことはございません、姫様はこんなにも美しくていらっしゃる。姫様の夫となる者はそれだけで幸せでございましょう」
『まあ、じゃああなた、この盲を妻にしてくださいな。できますか? できないでしょう?』
離れの部屋には名前と幸村のふたりしかいない。
目の見えない名前の前で、幸村は思わず破顔した。やっと、やっとこのときが訪れた、と。
「できます」
名前が息を飲んだ。
『幸村…いいんです、ごめんなさい、私ったら、ひどく意地の悪いことを言いました。そんな、嘘を言わなくって、いいんですよ』
「いえ、嘘ではございません。本心です。某はずっと、姫様のことをお慕い申しておりました」
『ああ、幸村、そんな…あなた…』
もう二度と光を見ることの叶わない名前の目から涙が伝い落ちる。
幸村ははらはらと泣く彼女の傍に寄り、華奢な身体をしっかり抱き締めた。
「どうかずっとここにいてくだされ。名前殿、某が一生お守りいたしますから」
『幸村…ありがとう…ありがとう…』
名前が頬を寄せたたくましい胸元からは、なぜか両の目の光を失くした日に飲んだ茶と同じ香りがした。
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愛執
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