小説
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童貞には刺激が強すぎたので



俺、松野おそ松は今、苗字しか知らない女の子の家で寝ている。

今日、いつも通り昼過ぎに起きた俺は、5人いる弟たちと大喧嘩をした。きっかけは覚えていない。でも俺はなんだかいつもよりもイライラして、弟たちの言い方もいつもよりも厳しくて、思わず思った。
こうなったら家出をしてやろう。
長男がいなくなって、困り果てた奴らが「やっぱりおそ松兄さんがいないと、僕たち駄目なんだ」「帰ってきてよ、おそ松兄さん!」って言ってきたら、仕方ないから帰ってやろうと思って、ひとまずイヤミの家に押しかけた。それでイヤミから断られて、チビ太にも断られて、デカパンにもダヨーンにも断られて、トト子ちゃんとこの魚屋さんにも断られて、ヤケになって居酒屋に入って持ち金で頼めるだけ日本酒を頼んだ。
んで、泥酔して、その辺のゴミ捨場で寝て、起きたら目の前に女の子がいたから、「泊めてー」って言って。

そして今に至る。
訳わかんなくない?見知らぬ男を泊めちゃう苗字ちゃん、大丈夫?俺が言うのもあれだけどさ、危機感薄くない?もしかして、そういう子?いやでも、絶対違うよなあ。素振りからして本当に迷惑そうにしていた。でも迷惑ならなんで入れてくれたんだろう。「入れてくれないと死んじゃう」ってのを信じちゃったとか?まっさかぁ。

苗字ちゃんがシャワーを浴びている音が、耳に入ってくる。意識して聞こうとしてる訳じゃない。別に聞き耳立ててなんかいない。聞こえてしまうのは仕方ないことだ。
でも、正直、女の子がシャワーを浴びている音って、すげえ興奮する。しない?するよね? 童貞なら仕方ないよね?やっばいよ、俺さっき「シャワー浴びてきなよ」とか言っちゃったよ。まるでヤる前みたいじゃない?

彼女の前では何でもない風に装っていたけど、正直シャンプーしてるときとかすっげえドキドキしたからね。ていうか俺から可愛らしい女の子の匂いがする状況に、脳が混乱している。すごくいい匂い!でも!俺!俺の身体!
これじゃあタオルとか着替えとか借りたら大変なんじゃないかと思ったけど、着替えと毛布は洗ってからしばらく使っていなかったようで、クローゼットの匂いがする。女の子の匂いというよりは、苗字ちゃん家の匂いって感じだった。それはそれでドキドキしたけれども。

見知らぬ女の子の家で風呂を借りて、しかも一晩泊まるという非日常な状況にクラクラする。俺どうなっちゃうんだろう。多分何もないだろうけど。あわよくばという期待が無いとは言えない。ていうかある。超ある。めちゃくちゃドキドキしてる。風呂場から聞こえる、桶を置いたらしいカコーンって音にすらドキドキする。

あ、ドア開いた音。ドア2つ分向こうの場所で、女の子が裸で立っているという状況ってすごいなあと謎の感心をする。
あー、そういえば早く寝てねって感じのことを言われてたな。寝たふりしとこ。
毛布を適当にかけて、ラグに寝転がる。普段は6人で1つの煎餅布団を使っているから、なんだか変な気分だ。
あいつらどうしてんだろ。まだ1日目だし、居酒屋にいるとでも思ってんだろうなあ。

ひたり、ひたり。殺された足音が廊下から聞こえる。居間の扉が遠慮気味に開けられた。俺が寝てるから静かにしようとしているのだろうか。家主なんだから気にしなくていいのに。

足音は止まらず、俺のすぐそばまで近づいて、そして止まった。
目を閉じているから詳しくは知らないけれど、まぶたの裏の影で、苗字ちゃんが俺の目の前にしゃがみ込んだことが、なんとなく分かった。
毛布が肩までかけられた。どうやら適当に腹にかけた毛布を掛け直してくれたようだ。苗字ちゃん優しい。

「……あ」

小さく声が上がり、ややあって苗字ちゃんの指が俺の髪を一房持ち上げ、梳くように撫でる。糸くずでもついてたかな。

「……おやすみなさい、松野さん」

おやすみ、苗字ちゃん。

彼女は立ち上がり、寝室へとまた静かに移動した。ふう。狸寝入りはバレなかったようだ。
俺ももう寝よう。7時起きなんて出来っかなー。


   ◇


「寝らんねー……」

駄目だ。やっぱ無理。童貞には女の子の家にお泊まりは刺激が強すぎる。寝られるわけがない。
ただでさえ、ゴミ捨場でだけど一応寝ちゃったし、こんな状況だしで、目が冴えて仕方ない。それに今寝たら普通に起きられない。絶対昼過ぎまで寝るわ。
今何時だろう。居間の壁を見渡せば、シンプルな影掛け時計が目に入った。闇に慣れた目をさらに凝らして、時刻を確認すると、5時45分だった。
苗字ちゃん7時に出るんだっけ、何時に起きるんだろうな。苗字ちゃんが起きる気配がしたら、また狸寝入りして起こしてもらおう。女の子に起こしてもらう機会なんてそうそうない。あとで弟たちに自慢してやろう。

15分経った。
30分経った。
45分経った。
現在の時刻は6時半。
まだ起きねーのかな。大丈夫かな。うちの母さんとか支度の時間めちゃくちゃ長いけど、苗字ちゃんは短い方なのかな。
心配になってきたけど、寝室入ったら怒られそうだしなー。

「おーい……、苗字ちゃーん……?」

ノックをして、寝室の扉の前から呼びかけてみる。
反応はない。起きている気配もない。

「朝ですよー……。……苗字ちゃーん?起きてる?大丈夫?7時だよ?平気ー?」

段々声が大きくなってきた。

「苗字ちゃーん!?」
「はいっ!」

あ、起きた。

「……え、あれ、何時、いま、え、誰?!」
「6時45分で、俺の名前は松野おそ松です!昨晩泊めて頂いた者で不審者ではありません!」

寝起き弱いのかな、昨日の夜と随分印象が違う。

「6時、45……?えっ、あっ、ちこ、遅刻!!!」

もっと早く起こしてあげれば良かったかな。苗字ちゃんの寝室からドタンバタンと急いで支度する音が聞こえる。

「起こしてくれてありがとうございます!」
「あ、うん」

洗面所に、寝室に、忙しく往復する苗字ちゃんを、俺はどうしたら良いものかと眺める。俺の服どうなってるんだっけ。確か洗濯機が回ってる音は聞こえてたけど。
あ、すっぴんだ。昨日は綺麗めだったけど、すっぴんは綺麗というより可愛いという言葉が似合う。寝癖がぴょこんとついてる。あ、直してる。……直った。しかし、女子ってオンとオフで随分雰囲気変わるもんだよなあ。すげえ。

そして、7時5分。


「い、いってきます!!!」

「え、えー……!?」

行っちゃったよ、あの子。見ず知らずの男を1人置いて、家出てっちゃったよ。まじか。