お姫さまを取り返せ 2
「黒尾さん、わたし一人で戻れますよ」
「そのセリフ、説得力無さすぎだろ。こんな時間に迷子になられたら流石にシャレになんないから、送ってくわ。別に気にしなくていーって、そんな遠いわけじゃないし。…って、あれ?おい、研磨!」
もうほとんどの部員が教室に戻ったのか、シンと静まり返った廊下に、微かな人影が揺れる。黒尾さんが声を掛けた方向を見ると、音駒の孤爪君の姿が。
「……クロ」
「どーしたよ、こんな所で」
「トイレ。クロこそどうしたの」
孤爪君が、目線だけで私を見る。反射的に会釈すると、孤爪くんも返してくれた。
「方向音痴なドジっコ烏野マネージャーを運搬中」
「ちょっ…黒尾さん!」
愉快そうに言う黒尾さんに反論しようとした時、ーーー背後から突然、切羽詰まった足音が響く。
驚いて振り返るとそこには、影山くんの姿があった。私の心臓は、大きく跳ねる。
「あれ?オマエは、烏野のイチネンの−−−」
「名前さん!そのジャージ」
黒尾さんの言葉なんてまるで耳に入らなかったかのように、影山くんは言葉を遮って私の着ているジャージを指差す。
突然の事に、孤爪君も瞳を丸くしている。
こんな影山くんは、見た事が無い。
その表情は、ひどく悲しそうで−−−そしてそれ以上に、怒っているように感じた。
「あ、コレ…外が寒くて、黒尾さんが貸してくれて」
烏野のジャージと素材もさほど変わらないのか、着ていて違和感が無く、借りている事をすっかり忘れていた。そうだった、返さなくちゃ。
私がジャージを肩から下ろして脱ぎ掛けると、影山くんがそれを奪うように取って黒尾さんに突き返した。黒尾さんが唖然とした表情でジャージを受け取る。
すると今度は、影山くんが自身の烏野ジャージの上着を脱いで私の肩に掛けて。そしてそのまま、私の肩を抱いてグイと引き寄せた。
「この人、ウチのマネージャーっスから」
私の肩に触れている、影山くんの左手にグッと力がこもる。
一体、何が起きているのか、思考が追いつけずにいる私は、影山くんの胸で瞳を瞬かせるしかなかった。
「俺が、部屋まで送ります」
「へ……ちょ、ちょっと影山くんっ」
そのまま強引に手首を引かれて行く。
その場に取り残されてしまったであろう黒尾さん達の事も気掛かりだけど、ひどく怒っている影山くんが不安で仕方なかった。
「え…クロ、何あれ」
「んー。『鈍感ドジっコ烏野マネージャーの名前ちゃん 』と、彼女曰く『真面目で誠実な後輩』。ちなみに後輩クンは、独占欲がつよめ。ってトコ?」
「はぁ…?何その、ゲームキャラの肩書きみたいなの…」
*
無言のまま手を引かれ、私たちは夜の校舎を進んだ。影山くん、と時折呼びかけても、反応が無い。
その後ろ姿からは、表情までは読み取れないけど…さっきの、影山くんの顔。
すっごく、怖い顔してた。
あんな顔をさせてしまったのは…おそらく、私。
私たちはそのまま、マネージャーの使用させてもらってる教室の前に着いた。
廊下は、シンとしたままで。
部屋の中に潔子さんや仁花ちゃんが戻っているかどうか、扉の向こうには気配も無くわからなかった。
「−−−ごめんなさい、影山くん」
「…何が」
「音駒のジャージを着た事…?烏野のマネージャーとして軽率だった」
私の手首はまだ、彼に掴まれたままで。
反対の手で、肩に掛けてもらったジャージに触れる。その影山くんのジャージから、ふわりとやさしい香りがした。
この香り、どこかで−−−ああ、そうか。
影山くんのお家に行ったときに、感じた香りだ。
「そんな事じゃ、ないっス」
ゆっくりと振り返って、影山くんが言った。
「名前さん は…あの人の事、好きですか」
「黒尾さん?えっと、良い人だとは思うよ」
「付き合ってるんですか」
「そんな、まさか!」
「じゃあ、なに話してたんですか」
影山くんの表情は、依然として厳しいままだった。
私はすこし怯みながら彼の問いに答えたけど…最後のその質問にだけは、答える事ができなかった。
「俺に言えない事、ですか?」
「相談に、乗ってもらってたの」
「相談……?どんな事っスか」
「ごめんね…言えない」
「そうっスか…そう、ですよね。俺はただの後輩だし、言えない事だってありますよね」
−−−ふっ、と影山くんの表情から険しさが抜ける。
そして掴まれていた手が、ほどかれてしまう。
手首は、自由になったはずなのに。
なぜだか、心はすごく不自由だ。
次の瞬間。ふわり、影山くんの身体が近づく。
咄嗟に影山くんのお部屋での事を連想してしまって、心臓がドキンと跳ねた。
思わず足を一歩引いて後ずさると、すぐ後ろに壁があったようで、私の背中が壁にぶつかった。
そんな私を、影山くんはまるで閉じ込めるように、両腕を壁に着いた。
私の顔の横には、彼の手。
身動きがとれなくなって、顔を上げる。
そこには影山くんの顔が、すぐ近くにあって。
−−−その、すごくすごく切なげな表情に。私の胸は強く、締め付けられた。
「…名前さんはただ、音駒のキャプテンとしゃべってただけ。わかってます。たぶんホントに、それだけだって。それなのに、なんでっスかね。俺……」
押し殺したような声で、影山くんが呟いた。
「俺に相談なんか、一度もしてくれた事無いのに…とか。他のヤツの服着てんの、面白くねぇとか。あんな顔、誰にも見せてほしく無いとか。名前さんが俺だけを…見ててくれれば良いのに、とか……」
ゴン、と音を立てて影山くんが自分のおでこを壁に当てる。
でもその壁は、私の耳元にあって。影山くんの声が、うんと近くで響いた。
息が、かかるような距離で。
…そんな事、思っていたなんて。
私は、どうかこの心臓の音が影山くんに聞こえませんようにと願った。
「…言ってる事もやってる事も、どうかしてる…わかってます。あのキスの事だって、そうだ。無理やりになんて、絶対にしたくなかった…だから、忘れてほしかった。俺って、こんなばっかっスね。中学の時の事だって、せっかく名前さんが許してくれたってのに…。誰よりも大事なのに…いっぱいいっぱいになって、一緒にいたって傷つけてばっかりだ」
震える声でそう言う影山くんが、どうしてだかすごく小さく見えて、悲しくて、愛しくて、胸がぎゅうぎゅうと軋んだ。
知らなかったよ、そんなふうに思ってたなんて。
そんな理由であのキスの事、忘れてくださいって言ったなんて。
でもきっと、影山くんだって知らないでしょう。私、傷ついてばっかりじゃない。影山くんは、勘違いしてる。
小さな男の子みたいに肩を揺らす彼の事を、衝動的に私は抱きしめたくてたまらなくなって。
ゆっくりと背中に手をまわして、ぎゅうっと抱きしめた。
影山くんの身体が、ビクリと震えた。
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