小説
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答えが出るまで俺のことで頭をいっぱいにしてくださいね



修学旅行も終わり、暦は二月。
迫るバレンタインデーに向けて書店の特設コーナーに陳列されたお菓子作りの本を、ぱらぱらとめくる。

今年は何を作ろうか。来年は受験だしまだ進路は未定だけれど、はたしてバレンタインなんてものに浮かれてる余裕があるかは分からない。そうでなくても三年の二月以降は自由登校になるし、おそらく高校で友人とお菓子を贈り合うのは今年が最後になるだろう。当日は試験前だけど前日は日曜日だから、少し早めに試験勉強を始めて、息抜きとして作ればいいかな。
バレンタインを高校で満喫できるのもこれが最後だと思えば、普段より気合いが入るのも当然だ。

入り口そばに設けられた特設コーナーそばに立っていると、重たい引き戸が開かれ、新たに客が入ってくる。通路を確保しようと身体を端に寄せつつ視線を向ければ、その人物はよく知る相手だった。

「研磨くん!」
「名前ちゃん」
「研磨くんも、何か買いに来たの?」
「うん、ゲーム雑誌」

彼はそう言って、新刊棚に並ぶゲーム雑誌を手に取った。表紙には新作特集の文字がポップな字体で並んでいる。そういえば先日、有名RPGの続編がもうじき出るのだと、弟がはしゃいでいた。

「私もそれ、買って行こうかな」
「隼人に?」
「うん。この表紙のゲーム、買うって言ってた気がする」
「今日じゃなくてもいいんじゃない。もしかしたら自分で予約してるかもしれないし」
「ああ、それもそっか」

男の子でも、研磨くん相手なら普通に話せるんだけどなあ。
彼とは家が近いから小学校に上がる前から知り合いだったし、目線が比較的近いので威圧感もない。弟と話しているくらいの感覚だ。

「そういえば」
「うん?」
「修学旅行、クロとなんかあった?」

彼の言葉に、分かりやすく肩が跳ねた。

「な、なんで?!」
「……声」

思わず大きな声が出て、はっと口元を手で押さえる。周りを見渡せば、他のお客さんにちらりと一瞥されたものの、有線放送のボリュームが大きいためか特に気にはされていないようだった。
誰にともなく軽く会釈をして、研磨くんに向かい直す。

「ど、どうしてそんなこと聞くの……?」

修学旅行最後の夜の、あの出来事以来、黒尾くんとはほとんど話していない。メッセージアプリに届いたたわいも無い連絡にも、なんとなく返信できずにいる。
彼のあの言葉が、どういう意図で出たのかは分からない。私が変に意識しているだけかもしれないけれど。そうでなくても、誰にも話したことのなかった自分の過去を話してしまったことが、今さら恥ずかしくってたまらなくて、旅行から帰ってからも必死に避けてしまっている。

「なんか修学旅行から帰ってきてから、クロが変だから」
「変って?」
「ニヤけてたかと思ったら、急に携帯見て落ち込んだり……。名前ちゃんと、なにかあったのかと思った」
「な、なんも、ないよ……?」
「そう。じゃあいいや」

あからさまな嘘に深く追及されることなく、淡白な返事をされたことに安堵する。ああ、研磨くんのこのさっぱりとした感じ、ありがたい。
それにしても、黒尾くんと私には普段ほとんど接点はないはずなのに、研磨くんはどうして私に聞いてきたんだろうか。黒尾くんが変って、なんでだろう。彼の言動に困惑した私がおかしいとかならまだしも。
考え込んでいると、研磨くんが私の手元にちらと視線を向けた。

「名前ちゃんは、何読んでたの」
「え、ああ……。もうすぐバレンタインが近いでしょ? 友達に配るお菓子、なんにしようかなって」

親友はトリュフを作ると言っていたから、なるべく似通ったガナッシュ系は避けようと思っている。チョコはみんな作るだろうし、焼き菓子にしようかな。あんまり特殊な材料が要らなくて、私の技術でも作れるもので、けれどお菓子作りをしたという達成感が得られる程度に手間がかかるものがベストだ。

「……アップルパイは?」
「あ、いいかも」

たしかに条件にはぴったりだ。私の乗り気な返事に、研磨くんは穏やかに微笑む。

「作ったら、研磨くんも食べる?」
「うん、楽しみにしてる」

 ◇

……想像以上に、余ってしまった。
まだタッパーの半分ほど残っているアップルパイを忌々しく見つめる。
放課後になったら他クラスの友人にも配り歩くつもりだったのだが、運悪く提出物の回収を頼まれてしまい、教室に戻ったときにはほとんどの生徒が帰ってしまっていたのだ。
アドバイスをくれた研磨くんには、彼のお母さんを介して昨晩のうちに提供済み。昼休みのうちに特に仲の良い友人にあげることはできたが、これ以上もらい手が見つからなければ、残ったアップルパイは持ち帰るほかない。
一切れをもうすこし大きめに切り分けておけばよかったと後悔したところで今さらだ。
持ち帰ったら、きっと隼人が食べるよね。食べ盛りの弟を思い浮かべ、容器の蓋を手に取ったときだった。

「なーにタッパーとにらめっこしてんの?」
「く、黒尾くん」

ひと月近く避けていた彼が、すぐそばに立っていた。

「部活は?」
「試験前の活動禁止期間」
「あ、そっか……」

定期試験の一週間前から、部活は中止になるのだ。帰宅部である私には関係がないので、すっかり忘れていた。
黒尾くんは、なぜか私の前の席の椅子にそのまま腰掛ける。なんで。
この前の修学旅行以来、なんだか前よりももっと緊張してしまう。放課後で、人目はほとんどないのに、挙動不審になってしまい目が合わせられない。
わざとらしく目の前の彼から目を逸らして、手元のタッパーを見つめた。

「それ、バレンタイン?」
「あっ、うん、そう。友チョコ」

チョコじゃないけど。男の子にチョコレートを用意したこともない私にとって、毎年二月十四日は、惚れた腫れたとは無縁の日だ。ただ友達とお菓子を贈り合うイベントだと思っている。
目の前の彼は、スポーツもできるし人当たりもよい。きっと大勢からチョコレートを贈られているのだろう。そんな彼が修学旅行のときに私に向けていた視線は、一体どんな意図があったというのか。

「結構残ってっけど」
「あー……誰に配るか考えずにとりあえず切り分けちゃって、余ってるの」
「ふうん……」
「まあ、どうせ帰ったら隼人が食べるだろうし」
「俺には?」
「え?」
「友達に配ってんなら、俺ももらってもいいんだよな」
「と、友チョコを……?」
「え、だめ?」

黒尾くんはもらえるのが当然のようにそう言った。
もし私のことをそういう目で見ているのだとしたら、こんな軽々しくチョコレートがほしいと言えるだろうか? すこし考えづらい。
そうだよ、友達だもん。やっぱり、この間のあれに深い意味はなかったのだ。私が変に意識していただけ。
そう我に返ると、途端にほっとして頬が緩んだ。

「そ、そうだよね! 友達! 私たち友達だもんね!」
「お、おう」
「はい、めしあがれ!」

彼は少し面食らった顔をしたあと、気を取り直すようにいただきますと手を合わせた。
タッパーの中から無作為に選んだひとつを直接掴み頬張る。数回の咀嚼ののちに、彼の顔が綻んだ。

「めちゃくちゃ美味えな。菓子作り得意なの?」
「ううん、べつにそういうわけじゃ……。レシピ通りに作っただけだよ」

冷凍のパイシートだし、焼いたのはオーブンだから火加減も関係ない。細かい工程といえば林檎を甘く煮るくらいで、レシピ通り作ればだれが作ったって同じ味だ。
美味しいと言われればもちろん嬉しいけれど、胸を張って料理上手と名乗るなんてまだまだ私の腕前じゃ烏滸がましい。

「いやほんと、まじで美味い。もう一個食っていい?」
「うん、たくさんどうぞ」

彼がまたパイを手に取ると、パイ生地の欠片がぽろぽろとこぼれた。慌ててタッパーを差し出せば、彼はそれを受け取り、受け皿代わりに使う。

「これね、なに作ろうか悩んでたら、研磨くんがアップルパイがいいんじゃないってアドバイスしてくれたの」
「あー、あいつアップルパイ好物だから」

そうだったんだ。また今度会ったら、彼の口に合ったかどうか聞いてみようかな。
話しながらも黒尾くんは、一つまたひとつとアップルパイを食べていく。みるみるうちにタッパー容器の底が見えてきた。男の子ってよく食べるなあ。研磨くんがと言うけれど、黒尾くんもアップルパイ好きなんだろうか。

「お、いたいた。黒尾ー、ノート助かったわ! コピー取り終わった」
「ああ、やっくん。どういたしまして。休んでた範囲大丈夫そう?」
「や、たまにお前の文字が解読できねえ。あとは海に教えてもらう」
「酷くない? 恩を仇で返すのやめてもらえます?」

ふいに、少し小柄な体格の男子と海くんが二人で教室に入ってきた。たぶん、バレー部の人なんだろう。
彼らは三人で親しげに話しはじめ、二人と親しくない私は、ただ自分の教室で自分の席に座っているだけなのに居心地が悪くなる。

「苗字さんは、こんな時間までどうしたの?」
「えっ」

急に海くんに話しかけられ驚く。居心地はたしかに悪かったけれど、会話の中に入りたかったわけではないのだ。初対面の男子と、ただのクラスメイトの男子。どの程度のフランクさで、何をどう話せばいいのかわからない。

「俺がバレンタインもらってたんだよ」
「あ、そうだったんだ。悪い苗字さん、俺たち邪魔したかな」
「は!? 二人って、そういう仲だったわけ?」
「あ、いやあの、ちがくて……これは、友チョコっていうか」
「そうそう、友チョコ。チョコじゃねえけどな」
「あ、そうだ! 海くんたちも、苦手じゃなければどうぞ。残っちゃっても困るし」
「ああ、ありがとう」

誤解されかけ焦る私をよそに、黒尾くんは至って冷静にアップルパイを食べている。小柄な男子は、黒尾くんの肩ごしに、彼が手にもつタッパーを覗いた。

「……えーっと。苗字、だっけ。タッパーん中、もう空だけど」
「え? そんなはずは……」
「悪い。全部食っちゃった」

そう言ったのと同時に、黒尾くんは最後の一つであろう一口を頬張り、空っぽのタッパーを私に差し出した。
ごちそうさまでした、と先ほどと同じように彼は両掌を合わせる。反射で思わずお粗末さまですと返してしまった。
でも、結構残っていたのに。いくら男の子の胃袋といえど、あの時間で一人で食べきるなんてそうそう出来ないはずだ。

「ご、ごめんね二人とも」
「いや、苗字さんが謝ることじゃないよ」
「悪いのは考えなしにばかすか食ってたこいつだろ」

二人は特に気にしていないようで、小柄な彼に至っては黒尾くんの後頭部を小突いている。
たくさんどうぞと言ったのは私だし、お菓子が余らなくてなによりだけれども、まさか一人で食べきってしまうとは思っていなかった。

「そんなにお腹減ってたの? 他の子からチョコもらったりしたんじゃない?」
「まあ結構もらってほしいって言われたけど、全部断ったんで」
「は? モテ自慢かよ」
「まあまあ夜久。夜久だってもらっただろ?」
「どうして断っちゃったの?」
「……気持ちに応えるつもりもないのに、物だけ受け取るのも失礼だろ」

純粋な疑問を投げかければ、黒尾くんは私をちらと見たあと、視線を逸らしてそう言った。
そういうものなのかな。せめてチョコだけでも受け取ってほしいっていう子もいそうだけど、当の彼がそういう方針なら何も言うまい。
そう考えると、たしかにタッパーに入った私の量産型アップルパイは本命でないことが明らかで、気楽に食べやすいものだったんだろう。

「でも、全部本命チョコってわけじゃないでしょ?」
「え、急にディスられてる?」
「あ、違うの。そうじゃなくて。クラス全員に配るっていう子だって、いるでしょ」

実際、私のクラスメイトにもクッキーを大量生産してきて男女問わず配っている子がいた。彼女の作ったクッキーは、さっくりとしっとりが両立していて、その出来に感動したものだ。そういったものなら、私のものと同様、貰う側も気安いし断る理由などないと思うけれど。

「まあ、あったけど」
「それも受け取らなかったの? どうして?」
「……どうしてだと思う?」

彼は、逸らした視線を私にもどし、へらりと笑う。まるでなぞなぞを出題しているみたいな、いたずらっ子の顔だった。