小説
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好きなものしか好きじゃない




「この私がわざわざノートとってあげたんだから、感謝してよね」
「うんうん、ありがとね」

名前が毎年恒例の夏バテで早退してから数日後。
ようやく復活した名前は、休んでいた間の授業の板書をせっせと書き写している。
別にノートなんていくらでも貸してあげるし、休み時間のたびに写すんじゃなくって家に持って帰ったらいいのにと言ったけど、「そしたら千枝が勉強しないでしょ」と断られた。べつにノートがあってもなくても勉強するつもりはないんだけど、まあ名前のことだから私が勉強しない言い訳を作らないようにしたいんだろう。結果的に変わんないのに。
 
 お礼にと強請ねだって自販機で奢ってもらった期間限定のシトラスティー、予想以上に美味しい。これなら、授業中に眠らずサボらず、板書をちゃんと写した甲斐があったってものね。
そんなことを考えながら、名前がせかせかと動かすシャーペンの先を目で追いかける。名前の書く字は読みやすい。手書きの文字には性格が表れるというかなんていうか、いかにも『苗字名前っぽい字』って感じがする。
 
「あ、それ。今写してるとこ、たぶん次の試験出るって」
「えっ、ほんと?」

すでに記憶がおぼろげな授業をちょっとだけ思い出しながら言った私の言葉に、名前は慌ててシャーペンを赤のボールペンに持ち替えて『重要!!』と書き込む。

普段からノートを目の前で広げられているから知ってるけど、名前はいつも、板書だけじゃなくって、先生が口頭でした補足なんかもノートに残している。だから多分、板書を写しただけの私のノートだと最低限の情報にしかならないんだろうけど、流石に私にはそんな気力はないし、名前もそこまでは求めてこない。

「私が休んでいる日に限って、授業で大事なところやる気がする……」
「それは名前が毎年テスト直前のこの時期に夏バテするからでしょ」

去年も一昨年もこうしてノートを取ってあげた覚えがある。毎回決まってこの時期の、一学期末の直前だった。

「あーあ、期末試験まであと少しかあ。受験勉強と試験勉強の両立なんて無理だよ……」
「期末が近いってことは、つまりもうすぐ夏休みってことでしょ。ね、休みの間、どこ遊び行く? 私、新しい水着買ってプール行きたい。海はべたべたするから嫌」
「もう、何言ってんの。高三の夏にそんなとこ行ってる暇ないでしょ」

私の提案は、生真面目な名前にすげなく断られる。予想通りの展開。だけどこのあと私が反論するのも、名前なら想定しているはずだ。

「なあに、受験生だからって毎日勉強する気? 一日勉強しなかった程度で落ちるんならそれが実力ってことでしょ?」
「千枝の場合、息抜きが一日じゃ済まないでしょ……」
「じゃあ名前、夏休みの間どこにも遊びに行かないの? ずーっと家にいるつもり?」
「流石にそういうわけじゃないけど……」
「でしょ? ならいいじゃん」
「でもせいぜいおばあちゃんちに泊まりに行くくらいだよ。勉強道具だって持っていくし」
「へえ。名前のおばあちゃんちって、どこだっけ。宮城、宮崎? たしか北の方だったよね。寒いのってどっち?」
「宮城ね。千枝ほんと地理苦手だよね」

名前の呆れた声を聞き流しながら、手元のスマートフォンで宮城県のお土産の有名どころをチェックする。ふんふん、けっこういいじゃん。

「……うん、私のお土産は牛タンと喜久福だけでいいよ」
「欲張り」
「あっ、あとね、これ、この飴も。このインスタの投稿の、粉の中に埋まってるやつ」
「あー、これ冬限定のやつだよ」
「え〜」

残念。食べたかったのに。まあでも、また名前が宮城に行くときに買ってきてもらえばいっか。
少し萎えたけど、気を取り直してお土産特集のサイトを表示したままの画面をスクロールする。牛タンとか喜久福って冷蔵? 冷凍かな。消費期限短そう。まあ何とかなるでしょ。日持ちしなくたって、名前の家に受け取りにいけばいいし。名前はわざわざ自宅まで押しかけた相手を早々に帰らせたりはしないだろうから、そしたら口八丁で丸め込んで誘い出せば一日遊びに連れ出せるはずでしょ、たぶん。

「じゃあお土産は買ってきてあげるから、ちゃんと勉強を──、」
「ねえ、苗字さぁん」

 試験前は勉強しなさいなんて面倒な話題に行きそうだったのを何とかしてはぐらかしていると、ふいに横からクラスメイトの女子が名前を呼んだ。名前はぱちぱちと二回まばたきをして、声の主へ顔を向ける。すぐにお人好しの笑顔を浮かべたけれど、一瞬、ほんの少しだけ動揺しているように見えた。

「──、うん、なあに?」
「あのさあ、リーディングの和訳見してくんない? 五限で当てられんだけど、忘れちゃってさあ」
「あ……、うん。私ので良ければ……」

へえ、私にはいつも「分からないところは教えてあげるからちゃんと自分でやりなさい」って言うくせに、そいつには見せるんだ?

そんな恨めしい気持ちを視線に込めて、机に頬杖をついたまま、名前を上目遣いで見つめる。
名前は押しに弱いし私に甘いけど、実際は私のわがままをなんでもかんでも聞いてくれるわけじゃない。勉強だって、解き方やヒントを教えることはしても、答えをそのまま教えたり、ノートを見せたりはしないのに。

ていうか、ついこないだまで休んでた人間に借りるかな普通。いや私も多分「見せてよ」って言うけど。それは私たち二人の間柄だからじゃれ合いとして成り立つのであって、このへらへらと薄笑いを浮かべているクラスメイトは、べつに名前と親しいわけじゃない。多分どっちかといえば「真面目ちゃん(笑)」とか「苗字さんは先生のお気に入りだもんね(笑)」とか思ってるタイプだ。その辺りの察しの良さは、人より長けている自負がある。名前だって、この女子が普段から自分に対して好意的じゃないことにはきっと気がついてるはず。
それなのに、そんな相手に対して、借りる方も借りる方だけど、貸す方も貸す方じゃない?名前は私の視線に絶対気がついてるくせに、知らんぷりして鞄の留め具に手を伸ばす。
 
「もし訳間違えてたらごめんね」
「苗字さんなら平気でしょ。昼休み終わるまでには返すから──」

気に入らない。お互いうわべだけの仲良しこよしをするクラスメイトと名前、二人とも。

「だめ」

ノートを手渡そうとする名前の手の上に、自分の手を重ねて止めた。二人を遮る行為に、両者は驚きの目でこちらを見つめる。

「……は? え、なに?」
「ち、千枝?」
「聞こえなかった? だめ。私が先に見せてもらう約束したから」
「え……」
「なに、文句あるの?」

私のこの性格はクラスメイトなら間違いなく知っている。その上、人からの押しに弱い名前がとりわけ私に甘いのも周知の事実だ。
私が下から睨め付ければ、クラスメイトの女子はたじろぎつつ「じゃあ他の人に借りるからいいや」と去っていった。
おととい来やがれっての。

「千枝、あの……」
「なに?」
「……約束、してないよね」
「してないけど? 名前が私に課題見せてくれたことないでしょ」
「…………」

私の言葉に、名前はきまり悪そうにうつむく。そんな、私が意地悪言ったみたいに落ち込まなくたっていいじゃん。べつに今のは事実を言っただけなんだから。

「私だけじゃない。さぼってるやつ相手に、ノートも課題も、いつも見せたりしないもんね」

教科書を忘れたと頼られたらよく知らない相手にだって貸し出すし、よその委員会の手が足りないと言われれば自分の都合は後回しで手伝いにいってやる。お人好しだけど、名前にだって名前なりのルールがあって、相手のためにならないと判断したことは断るはずだ。だけど。じゃあなんであのクラスメイトには見せる選択をしたのか、っていう話。

「それで?」
「え、それで、って……」
「今回に限って見せる選択をしたのはどうして?」
「……忘れちゃったって言ってたし、ちゃんとやってきたけどノート忘れちゃったのかなって」
「ふうん」

名前は唇を噛んで、私の視線から逃れるように目を逸らす。可哀想になるくらい、嘘をつくのが下手くそだ。

「はぐらかすんならこれからは毎回名前の宿題写させてもらおっと」
「えっ」
「だめなわけないでしょ? その辺のクラスメイトにだって見せられるんだから、親友の私が見せてもらえないなんておかしいじゃない」

名前は私の押しに弱い。どう押せば陥落するか、誰よりも私が熟知しているからだ。
私の追求から名前が逃れられたことはない。今回も、私の勝ちは明白だった。



「…………ばっかじゃないの?」

教室ではちょっとという名前の希望で、わざわざ人の少ない渡り廊下に移動してまで事のあらましを聞いたのに、思わず大きな声で呆れ返ってしまう。

誰かを責めるような口調にならないよう気を遣い、何重にもオブラートを包み、途中で何度も注釈を入れる名前の話は長ったらしくて面倒だった。
要するに、あのクラスメイトが名前のことをやれ男好きだのやれ出しゃばりの良い子ちゃんだのと陰口をべらべら話しているのを聞いてしまった、という話だ。まあ良く思ってないのは察してたけど、陰でこそこそ言って、しかもそれを本人に聞かれてるとも知らずに自分が困ったときには利用しようなんて都合の良い。
そんな奴、ビンタでもなんでもしてやればいいのに。

「さっき名前を止めたとき、あいつの手はたいてやればよかった」
「怒ってくれるのは嬉しいけど、暴力はちょっと……」
「そんでそういう経緯があって、名前はなんでそいつにノート見せるかな」
「だって、揉めたくないし、断ったらまたなにか言われそうだし……」
「『予習してこなかったから委員長にノート写させろって頼んだのに断られた!意地悪!』って? 言うだけ周りに恥をさらすだけだと思うけど」

まあそういう馬鹿な話でも盛り上がる馬鹿はいるものだ。馬鹿は馬鹿な話が好きだから正しいとか間違ってるとか関係ないし、自分が楽しい方に釣られてしまう生き物。馬鹿に生まれてかわいそう。

「……みんなが、千枝みたいだったらいいのにな」
「急に何?私はこの世に一人いれば十分でしょ、贅沢言わないの」
「そうじゃなくて……。取り繕ったりしなくて、表裏がなくて、みんながそうだったらいいのになってこと」

昨日自分を陰で嘲笑っていたクラスメイトが、今日は親しげに自分に話しかけてくる。気持ちの悪い光景だ。反吐が出る。
私だったらそうなる前に──、自分の陰口を言われてるのが聞こえた時点で、その場に乱入して言い返す。手も足も出すと思う。あとからなにを言われようと何度だって反撃するだろう。私は私のことを好きじゃない人間なんて嫌いだし、嫌いな人間からどれだけ嫌われようとどうだっていいから。
名前もそんな風に考えたらいいのに、どうしてああいう場面で親切にしようとしちゃうんだろう。

「その場で取り繕ったのは名前もでしょ」
「それは、そうだけど……」
「気にしてたなら嫌味のひとつでも言ってやれば良かったのに」
「それが出来たらこんなに苦労してないよ……」

名前はその場にうずくまって自分の膝に顔を埋める。普段ならスカートの裾を汚すからってそんなことしないのに。これは相当落ち込んでるっぽいな。

「……それにあのとき、もう見せちゃったほうが楽だなって思っちゃった」
「楽?」
「千枝相手だったら、自分のためにならないからってちゃんと断れるよ。もし分からないとこがあったら教えるし。だけど……。あの子とそうやって一緒に勉強するなんて無理だし、正直もう本人のためにならないとかどうでもいいかな、って……」

へえ。
名前の発言に少し驚いて目を見開いた。
拒絶、諦め。表面上の関係でかまわないと見切りをつけたからこその親切な対応。お人好しの名前にしては珍しい。

「そう思っちゃった自分が嫌で自己嫌悪してるのもちょっとある……」
「いいじゃん、べつに。自己嫌悪なんかする必要ないでしょ」

驚きこそしたけど、私は名前がその考えに至ったことは喜ばしいと思う。
いくら人当たりの良い名前でも、みんなと仲睦まじくきゃっきゃうふふなんて出来るはずがないし、する必要だってない。合わないやつ相手には、ほどほどの距離感を保つなり、私みたいにとことん反発するなりでいいの。名前は人に嫌われまいと気を張る節があるから、その発想をしただけでも大きな進歩だ。
私の肯定的な言葉に、名前は少しほっとしたような顔をした。

「名前が男好きじゃないことは私が誰より知ってるし、あいつみたいなのがいたとしても、名前のことは私が一番好きよ。私から好かれてれば、それで充分でしょ?」
「……励ましてくれてる?」
「励ましじゃなくて事実を言ってるだけ。私からとそのへんのその他大勢からの好感が同価値なわけないでしょ」
「千枝のそういうとこ、本当に好き」
「何を今更」

いつも通りとまでは行かずとも、さっきよりは少し元気そうに笑った名前に、私も微笑む。
名前が困ってあたふたしてるのを見るのは好きだけど、ああいう顔は好きじゃない。

「千枝」
「なに?」

立ち上がってスカートの裾についた埃を払いながら、名前が私の名前を呼ぶ。

「ありがとね」
「帰りにクレープ奢ってね。ダブルベリーチーズケーキスペシャル」
「ここぞとばかりに高いの頼むじゃん」

ぶつぶつ言いながらも、義理堅い名前はきっと駅前のクレープ屋で一番高いメニューをご馳走してくれるだろう。

それにしても、『男好き』、ね。
いくら穿った見方をしたとしても、クラスの男子に事務連絡くらいしか話しかけることのない名前に対して、そんな印象抱く方が難しい。
まあ、原因はおおかた予想が付くけれど。