小説
- ナノ -




普通に朝からめちゃくちゃ並んだ



空気を読まないソメイヨシノが、早くも散り始めていた。まだ四月も始まったばかりだし、もう少し咲き誇っていたらよかったのに。そんなくだらないことを考えながら、強風で乱れた髪を手ぐしで整える。

昇降口そばの掲示板の前にはすでに、クラス分け表を確認しようと集まる生徒の人だかりが出来ていた。
人だかりに合流して私も表を見ようとするけれど、複数の男子が掲示板のすぐ前で何人か固まっている。ここからではほとんど掲示が見えなかった。あそこに立っていられては、たとえ私が位置を移動したとしても掲示板は見えないだろう。クラスを確認したらもう少し端に寄ってくれたらいいのになあ。小さくため息をついたところで、この思いがあそこでたむろする彼らに届くはずもない。
背伸びをしたら、なんとか自分のクラスだけでも確認できないだろうか。そう思って、つま先立ちをしてみるけれど、あまり視界に代わり映えはない。次第にふくらはぎがぷるぷると限界を訴えはじめ、諦めてかかとを地面につけたとき、横から不意に声が聞こえた。

「三年五組だってよ、苗字名前サン」
「く、黒尾くん」

声のする方へ顔を向ければ、すぐ横に彼が立っていた。いつからそこにいたのだろうか。人込みのせいか、普段よりも距離が近く、私の肩が彼の腕に触れている。
なるほど、長身の彼であれば、ここからでも掲示が見えるのだろう。うらやましいことだ。

「ありがとう」
「どーいたしまして。ふくらはぎ、大丈夫?」
「み、見てたならもっと先に声かけてくれたら良かったのに……」
「いやあ、頑張ってるところに急に声かけんのも悪いかと思って。どうする、誰かほかの奴のも確認しとく?」
「あ、じゃあ千枝……芦屋千枝って何組かな」
「ん、芦屋な」

前を見ても、いまだ男子の集団が移動する様子はなく、彼の好意に素直に甘えることにした。
親切だなあ、と思いながら、彼の横顔を見上げる。いつもより距離が近いからだろうか。自分の顔をずいぶん上に向けないと彼の顔は見えなくて、背の高さをより実感した。

「ああ、五組だって。良かったじゃん」
「ほんと? 良かった。ありがとう」

クラスが離れたところで疎遠になるわけではないけれど、やはり最終学年のクラスは重要だ。卒業アルバムだってこの学年のものが記録に残るし、卒業後に行われるであろう同窓会も三年のクラスで行われる。親友と同じクラスで三年生を迎えられたのは幸運だった。
自分のクラスも確認できたし、教室へ向かおうと人ごみを離れると、黒尾くんも同じタイミングでついてくる。

「黒尾くんももういいの?」
「うん、自分のクラスだけ分かればいいし」
「そっか」

そっか。もう一度口の中でつぶやいて、言葉に詰まる。
さて、教室まで何を話そう。『黒尾くんは何組だった?』と聞こうかとも考えたが、そんなことを質問したらまるで、私はあなたに興味があります、と言っているみたいに聞こえてしまうんじゃないだろうか。男女間で話すたわいもない会話の内容として、はたして適正だろうか。 私が意識しすぎているだけかもしれないけれど、たわいもない会話、というものを男子と普段からしないせいで、もはや何が「たわいもない」なのかもわからない。そもそも「たわいない」のたわいってなんなんだろう。

「苗字、芦屋と仲良いよな」
「あ、うん。一年生のときから一緒で」
「前のLINEのアイコンも、芦屋と行ったやつ?」
「前の……、うん、そう! 固めのクラシックプリンが有名なお店でね、二人で放課後に行ったんだ」

彼から提供される話題に答えているうちに、五組の教室までたどり着いた。一組から五組まで、それぞれの教室は順に並んでいる。階段の近くの一組から始まり、五組は廊下の突き当たりだ。彼がほかの教室を通り過ぎ、ここまできているということは、要するに。

「……おんなじクラス?」
「そうですよ。全っ然聞かれないから、この子俺に興味なさすぎない? って思ってたわ」
「そ、そういうわけじゃ……」

とっさに両手を身体の前で左右に振って、否定する。聞こうかとは思っていたのだ。聞こうか聞くまいか一人で悩み続けた結果、結局聞けなかっただけで、興味がなかったわけじゃない。

「冗談だって。ま、そういうことで、一年間よろしくな」

彼はそう言い残すと、へらりと笑って、一足先に教室へ入っていった。扉を引いた途端にクラスの視線が彼に集まり、教室の中は賑わいだす。人気者なんだなあとそれを遠目に眺めながら、彼に遅れて一人、教室へ足を踏み入れた。

 ◇

放課後、春休み中に借りていた小説を図書室に返却し、そのまま司書教諭の先生と新刊の感想を語り合っていたら、いつの間にか下校時刻が迫っていた。いくら春で陽が伸びてきたといえど、この時刻では外はすでに真っ暗だ。慌てて昇降口へ向かう廊下を歩いていると、担任教師に呼び止められた。

「苗字。こんな時間までどうしたんだ」
「あ、えっと、図書室にいたらいつの間にこんな時間になってしまって」
「おお、勉強か。遅くまでえらいなあ」
「いえ、そんな」

図書室にいるイコール勉強しているニアリーイコール真面目な優等生、という勘違いはよくされるけれど、こういった場面では訂正しないほうが楽だ。謙遜と思われる程度、控えめに否定して、適当に流しておくに限る。

「ちょうどよかった。明日のホームルーム、委員会決めをする予定なんだけどな」
「は、はい」

委員会。そのワードに嫌な予感がして、声がこわばる。

「苗字、去年一昨年とたしか学級委員長だったよな。今年も頼めるか?」

ああ、やっぱり。悪い予感は的中した。
学級委員なんて面倒なことは誰だってやりたくないし、もちろん教師側だって、あの誰も名乗りを上げることのない無駄な時間にはうんざりだろう。手っ取り早くさっさと誰かに決めてしまいたいに違いない。誰かに内定をもらっておいて、立候補者がいなければそのまま頼めばいいし、もしもほかに立候補する者が現れれば万々歳だ。

「い、いえ。私あんまり人を率いるタイプじゃないですし……」
「大丈夫だよ。苗字なら実績もあるし、安心して任せられる」
「でも、ほら、私じゃなくても」
「お前だけが頼りなんだよ。受験生だし、そんな大変なことは頼まないから。な?」
「私には力不足っていうか」
「無理なこたないだろう、二年間もやっておいて」

先生は温厚そうな見た目とは裏腹に、どうにか承諾を得ようと強引に話してきた。
唯々諾々と二年間こなしてきたことが仇となっている。ただ真面目に生きてきただけなのに、こんな貧乏くじを真正面から引かされるような羽目になるなんて。私が一体なにをしたっていうんだ。ノーと言えない日本人。毅然と断れない自分に嫌気がさす。
このままではもしかすると、イエスと言うまで帰してもらえないのではないだろうか。

「苗字? それに先生も。なにしてんすか」

膠着状態がしばらく続く中、朝も聞いた声が、半日ぶりに私の名を呼ぶ。廊下の奥からこちらへ向かってきた黒尾くんの手の中には、鍵の束があった。部活を終え、体育館の鍵を職員室へ戻しにいくところだったのだろう。

「黒尾か。今な、苗字に学級委員長やってくれないかって打診してたんだよ」
「それを丁重にお断りしてたとこ、なんだけど……」
「ふうん。学級委員」
「あ、じゃあ黒尾はどうだ?」
「えー、学級委員って何やるんすか」
「簡単簡単! 集会で点呼取ったり、ホームルームで進行してくれたりするだけでいいから」

先生は特に私にこだわっていたわけではないのだろう。ターゲットを黒尾くんへと移し口説き始めた。黒尾くんは少し興味があるのか、ふむふむと先生の話に耳を傾けている。
彼は人当たりもよいし、人望だってある。優しいし気配りだってできる。きっと彼が学級委員長になれば、クラスも大盛り上がりだろうとは思う、けれど。

「だ、だめですよ! 黒尾くんは!」
「え、俺ってそんな頼りなさそう?」
「そうじゃなくて! 部活やってる人にお願いするのは難しいと思います。放課後が潰れちゃうこともあるし」

私の二年間の経験上、委員会の仕事によって、当日いきなり昼休みや放課後が犠牲になることは多い。ましてや彼は運動部の主将だ。委員会は大事だけれど、練習を犠牲にしてまで優先するべきじゃない。

「その、だから。黒尾くんが向いてないとかじゃないです、けど……。立候補とかじゃない限り、部活に入っている人には、無理にお願いしないほうがいいと思います……」

教師の意見に異を唱えたことは今までほとんどない。話しているそばから、声は尻すぼみになっていく。

「うーん……じゃあやっぱり苗字か」
「っ、それは、ちょっと……」

あっさり意見を聞き入れてくれたことは喜ばしい。だが当然、矛先はふたたび私に向いてしまう。
かといって、あのまま黒尾くんが学級委員を引き受け、キャパオーバーになる可能性があるのを黙って見ているのはできなかった。

「まあまあ先生。やりたいやつがいるかもしんないじゃないですか。もう遅いんだし、べつに今決めなくても」
「……まあそれもそうか。いるといいけどなあ」

間に入った彼がなだめる言葉に、先生は後頭部をかいて、ため息をつく。ひとまず今日のところはここで解放してもらえそうだ。ほっと胸をなでおろした。

「黒尾、鍵預かっておくぞ」
「いいんすか? ありがとうございます」
「苗字も呼び止めて悪かったな。もう暗いから、二人とも気をつけて帰れよ」
「あ、大丈夫です。俺、送ってくんで」
「え、」
「ああ、それがいい。夜道に女子ひとりは危ないからな。頼むぞ」

彼の発言に思わず耳を疑い困惑する私をよそに、先生は一人で納得して職員室へと去って行ってしまった。
面倒見のいい彼のことだ。教師の前でだけ良い恰好したわけではないだろう。当然のことのように、「じゃあ帰るか」と下駄箱へ足を進めた。一応そのあとを追いながら、控えめに声をかける。

「私、一人でも平気だよ? そんな真っ暗な道ってわけじゃないし、わざわざ送ってもらわなくても」
「いや、どうせ帰り道まったく一緒なんだから、ここで別れてそれぞれ帰る方がおかしいでしょ」
「まあ、そう、なんだけど」

おそらく誰が聞いても彼の言い分の方が理にかなっている。私の家の前を通ってものの十秒足らずで黒尾くんの自宅に到着するし、とくに彼の手を煩わせるわけでもない。頭では分かっている。それでも渋るのは、二人きりで帰る間、何を話せばいいのかわからないからだ。学校から駅まで、電車を待つ間、電車に乗っている間、駅から家まで。そんなに長い時間、彼と二人きりなんて緊張してしまう。

「それとも、どっか寄る予定あった?」
「ない、けど……」
「じゃあいいじゃん」
「でも、その、えっと」
「……あ、校門で研磨待ってるって」
「そ、それなら……!」

黒尾くんがふと携帯を見て、ぽつりとつぶやいた一言に、安堵した。二人きりじゃないなら、なんとかなる。……はずだ。

「……そーんなあからさまにほっとされると、少し傷つくんですけど」

私の態度に黒尾くんはすねたような表情をする。たしかに、先ほど助け舟を出してくれた恩人に対して、ずいぶんと失礼な態度をとってしまった。

「ご、ごめん。でもやっぱり、緊張しちゃうから……」
「まあ、わかってっけどさ」
「さっきもごめんね。先生との話、終わらせてくれて、ありがとう。黒尾くんには、いつも助けてもらっちゃってるね」
「今回はあんま力になれてないけどな」
「そんなことないよ」

あのまま担任と二人で話をしていたら、おそらく引き受けるのは時間の問題だっただろう。頼まれたことは断れない。断らないのではなく断れないのだ。押しに弱いことは、自分でもよく分かっている。
だから、黒尾くんがあの場に現れたことで本当に救われたのだ。朝から、いやこの間からずっと、黒尾くんは私が困っているときに現れて、何でもないことのように容易く私を助けてくれる。

「あ、そうだ」
「ん?」
「あの、この間、プリンありがとう」
「ああ。直接渡せなくてごめんな。冷蔵だから学校じゃ渡せなくてさ」
「ううん、すっごく嬉しかった!」

先月、彼からホワイトデーとしてお返しのプリンをもらったのだ。私が出かけている間に家に届けてくれたらしく、春休みに入ってからは会う機会もなく直接お礼を言えていなかったのを、教室に入ってから思い出した。
残り物をゆずっただけなのに、わざわざホワイトデーを用意してくれるなんて、マメだなあと思う。しかも、私の好みどんぴしゃのものを贈ってくれるなんて。これがデキる男ってやつだろうか。

何を隠そう、プリンは私の大好物だ。なめらかで柔らかいプリンもクラシカルな固めのプリンも、ノーマルな卵プリンも南瓜や抹茶などの変わり種もすべて美味しく頂ける。お手頃なケミカルプリンだって、クリームブリュレやカタラーナだって、私にとってはすべて、食べられる天国だ。
けれどすべてのプリンを愛する私の中にも、優劣は存在する。中でも、先日黒尾くんがくれたプリンは、かなりのお気に入りにランクインだ。あの口の中でとろける感覚。上品かつ濃厚な玉子プリンの下でひっそりと眠る、大人の風味のほろ苦いカラメルソース。ありきたりとも言える定番の組み合わせなのに、どうしてあんなにも美味しいんだろう。あの味を思い出しただけでうっとりしてしまった。あのときの感動を思い返し、頬に手を添える。

「とっても美味しかったなあ……。でも、並ぶの大変じゃなかった?」
「ぜーんぜん」

あのプリンの店がターミナル駅の駅前にオープンしてからしばらく経つが、テナントの入れ替わりが激しいあの立地で、店をたたむどころか人気が衰える様子は全くない。むしろオープン当時よりも人気を博しているくらいだ。
平日も放課後には売り切れになってしまうし、ましてや休日は開店前から並ばないとなかなか手に入らない。プリン好きを自負する私でも、今まで興味こそあれど買えたことはなかった幻のプリンなのだけど、黒尾くんはよくぞ手に入れたものだ。

「あのプリン、すごく人気でいっつも行列なんだよ」
「そうなの?」
「そうなの! 私もずっと食べてみたかったんだけど、売り切れで今まで全然買えなくて……。どうやって買ったの?」
「どうって、普通に並んで」
「ふつうに……?」

彼はさほど苦労した素振りもなく、「そんな美味いんなら自分の分も買っときゃよかったな」と一人ごちる。自分で食べるわけでもなく、ただの義理チョコへのお返しのためにあの長蛇の列に並ぶなんてできるだろうか。もしかすると、彼が買いに行ったときは偶然列が空いていたのかもしれない。
私がプリンに思いを馳せているうちに昇降口に到着し、上履きからローファーへ履き替えた。校門では研磨くんがスマートフォンをいじって待っているのだろう。ああそうだ、彼にもホワイトデーとしてキャラメルをもらっていた。そちらも春休みに入ってから会ってないし、やっぱり直接お礼を言わないと。

「子どもの頃から大好きなんだ。プリン」
「うん、知ってる。」
「だから、黒尾くんからもらったとき、本当に嬉しかった! ありがとう!」
「そんな喜んでもらえたんなら、贈った方としちゃ何よりですよ」

偶然私の好きなものを贈ったんじゃなくて、覚えてたんだ。記憶力がいいなあと感心してしまう。私は小学校のときの友達の好きな食べ物なんて全然覚えてない。すぐに思い出せるのは、家族と千枝の好き嫌いくらいだ。
黒尾くんは本当にすごいなあ。

「実はね、今のLINEのアイコンも、黒尾くんにもらったプリンなんだよ。うれしくて写真たくさん撮ったの」
「……それも知ってる。」

昇降口からほどなく歩くと、校門が見えてきた。そばに男子生徒が一人立っているのが分かる。研磨くんに違いない。予想通りスマホを見ているのか、こちらには気が付いていないようだ。呼びかけようと口を開いた瞬間、一つの異変に気が付いた。

「……あのさ、そんな好きならさあ、今度、どっか一緒に、」
「け、研磨くん、その髪どうしたの!?」

そこには、予想通りスマホを片手でいじっている研磨くんがいた。ただ、その髪色だけが、私が思い浮かべていたいつもの黒髪と異なっている。茶髪だとかそういう春休みデビューとはわけが違う。人目を惹く派手な金髪だ。校門のそばに立つ街灯がぼんやりと、彼の色の抜けた頭髪をらんらんと照らしている。
人違いかと一瞬目を疑ったが、私の素っ頓狂な声にスマホから顔を上げてこちらに視線を向ける彼は、まごうことなき研磨くんだった。
黒尾くんが何か言いかけていたのを遮ってしまったのは申し訳ないけれど、今は聞き返す時間も惜しい。

「な、なんで?! どうしたの、反抗期?!」
「あー、そういやそうだったな……」
「……べつに、反抗期ってわけじゃないよ」

研磨くんは一度口を開いたが、説明が面倒になったのか、はたまた黒尾くんが代わりに説明をすると思っているのか、何も言わず口を閉ざすと、黙って毛先を指先でつまんでいる。
黒尾くんはただ、私を見て苦笑いを浮かべるばかりだった。