第一夜
――マガイモノを斬った瞬間から、歯車は狂っていた
『千鶴』
『なんですか?』
『お前は、人が憎くはないのか?』
『憎いか、憎くないか…と聞かれれば、どちらかというと"憎い"ですね。でも、人間全てが悪いわけじゃないですから』
『お前は優しいんだな』
『いいえ、全然』
『だって、村を滅ぼしたあの軍の者たちに会ったら、私は止まることが出来ないはずですから』
ふ、と目が覚める。瞳に映るのは見慣れた天井。懐かしい夢を見たな、と頭の隅で考えながら、千鶴は体を起こす。
その夢とともに嫌な記憶が呼び起こされることは決して嬉しいことではない。…だが、たとえ夢でもあの人に会えることがとても嬉しかった。
「…そういえば」
――今日で育ての親である綱道から手紙が来なくなってからひと月になる。
ひと月連絡を寄越さなければ"マガイモノ"を生み出したという罪状で……粛清されることになっていた。
あれが私の育ての親でなければ容赦なくすぐに切り捨てた。今までただ傍観していたのはまだ彼が正常だと思っていたから。
きっと、手紙が来なくなったのは……彼が、幕府を見限ったから。
それが千鶴には手に取るようにわかっていた。
「………行こう」
―――千鶴がその場から立ち上がると、ふわりと空気が揺れる。振り返りざまに部屋を見返すが、首を横に振った。
…この家への想いを断ち切り、千鶴はまた一歩足を踏み出す。
―――まったく、これだから人間は好かないんだ。
思わずそう零したくなってしまう。……何故私が浪士などという不埒な輩に追いかけられなければならないのか。
……人間を好かないこともあって、余計気分が悪くなる。―――過去の事件はいい意味でも悪い意味でも私を縛り付けた。
この腰に差した小太刀をよこせと迫ってきた浪士の一人を蹴り倒したのは記憶に新しい。
追いかけてくる浪士の中にその"一人"の姿は見えなかった。……少し悪いことをしたな、と思う。しかし、今回は仕方ない。自己防衛だ。
「まぁ……逃げるが勝ちよね」
そのまま私は逃げる。後ろから浪士に『待ちやがれ小僧!』などと言われているが、待てと言われて待つ敵はいない。私はただ足を動かした。
颯爽と地面を蹴って走る私は他から見たら身軽なもので、浪士たちの走り方ときたら想像以上に重かった。
ドスンドスンと音が聞こえてきそうなくらいに勢いよく地面に足をつくくせに、よく地面がへこまないものだと思う。
しかし、そんな重い走り方のくせに何故こうも早いのか。それが今一番の疑問である。
――そんな重い足でよく私に追いついてこられたなあ。
もし私の邪魔をするようなら、斬ってしまってもいいんじゃないかと思ってしまう。もう本当に疲れてきた。はあ、とため息がこぼれる。
しかし、止まってしまうことは私の中で何かを壊す気がして気が引けた。まあ息切れはしていないし、楽なものだとは思うのだけれど。
これで夜が明けてしまったら本当に斬ってやろう、と心の中で決意して、私はスピードを上げる。
疲れてきているとは言っても鬼の体だ。そんなすぐバテてしまうような人間と違い、このくらい痛くも痒くもない。
「ああもう……しつこいですね……っ!」
角を曲がったところでちょうど良い暗闇を見つける。気配を消すことは得意だし、それにそこは私をちょうどすっぽりと覆い隠してくれた。
これならば浪士どもに見つかることもないだろう、と思い、千鶴は息を殺した。そしてあとからやって来る騒がしい足音。
「逃げ足の早い小僧だ」
「まだ遠くへは行っちゃいねえ。捜せ!」
……小娘相手に、いや、小僧相手に抜刀してなんて大人気無い。
心の中で悪態をつきながらも、私はそのまま気配を消し続けていた。――そして感じたのは、異常なほどの殺気。
浪士どもは気づいていないようで、まだ私を探している。……この殺気にさえ気づかないとは、平和ボケしすぎているのではないだろうか。
ここは京の都。そしてとても危険な都でもある。殺気を感じ取れないのであれば……きっと彼らは"余所者"だろう。
私は好奇心のままに、暗闇から少しだけ顔を出した。
この異常なくらいの殺気が一体誰から発せられているのか、それが私の興味を引いたから。
今まで出会ったどんな人間も、私に敵うことはなかった。どんな浪士も、私に斬られてそれでオシマイ。つまらない、なんてつまらないと笑ったのはつい最近。
それくらい、人間とは弱い生き物だった。
人間など、くだらない生き物に決まっている――それが、今の私の考えだ。……ただひとり、私を稽古してくれたあの人を除いては。
……いつの間にか、殺気がすぐそこまで迫っていた。そして響き渡るのは浪士どもの悲鳴。全く可愛げも何もない。
私は、興味をそそられるがままにそこを覗いた。夜目が効く私にもうすらぼんやりとしか見えないが、さっきの浪士たちを斬ったモノは不思議な出て立ちをしていた。
白髪に赤い瞳。……銀髪に青い瞳だったら驚くことはなかったのだけれど、と内心呟く。しかし、その出てだちは見逃せなかった。
「……まさか、あれが噂の……?」
噂というより、私が家を出る前に掴んでもらったマガイモノの情報と一致した出てだち、というだけなのだが。
私に仕えてくれている飛脚の鬼は、マガイモノは綱道が生み出したと断言していた。そして、彼と連絡を取り合っている間に『ひと月連絡を寄越さなければ粛清』という約束まで取り付けたのもその飛脚の鬼の進言からだったりする。
まさか、こんなにも禍々しいとは。
「…綱道も、とうとう鬼の誇りというものを忘れたんですね」
これは本当にまずい。こんな禍々しい気配は今まで感じたこともなかった。
……本当に、厄介な事をしでかしてくれたとため息をつく。
これからどうするかを考える前に、まずはマガイモノを始末しなければならない。私は腰に差していた太刀を引き抜いた。
マガイモノを殺す程度のことに、家宝の小太刀などもったいない。
――マガイモノを始末するには首を落とすか心臓を一突きしなければならない――
与えられた情報通りに、私は心臓に狙いを定め、構えた。
「ひゃははははははははは!!」
「…言葉が通じたのなら、話を聞いたのですが。……仕方がない、ですね」
言葉が通じたならば、殺害には及ばなかっただろう。
だがこれは血に狂った。浪士の血を貪り、さらには私の血をも狙っている。
――純血の血を狂ったマガイモノに与えるなど、屈辱以上の屈辱だ。
「少しは私を楽しませてくれるんですよね?」
横から感じている目線には目もくれず、私は一歩前へ踏み出した。
「マガイモノになったからには、私を楽しませてくれなきゃ困るんですよね。……身内の不始末は当主の責任、ってとこでしょうか。私が始末しなければならないなんて思ってもいなかったから、すごく楽しみにしてたんですよ」
そう言って、私は彼らの間合いに踏み込んだ。
――決着はあっけなくついてしまう。
「つまらない、です。……マガイモノの癖に、こんなにあっけなく終わるんですね」
こんなことなら、今私に殺気を向けている"彼ら"の方がよっぽど強い。
結構あっさり駆除は終わりそうだ。……それ以前に片さなければならない問題は、今私に狙いを定めている二人の剣客をどうするか。
「あれ、これ全部君が倒したの?」
塀の影から姿を現した二人の男は、浅葱色の羽織をはためかせていた。
空から舞い降りる雪花が、月に照らされて輝いて、そしてそれはとても綺麗で――。
(20130105 公開)
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