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突撃!家庭訪問



部活帰り、買いすぎだと研磨に呆れられながらドラッグストアで買った見舞いの品が詰まったビニール袋を片手に、名前の家のインターホンを押す。すると、数秒も空けずに直接玄関の扉が開いた。

「あら、鉄くん! 久しぶり、また背伸びた?」
「お、お久しぶりです」

玄関を開けながら快活な笑顔を浮かべて出迎えたのは、名前の母親だった。
おばさんと名前は顔の造りがよく似ている。名前が大人になったらきっとこんな顔立ちになるんだろうなと俺は思っている。

「あの、名前のお見舞いに来たんですけど」
「部活帰りにありがとうね。上がっていって!」

おばさんもちょうど今帰ったところだったのか、玄関には俺が持っているのと同じドラッグストアの青いレジ袋が転がっていた。促されるままに靴を脱ぎながら、転がる袋の中をちらりと覗く。スポドリにプリン、パウチに入ったゼリーに冷えピタと、見事に俺が買ったものと中身がかぶっている。そりゃそうだよな。親が忙しいと言えど一人暮らしじゃあるまいし、と買いすぎたことを少し後悔する。

「なんかあの子、東京に戻ってきてから暑さに弱くなっちゃったみたいでね。毎年夏バテしちゃうのよ。宮城が涼しかったせいかな」
「小学生のころは隼人のが弱かったっすよね」
「そうそう、よく覚えてるね」

ほらやっぱり、とここにはいない芦屋のむかつく顔を思い出しながら、おばさんに続いて居間に入る。

「これ、名前に。あと弁当箱忘れてったんでこれも」
「あー、わざわざごめんね。あの子、しっかりしてるのにちょっと抜けてるとこあるのよね。あの人に似たのかな」
「……おじさんすか?」
「そうそう、運動が苦手なのもあの人のせい。頭がいいのは私のおかげね。……ああでも、料理の腕はあっちに似てくれて助かったわ」

おばさんはそうふざけたように言って軽く笑う。離婚してからも、こうやって軽く話題に出せる程度の関係ではあるらしい。
おばさんとあいつは、外見はともかく、内面はあまり似ていないなと思う。おばさんはさばさばしていて、竹を割ったような性格をしている。名前もまあ、そういうところもあるし昔はおばさん似だったと思うけど、もう少し内向的なタイプだ。
俺の見舞いの品と自分で買ってきたものを冷蔵庫に詰め終わったおばさんは、くるりと振り向いて俺に向き直ると、冷却枕を差し出した。

「鉄くん、多分昼間から氷枕そのままだと思うから、替え持って行ってもらってもいい?」
「えっ」
「あの子の部屋、分かるわよね?」
「あ、はい、まあ……」

俺の戸惑いをよそに、おばさんはじゃあよろしくねと階段に追い立てる。数年のブランクがあるといえど、何度も遊びにきたことがある家だ。部屋の位置くらい覚えてるけど。
ガキの頃から恥ずかしいところだって見られている上に、好きな子の母親である彼女の頼みを断れるはずもなく、俺は名前の部屋の扉の前で立ち尽くしていた。
ガキの頃は何度か入ったことがある。だけど今はお互い高校生で、思春期なわけで、好きな子の部屋に好きな子が今まさに寝ているって状況で、部屋に入ることの難易度はあまりに高すぎるだろ。え、ていうか入っていいのこれ? いやでもおばさんに頼まれちゃったし、やっぱ無理でしたって戻ったらそれはそれでまるで俺が下心あるみたいだし、そりゃ下心がないわけがないんだけどそういう意味じゃなくて。
いっそ起きていてくれたらと願ってノックをするも返事はない。ああ、くそ。

「入りまーす……」

ああくそ、なるようになれ。小さな声をかけて、扉を引く。
入って最初に五感が捉えたのは、名前の匂いだった。花だとか果物だとかに例えることのできない、名前本人としか形容できない甘い良い匂い。出窓に面したベッドの上で、小さな寝息を立てて名前は眠っていた。部屋の中は、家具の配置も置いてある小物もカーテンの色も、俺が覚えているものとはずいぶん変わっていて、歳月の流れを感じた。勉強机として使っているのであろうハイテーブルの上には、プリンのガラス容器が飾ってある。俺が三月にあげたやつだ。
規則的な呼吸で布団を上下させている名前の額には汗が薄くにじんで、前髪が張り付いている。熱がこもっている頬は赤く染まっていた。枕元のスポーツドリンクのペットボトルは空になっている。氷枕はすでに溶けきっていて、名前が身じろいで寝返りを打っても、水の音しか聞こえない。
暑くて少し払いのけたのか少し身体の上からずれている布団の下で、名前がジャージを着ているのが見て取れる。おそらく中学のときのものだろう、俺が知らない学校のジャージだ。左胸に書かれた刺繍に書いてあるのは、おばさんの旧姓である苗字ではない、おじさんの姓だった。

「……枕、替えにきたんですけど」

起こした方がいいのか、このまま寝かしてやった方がいいのか、おばさんに確認しときゃよかった。このままでは、こいつが起きるまでひたすらに寝顔を眺めてしまいそうだ。

「ん、ううん……」

嫌な夢でも見ているのか、名前は魘されている。体調悪いときって怖い夢見るよなあ、と思いながら、枕元へしゃがみこんだ。悪夢見てんなら起こしてやった方が良いのかな。
何度目かの寝返りの後、名前の腕がベッドの端へ飛んでくる。あわや俺の顔に裏拳をかまされる直前で、名前の手を片手で受け止めた。

「うお、あぶね……」

腕を掴まれたせいか俺の驚いた声のせいか、名前の瞼がぴくりと動き、ゆっくりと、うすく開いた。

「あ、わ、悪い……! あの、氷枕、おばさんが、」
「……てつ、くん?」
「……え、」

寝起きでぼんやりとした名前が口にした言葉に、思考が止まる。彼女にそう呼ばれていたのは、もうずいぶんと前のことだ。最後に呼ばれたのはたぶん、新幹線に乗る彼女を見送ったあの日。
また昔のように呼ばれるだなんて予想もしてなくて、思わず俺はずいぶんと間抜けな顔をしていたんだろう。呆けている俺よりもずっと早く覚醒した名前が、慌てて謝罪する。

「ご、ごめん。間違えた」
「いや、なんも間違いではないけど……」

名前の言う通り、俺は紛うことなき鉄くんだ。鉄くん。はい。
未だ少し呆然としている俺をよそに、名前が戸惑いがちに自分の手首を見る。

「手、あの……」
「っ、ああ、わるい!」

慌てて手を名前の手首から離し両手を上げ無抵抗の姿勢を取ると、空いた片手に持っていた冷却枕もつられて宙へ浮いた。
名前は腕をベッドについて上体を起こす。戸惑いの表情を浮かべながら、こちらを遠慮がちに見た。

「えっと、あの、なんで、黒尾くんがいるの……?」
「あー、見舞いに来たら、おばさんが氷枕持ってってやれって」
「そう、だったんだ。お見舞いありがとう……」

手ぐしで髪を整えている名前の耳の後ろに寝癖がついているのを、可愛いなあ、と思いながら無言で眺める。名前は俺の差し出す冷却枕を受け取り氷枕と入れ替えながら、こちらを見た。

「でも年頃の娘が寝てる部屋に男の子を入れるってどうなの……?」
「あー……。それは、その、ごめん」
「いや、ううん、こっちこそごめん。悪いのはうちのお母さんだから……」

名前が顔を手で覆い深いため息をついて、お母さんってば全くもう……と小さく呟く。それはたしかに思ったけど。本人の眠っている隙に寝顔をまじまじと眺めてしまった罪悪感で、俺は何のフォローもできない。
きっとおばさんの中では、俺は今でも小学生の鉄くんのままなんだろう。自分の娘を、ガキの頃から知っている近所の男子が邪な目で見ているなんて、想像もしていないのだ。

「喉乾いてない? スポドリあるけど」
「あ、い、いただきたいです」
「なんで敬語」
「な、なんとなく」
「あ、そう……。ちゃんと持った? 手ぇ離すぞ」

枕と一緒に持ってきていたペットボトルの蓋を開け手渡す。枕元のスポドリを飲み干したあと、何も口にしてなかったのだろう。見ていて気持ちが良いほどの勢いで、ボトルの中身が名前の喉に流れ込んでいく。

「夏バテだって?」
「うん。病院で点滴打ってもらったから、多分月曜日にはちゃんと学校行けると思う」
「ふうん、それならよかった。芦屋も心配してたぞ。毎年やってんだからいい加減学習しろってさ」
「ああ……。目に浮かぶ」
「それから今日弁当忘れってたろ。勝手に玉子焼き食ってたぞあいつ」
「玉子焼き、千枝いつも欲しがるの」

仕方ないなあ……と名前は独り言のように言って、穏やかに笑った。
芦屋の話をするとき、名前はいつも柔らかい笑顔を浮かべる。その表情に愛おしさを覚えながらも、反面、名前にそんな表情をさせることのできる彼女が羨ましくて仕方なくもある。俺のことを想っていつかそんな顔をしてくれたらいいのに、なんて思わずにはいられない。

「仲いいな、ほんとに」
「そりゃ友達だもん」
「誰かさんが早退するもんだから、あいつ教室でぼっち飯だったぞ」
「黒尾くんたちが一緒に食べたわけじゃないの? さっき、玉子焼きの話」
「お前の中では俺とあいつが仲良しこよしに見えてんの?」

今日の昼休みの騒動──、隣のクラスの女子が声をかけたが、彼女の機嫌を損ねて逃げていった、という話を、名前の話題が出たことは省いて説明する。俺の話に、容易にその光景が想像出来たのだろう名前は苦笑いを漏らした。

「お前くらいだよ。あの女と友達出来るようなやつ」
「……私もべつに、友だちが多いわけじゃないんだけど。千枝にもね、私以外にももっと仲良くできる相手がいたらいいなとは思うの。でも、私にだけ心を許してくれるのも、それはそれで嬉しい自分がいて……。私、性格悪いかな」
「そんなことないだろ」

名前が少し気を落としたような様子でそう言うものだから、つい食い気味に否定した。
俺だって、研磨に烏野のチビちゃんみたいな存在が出来たことは何より嬉しく思うが、幼なじみとして複雑でないと言えば嘘になる。なんだかんだ研磨の一番の理解者は自分だと自負していたからこそ、あいつの周りに人が増えていくことにほんの少しだけ寂しさを覚えていた。俺のは友情っていうか、親心が入ってるかもしれないけど。

それに何より、自分の大切な奴の、特別になりたいと思うのは、唯一の存在になりたいと思うのは。

「誰だって思うことだろ、そんくらい」
「恋人とかでもないのに、独り占めしたいとか、そんなの変じゃない?」
「……ふうん、苗字サンは恋人は束縛したいタイプなわけね」
「ちょっと。そういう話じゃないでしょ」

急に茶化した俺に、名前は眉を少しつりあげて不満そうな顔をする。
俺も、お前にそんな風に思ってもらいたいもんですけど。そう思っていることは心の奥底に隠して、おもむろにその場で立ち上がった。

「じゃあ元気そうだし、俺そろそろ帰るわ」
「あ、うん。わざわざありがとうね」
「おう」

立ち上がって名前を見下ろす。ベッドの向こうの出窓からは、はす向かいの俺の家が見える。中学年のころは、この部屋の窓際ならぎりぎり、全員自宅にいながら携帯ゲームの通信ができると研磨と隼人を入れた四人で遊んでいたことを不意に思いだした。
ああ俺、今名前のいる家にいるんだなあ、なんて今更な感想が浮かぶ。

「どうかした?」

立ち上がってそのまま動かない俺をベッドから見上げ、名前は不思議そうに首をかしげる。

「……六年前さ、この家、貸家に出してたじゃん」
「ああ、うん。お母さんたちも、それぞれマンション借りてたみたい」
「名前んちから全然知らない人が出てくんの、俺すげえショックだったんだよね」

名前が宮城へ引っ越して数か月後、この家は一時的に空っぽの空き家になって、それから、知らない人の家になったのだ。そのことに俺がどれほどの衝撃を受けたのかなんて、名前には知るよしもない。

「いっつも名前たちが出てきたドアから、全然知らないおっさんが出てくんの」
「おっさんって……。普通の核家族が借りてくれてたって聞いたけど」
「だから、名前がこの家にいてくれて、俺今すげえほっとしてる」
「……もう、鉄くんって言ったのは忘れてよ。それにこっちに戻ってきてから三年も経つのに今更でしょ」
「おかえり」

俺が真剣に安堵しているのも、冗談と思われている。かつて呼んでいたように下の名前を呼んだことも、さっきの仕返しだと思われている。
名前はなんにも知らない様子で、おかしそうに笑った。

「はいはい、ただいま」




名前の部屋を出て、閉じた扉に体重をかけ、ずるずるとその場にしゃがみこむと、そのまま深い深いため息をついた。自分の顔が耳まで熱くなっている自覚がある。
果たして俺は、名前の前で普通にふるまえていただろうか。いや出来るわけねえだろ。好きな女子の部屋だぞ。寝起きだぞ。可愛くて可愛くてたまらないし少し感傷的にもなったけど、同じくらい邪な目で見てしまうのは不可抗力だろ。熱のせいで少し潤んだ瞳でこちらをまっすぐに見てくるのに耐えられる十八歳男子が存在するか。危うく触れそうになったのを必死に理性で食い止めたのを誉めてほしい。この間の涙を見ていなかったら危なかった。

隣の部屋の扉が開く音がした。誰かなんて見なくたって分かる。ていうか部屋にいたのねお前。

「鉄くん、何してんの?」
「お前の姉ちゃんの見舞いに来たんですよ」
「それは分かるけど、なんで廊下で体育座りしてんの」
「察しろよ……」

小声で反論すると、隼人は呆れた目でこちらを見下ろした。
男の子なんだから仕方なくない? お前だってもうそういうの分かる年頃だろうが。十八歳男子には刺激が強すぎんだよ。

「……一応聞くけど手出してないよね?」
「病人に出すわけないでしょうが」
「病人じゃなかったら出してたの」
「……出すわけないでしょ、おばさんもお前もいんのに」
「誰もいなかったら出してたの」

出せるわけねえだろ。
もう答える気力すらわかず、自分の両ひざに額をがつんと打ち下ろした。廊下の空気は生ぬるくて、身体の熱はいまだ収まりそうにない。