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迷宮入り玉子焼き事件



四限の体育を終え、グラウンドから教室へ戻る。体育館で授業を行っていた女子は男子よりも早く教室に戻っていたらしく、多くのクラスメイトがすでに教室で弁当を広げていた。
この状況で制汗剤を教室で使おうものなら総スカンを食らうのは間違いない。初夏の屋外での運動で全身汗だくになっていた俺たち野郎共は、顔を見合わせて廊下での着替えを観念する。高校生活も三年目ともなれば、異性といえどクラスメイトの性格傾向くらいはお互い把握したもので、我らが五組の女子の大半は気が強かった。誰だって不興は買いたくない。

廊下を歩く女子に「ムサい」「見苦しい」「つーか邪魔」の言葉を投げつけられながら、ほうほうの体で着替えを終え教室に戻る。いつものように無意識に教室を見渡して名前の姿を探してしまったが、彼女の席は空っぽだった。

「黒尾、飯お前の席で良いよな。俺の席女子に使われてた」
「はいはい」

夜久の言葉に生返事をしながら、じゃああっちの机かと窓際へ視線を向ければ、芦屋が窓際の自分の席に座って一人、弁当箱を出しているところだった。

芦屋千枝。自他ともに認める名前の親友だ。長所は外見、短所はそれ以外のすべて。具体的には性格と口と意地がとりわけ悪い。そんなやつだから、他人からの彼女の評価は二極化していた。よく知らない人間からは絶大な好意と憧れを、内面を知る人間からは反感と苦手意識を向けられても、当の本人はいつだって有象無象の評価など気にせず気ままにふるまっている。
そういうわけで、芦屋が名前以外とつるんでいるところを俺は見たことがない。正直、タイプの違う名前と芦屋がなぜ仲が良いのか分からないが、たぶん男には分からない女の友情ってやつがあるんだろう。今日は珍しく一人でいるようだが、名前のことだからまた雑用でも押し付けられたってところだろうか。

そんな、芦屋が一人というタイミングを見計らったのか、隣のクラスの女子が果敢にも彼女の正面に立ち、声をかけていた。

「ね、ねえ芦屋さん。一緒にお昼食べてもいい?」

おそらく顔見知りですらないであろう女子の言葉に、芦屋は気だるげな視線を向けると、「好きにしたら」と一言返した。女子は破顔すると、芦屋の前の席の椅子を拝借して正面に腰掛ける。

「ありがとー! 芦屋さん可愛いからさ、実は前から仲良くなりたいなって思ってたんだよね!」
「ふうん……、顔目当てなわけね」
「やだ、芦屋さんも冗談言うんだ」

鼻で笑うような芦屋の言葉に、女子は愉快そうに笑った。二人のテンションの高低差に、外野であるこちらが落ち着かない。たぶん教室にいる人間の多くが、冷や冷やして彼女たちを見守っていた。

「芦屋さん、いつも苗字さんといるから、なんか二人の間邪魔しづらいなあってなかなか話しかけられなくて」
「……なにそれ、名前が悪いっていうの?」
「え? ちがうよ」
「じゃあ誰が悪いの、私?」
「私、そういうつもりじゃ……」
「それじゃどういうつもりなのか、丁寧に教えてもらえる? わざわざ名前が早退したタイミングでそうやって話しかけるって、どういう意図があるの?」

冷笑していたかと思えば、長い手足を組んで途端に不機嫌を露わにして、鋭い眼光を向ける芦屋に、女子は謝罪を口にし、逃げていった。憧れを抱いてわざわざ単身でよその教室まで足を運んだのであろう女子の好意は、三分クッキングのようなスピード感で粉々にされてしまったようだ。

「美人の怒り顔って超怖えーな……」

俺の隣で紙パックの牛乳を飲んでいた夜久が、本人に聞こえない程度の声でぼそりとつぶやいた。その様子に、一年のとき夜久がほんのり芦屋に惚れていたことを知っている俺は少し同情してしまう。小さくてショートヘアで、外見だけならこいつの好みどストライクだ。
というか、それよりも。

「なあ芦屋、苗字早退ってなんで?」

机を三つ挟んだ場所に座る芦屋に声をかけると、彼女はだるそうに振り向いた。「お前ほんと苗字にしか興味ねえな」という夜久の声は無視だ。

「体育の途中でくらくらするって言いだしたの。保健室行ったけど、そのまま病院行って帰るって」

ほら、と言いながら芦屋はスマホを少し操作してこちらへメッセージアプリの画面を向ける。たしかにそこには『早退する〜』と書かれた吹き出しと、グロッキーな顔になっているキャラクターのスタンプが送られていた。

「そういう女子同士のやり取り、俺たちに見せていいのかよ」
「見せていいところしか見せてないから平気」

夜久と芦屋の会話を尻目に、俺はその画面をじっと見る。俺とのやり取りではそうそう使われることのないスタンプだったり、気の抜けた砕けた口調だったりが、なんだか悔しい。

この暑さだし、くらくらするってことは熱中症かなにかだろうか。名前ん家は親も忙しいし、家に帰っても隼人が帰るまで一人だ。体調くずしてるときに家に一人って心細いんだよな。大丈夫かよあいつ。

「黒尾、舐め回すように画面見てんなよ。気持ちわりい」
「待ってやっくん、なんか当たり強くない?」
「お前こないだから苗字に惚れてんの隠さなすぎなんだよ」
「というかこいつ隠す気ないでしょ」
「まあ無いけど」

俺が名前に片想いしてるのが他のやつにバレたところでべつに困らないし、むしろ外堀から埋められるかなとは思ってる。トンビにさらわれては敵わないから、こうしてアピールしておいて損はないだろう。

「あ、そうだ。黒尾にちょっと頼みたいんだけど」
「俺に? なに?」
「名前が忘れていったお弁当箱、届けてよ」

芦屋が片手でスマホをいじりながら、教室の中央あたりにある名前の座席を指差す。つられて机を見れば、普段横にかけられているスクールバッグは無くなっているものの、ランチバッグがそのままになっていた。立ち上がって名前の机からランチバッグを手に取る。白いキャンバス生地に猫のキャラクターが描かれたその袋の中には、小さい弁当箱が入っていた。

「……俺が届けていいの?」
「なに、不服なの? あんた家近いんでしょ」
「そりゃまあ近いけど」

俺は忘れ物を届けるという正当な理由を持って名前の見舞いに行けるわけで、芦屋の頼みを断る理由はもちろんない。だが、芦屋の目的が読めない。
悪評高い上、実際に性格がかなり自己中心的なこいつが、俺と名前の仲を面白がっているのは間違いない。二人の仲を応援してくれているのかと思えば、名前の前で俺の悪口を言ったりもする。何がしたいのか分からない。この発言に何が狙いなのかと訝しんでしまうのも仕方のないことだ。

「べつに今日はなんも企んでないわよ。今日金曜だし、この季節に中身の入ってるお弁当箱放置したらまずいでしょ」
「それは確かにやばいな」

普段基本的になんか企んでんのは否定しないわけね、と思わず苦笑いがこぼれる。

「名前も、いつも夏の直前に体調くずすんだからいい加減学習したらいいのに」
「……そうなの?」
「知らないの?」

俺の記憶では、かつて暑い時期に体調をくずしていたのは名前ではなく隼人の方だったはずだ。初耳の話にはてなを浮かべれば、途端に馬鹿にしたように鼻で笑われる。
俺の記憶の中の小学生の頃の名前と、ここ数か月で再び知った名前の姿。芦屋が知っている、高校生になってから三年間の名前の姿。悔しいけれど、たぶん後者の情報の方がよっぽど多くて濃密で、だから今は、俺よりも芦屋の方がずっと名前を理解しているのだろう。本当に、滅茶苦茶に、死ぬほど悔しいけれど。

「食欲ないってご飯残して免疫下げて熱出して、って毎年やってるんだから」

呆れたようなため息をつきながら窓の外を見る芦屋の顔は珍しく少し和らいでいて、言葉とは裏腹に、名前を心配しているのだと容易に察することが出来た。
なんだかんだでこいつ、名前のこと大事にしてるんだよな。さっき隣のクラスの女子の言葉にキレていたのも、まるで名前が邪魔みたいに言われたからだ。そう思うと、多少はこいつも純粋に性格が悪いだけではないのかもしれない。
 
「まあでも? 黒尾くんは名前にわかだから? 知らなくても仕方ないかなー?」
「はあ? こちとら古参なんでご新規さんは調子乗らないでもらえます?」
「芦屋もあんま煽ってやんなよ。こいつだってヘタレなりに必死なんだから」
「やっくん毎回ちょっと一言多くない? 多いよね?」
「ふん。じゃ、名前によろしくね。…………あ、やっぱちょっと待って」

これにて停戦かと思いきや、ふと思い出したように芦屋は俺に押し付けた名前の弁当箱を我が物顔で開く。何事かと黙って見ていると、彼女は弁当箱の中の玉子焼きを指でつまみ口に放り込んだ。

「うん、美味しい」
「おっ前、ほんと自由だな……」
「べつにいいでしょ、どうせ夜には捨てちゃうんだし。名前の作る玉子焼き美味しいもん」
「……これ、苗字が作ってんの?」
「そうだけど? 名前、いつも自分でお弁当作ってるよ」

芦屋の言葉に、思わずじっと弁当の中を凝視する。玉子焼き、えのきのベーコン巻き、ブロッコリー、人参のたらこ和え。色とりどりのおかずが綺麗に詰められている。これ全部名前が作ってんの?

「……黒尾、気持ちは分かるけどさ」
「分かってる」
「手作り弁当を自分の知らないうちに男子に食われてるって、気味悪いと思うぞ」
「分かってるから言わなくていい夜久」
「視線が未練たらしいんだよ」
「未練がましくもなるでしょ! 見ろこいつの優越感にひたった顔!」

目の前の芦屋は俺へ見せびらかすかのように「あーおいしー」と声に出している。ようにっていうか、確実に見せびらかしている。明らかに俺への挑発だ。
芦屋におかずを一口取られて怒りながらも、「もう仕方ないなあ」と許す名前の姿は想像に難くない。分かっている、この行為は芦屋だから許されるのだ。俺が名前の弁当をつまんだら、引いた顔で苦笑いを浮かべられるのが関の山だろう。

「やっぱもう一個食べとこ」
「お前ほんといい性格してんな」
「そんなに褒めないでよ。照れちゃうじゃない」
「……せめて甘いかしょっぱいかだけ教えてくんない?」
「食べたことないのに味だけ知ってるの、普通にキモくない?」

言い返せない。
三切れあった玉子焼きを食べつくした芦屋は舌で唇の端を舐める。ちくしょう、美味そうに食いやがって。

「この人参の付け合わせも美味しいんだけど、流石にお腹いっぱいだから今日は食べられないかなあ。はあ、残念……」
「お前はなんなの? 何がしたいの?」
「そんなの決まってるでしょ。嫌がらせ」

前言撤回。こいつがいくら名前を大事に思っていようがなんだろうが、やっぱり性格が悪いし自由すぎる。ただただ自分の好きなように生きてるだけだ。
名前といつか結婚式を挙げたとしても、友人代表のスピーチは絶対こいつにだけは任せてやらねえ。今俺は心に決めた。