小説
- ナノ -




食らえ渾身の猫だまし



放課後の教室から、自分の名前が聞こえてきた。

「ね、苗字さんってさ」

いつものように教師から頼まれた雑用を終えて、荷物を取りに戻ったタイミングだった。
扉を開けようと引き戸にかけていた手がとっさに止まる。
そうっと背伸びをして、扉上部にはめられたガラスの小窓から教室の中をのぞきこめば、クラスメイトの女子が数人、一つの机を囲んでおしゃべりしていた。彼女たちとはとくに仲が良いわけでもない。とくに悪いわけでもない、と思う。

「いや、良い子じゃん、めちゃくちゃ。嫌いとかじゃ全っ然ないんだけど、なんか私苦手っていうかさ……」

あ、はい。そういうやつ。女子として生きてきたなら、これくらい誰だって一度や二度は経験したことがある。
これは愚痴だから、陰口ではない。断じて悪口ではない。「嫌いじゃないけど」は枕詞にすぎないのだ。あの子が嫌いと直接言ってしまえば、それは悪口になる。けれど、苦手だとか、彼女のああいうところは困るというていにしてしまえば、それは陰口ではなく、ひとりの被害者の嘆きになる。
居心地悪さに下唇を軽く噛んでうつむくと、自分の上履きが目に入った。「苗字さん」は学年に一人。下の学年は知らないけれど、話題に上がっているのは自分に間違いないだろう。

「ええー、どしたどした。話聞くよ?」

言い出した女子の周りが、好奇心を隠しきれない声色で心配をする。話が聞きたくてたまらないんだろう。私はこの空気を知っている。幾度もこの空気を感じたことがある。空間の中でも、外でも。

どうしたものかな。この場で私が取れる手段は二つだ。なんにも気が付かないふりをして、教室に入ってそそくさと鞄を回収して帰る。私は聞かなかったことにするから、彼女たちも聞かれなかったことにして、明日からまたクラスメイトとして過ごしてくれたらそれでいい。
もう一つは、この場をそっと立ち去って、彼女らが下校したあとに教室へ戻るという選択肢だ。これが一番楽な方法なのは間違いない。けれど、お昼に弟から家の鍵を忘れたと連絡を受けているし、あんまり遅くなりたくない。それにしても本人の鞄が机の上にあるのに、どうしてそういう話を始めちゃうかな。
人によっては、このまま教室に突入して、自分の陰口を言う彼女らへ激昂する、という選択肢もあるのかもしれないけれど、少なくとも私にはできないし、したくない。
私が廊下でひとり悶々と考えているうちに、教室の中は楽しそうに盛り上がっていく。

「この間私日直だったんだけどね、なんか先に苗字さんに黒板消されてて。私さぼったみたいになっちゃってさあ」
「ああ……、そういうの困るよね。あっちは善意なのかもしれないけど」

善意なのかも、ってなんだろう。悪意でやったと思われてるってこと? 日直が黒板を消し忘れているなんて日常茶飯事だから、あの人の代わりにやってあげた、なんて思ったことはほとんどない。でも、そうか。そういう風にとられちゃうこともあるよね。罪悪感を与えてしまうよね、出しゃばりだったね、ごめんね。

「学級委員もさ、やりたくないですーみたいな顔して結局三年間もやってんでしょ?」
「あー、まあ先生のお気に入りだしね」
「どうせ内申目当てでしょ。指定校推薦でも狙ってんじゃないの?」
「この間の球技大会も、実行委員よりも出しゃばってたよね」
「出しゃばってたって! ちょっと言い方!」

それは違う。学級委員長なんて肩書も、先生からのお気に入りも、まとめ役なんて立ち位置も、全部いらない。欲しいんだったらみんなあげる。
けらけらと嗤う彼女たちはとても楽しそうで、扉一枚隔てた空間なのに、こちらとあちらでは空気の温かさが全く違う。寒いのに、身体が熱い。
噛みしめた口の中にいやな唾液がたまっていく。それを飲み込んでしまえば、静かな廊下に音が響いてしまいそうで、嚥下することが出来ない。

「てかさ、男子と女子とでけっこう態度違くない?」
「あ、それ思ってた。なんか男苦手ですーみたいな振りしてるけど、黒尾とスキンシップ多くない?」
「男子苦手とか絶対うそでしょ。ああいうタイプ、『男の子は苦手だけど、○○くん相手だと平気かも……』とか言う典型的な男好きでしょ」
「ちょっとサイテー! 性格わっる!」
「ていうかそれ声真似? ちょっと似てんのがなおさら笑える」

彼女たちの話は盛り上がっていき、最初はひそやかだった声も、ついには廊下の外まで響いていた。それなのに、まるでずっと離れたところで話しているみたいに、遠く聞こえる。
あ、だめだこれ。だめなやつだ。
フラッシュバック。中学のときの、あの空気。背中を伝う、ねばついた冷や汗。どくりどくりと、胸に手を当てずともわかる、自分の鼓動。

聞かない方がいいと分かっているのに、分かり切っているというのに、身体はかちかちに固まって動いてくれない。早くこの場を離れた方がいい。いつだれが廊下を通るとも知れない。そうしたら、教室の前で立ち尽くす私は不審に映ることだろう。教室の中まで聞こえる声で、呼び止められるかもしれない。
動け、早く。あの子たちに、見つかってしまう前に。





どうやってあの場を離れたのか、よく覚えていない。女子トイレの個室で息を潜めて、どれほどの時間が経っただろうか。
ハンカチを口に当てて、深く息を吸っては吐く。大丈夫、涙はまだこぼれていない。ちょっとびっくりしただけだ。
うつむけば、瞳に膜のようにはった水分が下に零れ落ちてしまうから、必死に天井を見上げる。トイレの天井のタイルの数を、端からひとつひとつ数えていく。鼻の奥のつんとした痛みは、知らないふり。
泣くな、泣くな、泣くな。私は傷ついてなんかいない。きっと明日、彼女たちは素知らぬ顔で私に挨拶をする。もしかしたら宿題を見せてほしいとも言うかもしれない。そのときに私も素知らぬ顔をできるように、傷ついていないと必死に自分に言い聞かせた。

ポケットに入れていた携帯が震える。緩慢な動きでそれを出して通知を確認すれば、隼人からだった。

『鉄くんちのおばあちゃんに家入れさせてもらった』
『帰ってきたら教えて』

ごめんね、委員会長引いちゃった。なるべく早く帰るね。
親指で打った文字列を送信する。こちらの嘘も感情も表情も伝わらないメールは便利だ。弟にはこんな姿見せられない。見せたくない。
うそついちゃったな。隼人にもおばあさんにも謝らなくちゃ。今日はお母さん、帰るの遅い日だから夕飯作らなきゃいけないし。明日のリーディングと古典の予習もして、それから進路志望のプリントも来週までに提出だったはずだ。やることはたくさんある。こんなところで、時間を無駄にしている暇なんかない。
長く息を吐いて呼吸を整えると、スライド式の鍵を開けて扉を押す。もう放課後になって時間が経っているから、トイレには自分以外だれもいない。
水道で顔を洗ってハンカチで拭った。目の前の鏡で自分の顔を確認する。大丈夫、泣いていたなんてだれにも気が付かれない。いやそもそも泣いてないし。

「あ、苗字さん今帰り? また明日!」

トイレを出た途端、横から名を呼ばれた。わずかに肩を揺らして声の方向へ振り向く。去年同じクラスだった女子だった。彼女はたしか吹奏楽部だったか。外で音出しの練習でもしていたのか、金管楽器を手に持ちながら器用に指先だけで手を振るしぐさをしている。

「うん、またね」

とっさに笑顔をうかべて手を振り返し、彼女の背中を見送る。怪訝な顔は、されなかった。

「あー委員長会いたかった! ごめん借りてた資料集返すの明日でもいい?」
「全然平気! 」
「ほんっとごめん、昨日間違えて持って帰っちゃってさ」
「次の授業まで使わないし、気にしないで」

誰もいない教室から鞄を取ったあとに階段ですれ違い、手を合わせて話しかけられたのは、同じクラスの女子だった。二、三、たわいもない会話を交わして、上階へ向かう彼女と別れる。

ほら、誰も気がつかない。大丈夫、わたしは、大丈夫。
学校を出るまであとちょっと。早く帰って、隼人を迎えにいかなくちゃ。大丈夫、一晩寝たら、あのことはきっと忘れられる。
呪文のように、「大丈夫」を唱える。私は、大丈夫だ。

「お、苗字今帰り? また雑用でもやらされ……、」

ランニングの帰りだったのだろうか。昇降口でしゃがむジャージ姿の黒尾くんと会った。
彼は笑みを浮かべた表情でこちらを見上げると、言葉の途中で表情を硬くした。

「……苗字?」
「お疲れ様。変な顔して、どうしたの?」

言葉につまったのを誤魔化して、さっきまでと同じように平静を装ってにこりと口角を上げる。黒尾くんは私の顔をじっと見上げたまま動かない。

「……泣いた?」
「ええ? やだな、なに言ってるの」
「泣いたの?」
「な、泣いてないよ」
「いやいや泣いたでしょ」

眉を下げながらも、確信を持っておそるおそる私を指差す彼に、思わずかあっとなる。

「……っだから、泣いてないってば!」

大きい声が出て、きまり悪さに視線を外す。泣いていたことを見抜かれた恥ずかしさから、ひどく乱暴な態度を取ってしまった。
知らないふりをしてよ。なんで見なかったふりをしてくれないの。どうして辱めるの。だれも気が付かなかったのに、どうして黒尾くんだけ気が付いちゃうの。
彼はおもむろに立ち上がって、私の前まで歩いてきた。「悪い」とぽつりと小さい声で言いながら首に手をかける。悪いと思っているなら、このまま私の横を素通りしていってくれたらいいのに。

「……言いたくないなら、なんで泣いてるか聞かないけど、」
「……言いたくないから、聞かないで」
「でも、そんな顔で帰ったら隼人とか、家族だって心配するだろ」
「…………」
「家着くまで電車だって乗るわけだし、」

そう言った彼の手が、私の頬に伸びる。

『男好き』。
その瞬間、教室から聞こえたあの単語が脳裏に浮かんで、気が付いたときには彼の腕を払いのけていた。
俯いていた顔をあげたことで、ようやく目線が合った彼の顔はひどく驚いていた。純粋な気持ちで心配してくれたのは、分かっているのに。

「ご、ごめ、ちがう」
「ああ、いや、こっちこそ悪い」
「ちがうの、ちがくて、あの……」

どうしよう、困らせている。さっきまで堪えていた涙が、どうしてだか再びこみ上げてきた。泣きたいのはきっと、善意で心配したのに手をはたかれた彼の方だ。

「ひとに見られちゃう、から……」

声が震える。ああやだ、泣くの、ずっと我慢してたのに。こんな場面、他の誰かに見られてしまったら、きっと、今日よりももっといろんなことを言われてしまうに違いない。私は、目の前の困惑させている彼よりも、自分の心配ばかりしている。自分がかわいい、最低な人間だった。

「こっち」
「っな、なに?」

不意に腕を引かれ、されるがまま着いていった先は、一階の端にある社会科準備室だった。たくさんの資料や模型が詰め込まれたこの部屋は少しほこりっぽく、生徒どころか教師ですらほとんど立ち入ることがない場所だ。
黒尾くんがスイッチに触れると、何度か点滅を繰り返して天井の照明が灯った。一つは蛍光灯が切れているのか、ずいぶん薄暗い。

「ここなら、誰も来ないから」
「……ごめん、取り乱して」
「いいっていいって」
「部活中だったよね、ごめん。私のことは平気だから」
「今日は体育館の空調修理で部活休み。ただの日課で走ってただけだから気にすんな」

優しい表情で、彼は微笑む。
休みっていったって、それなら自分ひとりでもっとやりたかった個人練習があっただろうに。夏の大会前のこの時期、一分一秒だって惜しいこの時間。こんなところにいていいはずがないのに。

「落ち着くまで、もう少し休んでから帰れよ」
「……でも、隼人が家の鍵忘れちゃって、いま黒尾くんちにお邪魔してて」
「じゃあなおさら心配ないでしょ。たぶん今頃夕飯食ってんだろ。ばあちゃん夕飯作んの早えんだよな」

彼は私の気を紛らわすためか、あっけらかんと笑う。今日の飯なんだったかな、そう言いながら資料が積み重なった机にもたれかかると、埃が手についたのか、少し顔をしかめた。
黒尾くんのおばあさんのご飯は美味しい。小学生のころに、何度かお昼ご飯を隼人と二人でご馳走になったのを覚えている。あのときは、おばあちゃんあのね、って平気でため口で話していた。いってらっしゃい、おかえりという挨拶が恥ずかしくて、敬語で挨拶を返すようになったのは、いつからだっただろうか。

「ごめんな、修学旅行でああ言ってたのに」

彼はぼそりと謝罪の言葉を口にする。彼があまりにも優しく接してくれるから、甘えてしまっていた。あのトラウマも、忘れられる気がしていた。彼があのときに言ってくれたように、目の前の彼だけを見ていれば、まわりの目なんて、気にせずにいられると思ったのだ。

「……ううん、黒尾くんのせいじゃないよ」
「いや、ちょっと最近調子に乗りすぎてたわ」
「そう、かな」

彼は何かを思い返すように、目を閉じて腕を組みながら唸る。調子に乗るって、いったい何の話だろうか。
黒尾くんとの接触を言われたのは確かだけれど、あの話題は「私」だからというのが大きい。きっと他の女の子だったら、ああも言われたりはしないはずだ。
けれど、今ふと考えてみれば、彼と他の女子が、私に対してと同じくらいの距離感で話しているのを見たことがないような気もする。いや、単に私が他人に興味がなさすぎるだけかもしれない。

「あーあ、でも昔は目の前でボロ泣きしてくれたんだけどなー」
「なにそれ、そんなのしたことないよ。隼人と間違えてるんじゃないの?」
「してましたー、覚えてますー」

すこし落ち着いてきたと思ったタイミングで、彼はからかうような口調でおかしなことを言いだす。私、いくら子供のときでも黒尾くんの前で泣いたことなんてない。泣き虫なのは弟の方。私は昔からちゃんと、人に見られないところに行くまで涙を我慢できるタイプだ。強い子だった。

「……苗字」
「なに?」
「誰も見てないしさぁ、今くらい泣いたっていいんじゃないの」
「だから、私泣いたりなんて、」
「まだ言うかこの子は」

黒尾くんは呆れた表情を浮かべて、こちらに歩み寄る。三歩彼が足を進めると、私たちの距離はほとんど無くなった。この距離だと、私が少し見上げないと彼の顔が見られない。彼はパ―の形にした両の掌を、顔の高さまで持ち上げる。はてなを浮かべて、彼の動きを黙って眺めていた。顔の高さまで掲げられた両手は、肩幅まで広がり、そして――。

ッパン!
目の前で音がはじける。

「っ、!」

目の前で起きた衝撃に、反射で目をつむった。
急なことで声が出ない。まぶたをぎゅっと強く閉じた瞬間、先ほどからずっと薄い膜のように瞳の表面に浮かんでいた涙が、ぽろりと眼のふちから零れ落ちる。
猫だまし。なんで、いま。

「う、あ、」
「ごめん、びっくりさせて泣かせちゃった」
「な、なに。猫だましって」
「うん」

ひとつこぼれたのを皮切りに、必死にせき止めていた堤防が決壊した。我慢していた涙が、次から次へとあふれ出て止まらない。泣きたい気持ちなんて、もうとっくに収まったはずなのに。意に反して頬をぼろぼろと伝っていく雫を、必死に両手でぬぐう。
涙でぼやける視界の中の黒尾くんは、優しい笑みを浮かべている。女子をわざわざ泣かせて笑うなんて、意地が悪い。彼がそんな人じゃないしそんなつもりじゃないとわかってはいるけれど、今だけはそうひねくれたことを言ってやりたいくらいだ。

「……ば、ばかじゃ、ないの」
「うん、ごめんな」
「っばか。最低」
「うん、俺は最低な男ですよ」

しゃくりあげながら、彼を糾弾する。頬を流れる涙は熱くって、鼻の奥はつんとする。体温はみるみる上がっていく。学校なのに。黒尾くんが目の前にいるのに。泣いちゃだめなのに、「泣く」という行為のお手本みたいに、私の身体はめそめそ泣いている。

「なんでっ、」
「目の前で泣くの我慢されるより、ちゃんと辛いときは泣いてくれた方が嬉しいからさ」

ごめん。彼が何度目か分からない謝罪をする。なにそれ。人前で泣きたくなくて我慢してた私の気持ちにもなってよ。そっちは嬉しくても、こっちは散々だ。こんなのずるい。
黒尾くんは私の顔の近くへ右手を伸ばし、触れる直前ではっとしたように動きを止めた。

「あー……。今は、触れてもいい?」
「…………いい、けど」

彼の手が、涙をぬぐっていた私の両腕を取る。必死に水の流れを止めていた腕をなくし、そのまま顎と首を伝っていく水滴が、制服の襟にしみ込んだ。

「赤くなるから、こすんのやめとけ」
「ん……」
「ハンカチは?」
「か、かばんの、なか」
「漁るぞ」

彼はしゃがんで私の鞄のジッパーを開けると、すぐにハンカチを片手に立ちあがり、涙を吸い取らせるように軽く私の頬を抑える。
まるで繊細な砂糖菓子を手に取るような、優しい触れ方だった。

「ありがと……。もう大丈夫」
「いいから拭かれとけって」
「自分で拭けるったら」
「いいんだよ。今度こそちゃんと、拭いてやるって思ってたから」

一体、何の話をしているの。そう思ったのに、口に出すことはできなかったのは、そう言ってしまえば目の前の彼の、大切なものを守れたことを誇るような、慈しむような眼差しが、消えてしまう気がしたからだ。