▼雨が降る。



怖くなくなるように、怖いものが来ないように、心が安らぐように。いろんな意味を込めて教えて貰った言葉がある。こちらの世界のおまじないのようなものだった。
夜を怖がる子供に教えるおまじない。魔よけ。大人からみればなんということも無い、子供騙し。けれどアーダルベルトさんはこうも言った。力あるものがそれ信じて使えば、子供だましとも言いきれぬと。言葉には力が宿るからと。
つまり私は完全に子供扱いをされているのだが、夜が怖いと泣いていたのだから仕方がない。子供である。

いざとなったら使えるお守りというのは、精神を少しだけ安定させる。怖くなったら、耐えられなくなったらアーダルベルトさんに教えて貰ったおまじないがあるもの。そう思うだけでとりあえずは、とりあえずはこの日々を過ごせていた。私が力あるものかどうかは多分違うと思うが、そこは気にしてはいけない。信じるものはなんとやらなのである。

「…さむい」

1人のベッドは寒い。寂しい。アーダルベルトさんのベッドにお邪魔して、そっと布団にくるまる。ここ数日で彼の匂いは薄まってしまった。シーツを洗濯なんてした私が馬鹿だった。でも帰ってきた彼には気持ちよく眠って欲しい。でも私がここで眠ったら結局はあまり変わらないのでは、と気付いて自分の駄目さに嫌になる。でも、彼に与えられた私室に戻る気にはならなかった。

何度も寝返りをうつ。もう太陽は登っている。いつもなら彼のために朝ごはんを作って、コーヒーを入れて、掃除をして、とやることは沢山あるはずなのに。自分が食べるためのものを作るとなると途端にどうでも良くなってしまう。
そもそもアーダルベルトさんが出て行ってからあまり空腹を感じていなかった。放っておけばお腹も減るだろうと鷹を括っていたが、これは無理矢理でも胃に放り込んでいかないと駄目かもしれないと気付いたのは数日たってからだった。その日は結局なんとなくパンを齧って終わった。彼が見たらきっと怒るだろう。ちゃんとご飯を食べて、ちゃんとしないと。
そう思っても身体は重く、全く言うことをきいてくれない。それに今日は、雨が、降っている。

「…あたま、いたい……」

鎮痛剤は、キッチンにある。寝室から動けていない時点で論外である。
昨晩から続く雨に、雨音に、夢見は最悪だった。あれは実際に起きたことだ。私が、こちらに来てから起こったこと。悪夢とひとくくりにしても良いものなのだろうか。現実はいつだって地獄である。

「だめだ、ちゃんと掃除、掃除しないと」

掃除だけでもしなければ、彼を心配させてしまう。もっと言ってしまえば証拠隠滅。起きてみれば昨晩の夢のせいで盛大に吐いていた。寝ゲロとか最悪。なんとか意識を持った状態だったのか、彼のベッドにはやらかさず、とりあえずベッドサイドの床にぶちまけていただけ自分を褒めたい。汚い話題である。物を食べていないので胃酸ばっかりだったけれど。

「会いたいなぁ…」

今なら、おまじないをしても許されるかもしれない。それに留守番もろくに出来ない馬鹿と思われたくはない。掃除をする力を得なければ。駄目すぎて泣けてくるが仕方がない。
彼が帰ってくるまでまだ何日かある。私は大丈夫でしたよってちゃんとお迎えをしなきゃいけないのだから、こんな所で泣き言を言っている訳にはいかない。

「よし、いける、…いける」

この状態になったのはアーダルベルトさんが居ないせいで、気合を入れるのもアーダルベルトさんのためで。おまじないだってアーダルベルトさんに教えて貰ったもので。
その矛盾に少しだけ笑って、そっと、教えて貰った言葉を口にした。


2019/03/06


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