小説
- ナノ -




一挙一動に一喜一憂



明後日に迫る宮城遠征に向け、昼休みのミーティングを終えて教室に戻れば、名前がひとり、黙々と黒板の板書を消していた。
黒板の右側には、今日の日付とともに、日直である女子の名前が書いてある。教室を前方から見渡してみたが、その仕事をすべき当の本人は見当たらない。大方、自分の仕事をすっかり忘れて別のクラスの教室にでも行っているんだろう。

「なんで苗字が消してんの」
「なんで、って……。だってもう、次の授業始まっちゃうから」

横から声をかければ、名前は眉を下げながら、黒板消し片手にこちらを見た。
俺が聞いているのはそういうことじゃないんだけど、苗字サンには残念ながら伝わらなかったようだ。

「今日の日直、苗字じゃないじゃん」
「でも、誰かが消さなかったら授業中に先生が消さないといけないし」

その『誰か』がべつに彼女でなくたって、と思うけれど、当の本人はそうは思わないのだろう。
貧乏くじを引く気質というか、厄介ごとを自分から抱え込みに行くというか。本当に、呆れるくらいのお人よしだ。

名前は黒板の真上にかけてある壁掛け時計をちらと見上げる。時計の長針は十一と十二の中間を指しており、昼休みの終了を知らせるチャイムがあと数分で鳴るのは間違いない。
四限の英文読解の授業では、毎週端の端まで、めいっぱい黒板が使われている。教壇の上に立っているにしても女子の背ではそもそも高さが足りない上に、数日前に足を痛めている名前一人では、黒板の一番上の文字まで消せないのは目に見えていた。

「上の方、届いてないですけど」
「あとで椅子持ってくるから、大丈夫だよ」

そこに突っ立ってないで手伝って。名前が一言そう言えば、一も二もなく俺が手を出して見せるのに、彼女はそんなこと考えもしないのだろう。
もう少し、人を頼ればいいのに。彼女に対してそう思うのは、これが初めてのことじゃない。教師から無関係の雑用を頼まれたあのときも、足首をひねったあのときだって、彼女はいつも「もう大丈夫」、「平気だよ」だなんて笑ってみせるのだ。少しは人に頼むことを覚えて頂いて、その頼る相手が、俺だったら万々歳なんですけどね。
あからさまなため息を一つついて、黒板の粉受けに置かれていたもう一つの黒板消しを手に取る。

「こんなにこき使うのに適任なやついませんよ?」

真後ろから名前に覆いかぶさるように、黒板の上に手を伸ばす。俺の身長なら余裕でてっぺんまで手が届く。この方が早いし楽だし、効率的だ。
名前は距離感に驚いたのか、ぽかんと口を開けてこちらを見上げる。距離の近さも相まって、首はほとんど真上を向いていた。

「そんな顔してっと、チョーク口入んぞ」

胸の高さにある彼女の顔を見下ろして、そう指摘をすれば、慌てて口を閉ざした。そんな子供じみた姿すらかわいいと思ってしまう。
わざわざ名前の真上から消していく必要性は一切ない。少しずれて、反対側から消していった方がよっぽど効率的に決まっているが、いきなりのことにびっくりしているのか、名前はそれを指摘することもしない。

真上から見下ろすと、少し茶色がかった名前の前髪に、白いチョークの粉が落ちているのに気がついた。黒板消しを持つ右手の代わりに、左手を伸ばして軽く前髪を払う。
名前が反射的に目をつぶったのを良いことに、じっと顔を見下ろした。

「チョークの粉、かぶってた」
「あ、ありがとう」
「どういたしまして」

なんとも思ってないふりをして、いつものよそ行き用の薄い笑みを顔に張り付ける。
澄ました顔を装いながらも、名前がこの距離感に戸惑いながらも強く拒まないことに対して、喜ぶべきか悲しむべきか内心悩んでしまう。仮に他の男子が同じことをしたとして、名前は同じように、この距離を受け入れてしまうんだろうか。
俺が男として意識されていない、というわけではないと思う。たぶんちょっとくらいは意識されていると思う。思いたい。この間おぶったときに、体格の違いなんかを意識してくれてたら嬉しいなあと思います。
まあ本人が意識していようがなかろうが、はたから見れば俺たち二人が、黒板の前でいちゃついているようにしか見えないんですけどね。
子供っぽい独占欲だ。醜かろうとガキらしい振る舞いだろうとどうでもいい。こうやって周りに牽制するくらいは、きっと許されるだろう。

「ええと、手伝ってくれるのはありがたいんだけど……。近くて消しづらい、かな」
「はい」

許されなかった。

  ◇

ゴールデンウィークも半ばを過ぎ、俺たち音駒バレーボール部一行は仙台行きの新幹線に乗っていた。梟谷グループでの合同合宿は今までに何度か経験しているが、東京から足を延ばして、関東外どころか東北まで行くのはこれが初めてだ。今回の練習試合、メインイベントの烏野高校はなんでも長年のライバルらしく、先輩から話も多少聞いている。まあ、誰が相手だろうと、俺たちは俺たちの戦いをするまでだ。研磨を中心とした今のチームは間違いなく強い。一ヵ月前に入部した期待の一年だって、まだまだ素人で今回は未参加だが、夏までにはあいつも成長しているだろう。いやそうなってもらわなきゃ困るってものだ。

通路を挟んで反対側の座席では、駅弁の風情がどうだのと山本がはしゃいでいた。それとは対照的に、俺の隣に座る研磨は、普段の電車に乗っているのと同じように、ゲーム画面を見続けている。なんでお前らはそんなに正反対なんだよ。

「研磨、ゲーム画面ばっか見てっと酔うぞ」
「ん……」

研磨は聞いているんだが聞いていないんだか分からない生返事をした。駅弁への熱意にせよゲームにせよ、なんであれこいつらはいつも通りで何よりだ。六時東京発の便に乗るべくいつも以上に早起きだったためか、欠伸がこみ上げる。まだ車内販売まではしばらくあるし、仮眠でも取るかな。



「E5系だ……!」
「今の緑色の新幹線?」
「ああ、あれははやぶさだな」

少しうとうとしていたタイミングで、上りの新幹線とすれ違った衝撃でごうと車体が揺れる。一つ前の席に座っている海がめずらしく興奮気味に言った声につられて、窓の外を見る。すれ違うエメラルドグリーンの車体。
電車だのにとくに興味がない俺には、何が何だか区別はつかないが、海はそういったものが好きらしい。

はやぶさ。海が口に出した新幹線の名称に、はす向かいに住む四つ下の幼なじみを連想する。
名前と隼人、二人には何の土産を買っていったら喜ぶだろうか。ジャージのポケットに突っ込んでいた携帯電話を取り出し、名前とのメッセージ画面を開くと、数日前に俺が送ったメッセージでやり取りは止まっていた。
無理やり会話をしようと、宿題の範囲を質問したときのやつだ。
「二十二ページ三行目からの現代語訳だよ」
「助かった!ありがとうな」
会話終了。もうちょいさあ、なんていうか、こう、欲しくない? これ以上送れない俺も俺ですけど。

『今日から遠征で宮城』

連休の真っ只中なうえに、時刻は午前七時をようやく過ぎたころ。まだ寝ているかもしれないと気がついたのは、残念なことにすでに送信ボタンをタップした直後だった。
今日から遠征だから何だ。恋人のような関係でもないくせに、こうやってどうでもいいメッセージを送って困らせるのは分かりきっている。
少し考えた後に、『お土産なにがいい?』と一言付け足した。我ながら言い訳がましい。




車内販売で購入した駅弁もほとんどの部員が食べ終え、初めて乗る新幹線に一部の部員の高まったテンションもすっかり落ち着いた。先ほどまで青い顔をして切符を探していた山本も、研磨のおかげでいつもの活気に戻っている。

「そうだ黒尾さん! 彼女いたんですね!」
「あ? 彼女?」

不意に、わくわくとした表情の犬岡が急に話を振ってくる。突然の話題に、思わず素っ頓狂な声を上げた。

「あれ、たしか女の人おんぶしてましたよね。球技大会のあと……」
「あー、あれか」

球技大会のあれを見られていたのか。体育館から保健室まで行くまでには、一年の教室の前を通る必要がある。その途中で犬岡ともすれ違っていたのだろう。
あのときは全神経を背中に集中させていたから、あまり覚えていないというのが正直なところだ。

「なっ、黒尾さん、彼女いたんすか!?」
「いいや?」

山本の質問に、かぶりを振って否定する。残念ながら彼女じゃない。つーかこれ自分で申告すんの悲しくない?

「俺のしがない片想いですよ」

俺の言葉に、犬岡と芝山は驚いたように顔を見合わせた。
数ヶ月前と比べればずいぶん親しく話せるようになったし、他のやつらに比べたら心を開かれている方だと自負しちゃいる。それでも、そういった意識をされてるとは到底言い難い。

「黒尾お前、苗字にやけに絡むなとは思ってたけど……、ガチなやつだったのか」
「そうですよ。それを君たちはさあ、好きな子とバレンタインに二人きりなんて絶好のタイミングで邪魔してくれちゃって」
「悪いことしちゃったな」

前の座席から身を乗り出してくる夜久たちを芝居がかった口調で責めれば、いつも通りの落ち着いた様子で海が謝罪する。

「いや海、どう見ても苗字は黒尾のこと意識してないだろ……」
「すみませんやっくん、もう少しオブラートに包んで頂けます?」

自分で思ってるのと第三者から指摘されるのとじゃ、ダメージが大違いなんですけど。


「研磨、お前知ってたかよ」
「うん」
「あの黒尾さんですら片想いになるような相手……。めちゃくちゃ美人とかなんだろうな」

山本は身を乗り出して、通路を挟んで隣に座る研磨に話しかける。通路に身を乗り出すのやめなさいよお前、邪魔になるでしょうが。本人は小声のつもりなんだろうが、聞こえてんだよなあ。べつに悪口とかじゃねえしどうだっていいけど。そもそも「あの黒尾さんですら」ってなんだ。こいつの目には俺が百戦錬磨の女たらしに見えているのだろうか。

「……顔は普通、だと思う」

ゲームを操作する手を一時的に止めて、少し考えこんだ研磨はそう結論づけた。おい。
名前はそりゃたしかに、美少女とか、ものすごい美人ってわけじゃない。美醜だけで言えば、いつもつるんでいる芦屋の方が美人だとは思う。ただ、俺の惚れた欲目を抜いたって、名前も中の上くらいはあるだろ。惚れた欲目を入れるんだったら、世界一可愛い女子に決まってる。

「あ、でも──。アップルパイ作るのは上手だよ」

思い出したように、研磨がぽつりとつぶやく。アップルパイ?と不思議そうな声を出す山本の声がなんだかおかしくて、聞こえていないふりをしていたにも関わらず、不覚にも噴き出してしまった。



名前に送ったメッセージに返信が返ってきたのは、仙台駅に到着した直後のことだった。連休中でも、この時間には起きてんのか。

『気にしないでいいよ』

そっけなくない? もうちょいなんか、長距離遠征に対する反応とか、応援とかくれたらいいななんて期待していたんですけど。
いや待て、よく考えろ。そもそも一時期は宮城に住んでいた名前からしたら、定番土産を買ってこられても食い飽きているのかもしれない。そこまで気がつかなかった俺が悪い。
少し考えて、「じゃあ苗字のおすすめ教えて」と送ると、ほどなくして返信が既読がついた。

『定番なら萩の月とか、笹蒲鉾かな』
『私は喜久福の生クリームが好き』
『あと岩泉ヨーグルトも美味しいよ、青い竜のキャラクターが描かれてるやつ』
『それから――』

タイミングが良かったのか、立て続けにぽこんぽこんと通知音が鳴る。
さっきまでそっけなかったくせに、好きな食べ物のことになると途端に元気になるのが名前らしくって、しばらくマナーモードにすることが出来なかった。

俺の好きな子、やっぱり世界一かわいいな。