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「お礼は身体で」とか



パンプスを脱いで揃えると居間へ続くドアを開け、振り返る。ひとまず松野さんに家の説明をしよう。

「えっと、松野さん? じゃあとりあえず居間で寝てもらうので、」
「えー!苗字ちゃん一緒に寝ようよ!俺を温めてよ!あと寒いから風呂も入りたい」
「……やっぱり出てってもらえますか」
「ごめん!冗談!冗談だから!お願いします泊めてください!怖いから真顔やめて!」

泊めると決めた途端からうるさい。こんなにグイグイ来る人が今まで周りにいなかったので、対応に戸惑ってしまう。流石に一度家に入れたのに出てけとは本気で思っていないけど、なんとか落ち着いてもらえたようなので、また困ったことがあったらこの言葉を使おうと決意した。
リビングのエアコンを点けたあと、寝室にあるクローゼットから、毛布を取り出す。半年以上前に干したっきりだけど、まあ大丈夫だろう。鼻を近づけて匂いを確認。うん、平気。防虫剤の匂いは付いてない。

「とりあえず毛布は貸しますから、ここで寝てください。ラグがあるしそこまで身体痛くはならないと思いますから。それからシャワーは……、あれ?」

廊下を一度出て洗面所に案内しようとしたら、後ろから付いてくると思っていた松野さんがいない。どこへ行ったのかと思っていると、台所からガサゴソと音がすることに気がついた。

「うーわ!なんも入ってないじゃん!酒もない!アイスも!」
「ちょっと!勝手に人んちの冷蔵庫開けないでください!」

台所で松野さんが冷蔵庫をバタンバタンと次々に開けていた。
もうやだ! 何なんだこの人! 変人どころの話じゃない。変わってるんじゃなくて、常識が欠如していると言った方が正確なのではないか。

「追い出しますよ!!」
「ごめんなさい!!」

追い出すという言葉を出した途端その場で土下座する松野さん。効果は抜群だった。そうやって反省のフリだけして、またすぐ好き勝手するんでしょう、怖い。目が離せない、嫌な意味で。

「いいですか、絶対絶対変なことしないでくださいね」
「はい苗字さん、質問です」
「何でしょう松野さん」
「変なことってどこまでが変なことですか」
「常識的な範囲で行動してください」
「常識的な範囲ですか」
「私の常識に合わせてください」

正座したまま挙手をして真顔で聞いてくる松野さんに、ぴしゃりと答えた。
無茶苦茶言ってる自覚はある。今日初めて出会った私の常識なんか知らねえよと言いたいだろうが、それでも松野さんの常識に合わせるよりは穏便にことが済むはずだし、松野さんもそれくらいは理解してるだろう。

「『お礼は身体で』とか」
「私の寝室に一歩でも入ったら通報しますから」

ちぇー、と言いながら松野さんは口を尖らせる。子供か。そういえばこの人っていくつなんだろう。大学生、に見えなくもないかなあ。でも24歳フリーターですとか言われればそう見えなくもないし、ブラック会社で死にそうになったので命からがら逃げてきましたと言われても信じてしまいそうだ。精神年齢はとても幼い気がするけど。まあいいや、この人がいくつであろうと、何をしていようと、どんな事情があろうと、明日の朝にはさよならだ。

「明日、私は7時に家を出ます。そのときに松野さんも一緒に出てってくださいね」
「7時ぃ!?」
「何か?」
「無理だよ俺、起きらんねーって」
「起きてください」
「……分かったよ」

松野さんが渋々という形で折れた。折れてもらわないと困る。
風呂場は先に松野さんに使ってもらおう。彼が先に寝てくれた方が私としても安心する。
まだそこまで使っていないタオルを棚から出して洗濯機の上に置いておく。着替えはどうしよう、さすがにゴミ捨場で寝てた格好は可哀想だし、私だってその格好でラグに寝転がってほしくはない。あ、入社前に買ってあまり着てなかった大き目のジャージがあったはず。運動不足が気になったらランニングでもしようと思って買ったけど、実際は運動不足どころか過労気味だし、ランニングなんてする時間は無かったから無用の物になってしまった。
松野さん、タオルと着替え、置いておきましたから。今着ているのは朝までに乾かしておくから籠に入れてくださいね。またふらふら居間を歩き回っている彼に、少し大きめの声で告げると、うーいと気のない返事が返ってきた。


    ◇


松野さんがシャワーを浴びている音がする。出会ったばかりの人を家に入れて、しかもその人を自宅の風呂場へ入れて、シャワーの音を聞きながら晩御飯のおにぎりと味噌汁を口にする。どう考えてもおかしい状態だった。
お母さんには絶対言えないなあ。お父さんが知ったらひっくり返っちゃうんじゃないかな。その後に多分正座させられて、怒鳴られる。嫁入り前の女が何を考えているんだ、って。嫁入り前と言ったって、生娘ってわけじゃないんだけど、でもだからと言って、名前しか知らない人を一人暮らしの家に入れるのは、おかしい。大丈夫、おかしいことは分かってる。分かってるんだけど。

「だって、断れなかったんだもん……」
「お風呂ご馳走様ー」
「ひゃっ! びっくりした……」
「あ、悪い、驚かせた?いやー苗字ちゃんちの風呂綺麗だねー。シャンプーとかめちゃくちゃフローラルの香りするし。どう、俺のこと嗅いでみる?」
「嗅ぎません」
「ちぇー。まあいいや、苗字ちゃんもシャワー浴びてきなよ。明日早いんでしょ、何時だっけ、10時?」
「7時ですってば! ちゃんと起きてくださいね、起きなかったらベランダから落としますから。毛布用意したので、勝手に使ってください。洗濯物はこちらでやっておきます。それじゃ」

私が風呂に入ってる間に早く寝てくれという意を察したらしく、聞き分け良い返事をして松野さんは毛布を広げ始める。
良かった。ようやく落ち着けそう。
寝室の箪笥から下着を取り出し、パジャマの間に挟み込む。居間を通って風呂場へ向かうと、松野さんは枕に良さそうなクッションを見繕っているところだった。

「苗字ちゃん」
「はい?」
「おやすみ」
「……! ……おやすみ、なさい。」

居間の扉を閉めて、脱衣所の籠にパジャマと下着を置く。松野さんが使ったバスタオルは、どうやら着ていたものと共に洗濯機の中に入れてくれたようだった。


おやすみなさい。言われた言葉が、脳裏に焼き付いて離れない。
びっくりした。久々に、人におやすみだなんて言われた。
顔がじんわり熱いのは、きっと風呂場の湯気のせいだ。