小説
- ナノ -




忘れたい記憶、忘れられない熱視線



「名前って、最近──くんとよく話してるよね」
そうかな? そんなことないと思うけど……

「あの子が──くんのこと好きって、知ってたでしょ? それなのに仲良くしたりして……信じらんない」
「苗字さんと仲良くすると、好きな子取られちゃうよ」
知らなかった。ちがう、私、そんなつもりじゃ、

もう仲良くしたりしないから。もう話したりしないから。だから、だからおねがい。そんな目で見ないで。



「……っ!」

嫌な夢を見た。
暗い部屋の中、息を切らし、やたらと重たい上体を起こす。身につけている浴衣には脂汗が滲んでいた。
周りを見渡すと、広い和室に布団が八組。それぞれ思い思いの体勢でクラスメイトたちが寝入っていた。
ああそうだ、修学旅行に来ていたのだった。わざわざこんなときに、あんな夢見なくたっていいのに。
どうやら悪夢の物理的要因は、隣で眠っていた友人のようだった。私の腹の上にどんと載せられた彼女の長い脚を下ろし、乱れた布団をかけ直してやる。随分とまあひどい寝相だこと。起きたら文句を言ってやろう。

うなされていたところをクラスメイトに見られなかったことにほっとしながら、物音を立てないよう注意して布団から抜け出した。
いまだ、心臓はどくんどくんと激しく鼓動している。あんな夢を見た直後だ、すぐに寝直すのは難しいし、水でも飲んで落ち着こうかな。たしか、エレベーターの近くに自動販売機があったはずだ。そばに置いていた鞄から財布を持ち出す。

時刻は午前四時、外はまだ暗い。廊下に出ると、非常灯の緑色の光だけが暗闇に怪しく浮かび上がっていた。旅館内は空調が良く効いていて風呂上がりは浴衣一枚でも暑いくらいだったはずなのに、先程かいた汗が冷えてきて思わず身震いする。かと言って、今さら部屋に上着を取りにもどる気分にもなれなくて、両手で腕をこすった。

暗い廊下から、唯一明かりが灯るエレベーター前にたどり着く。自動販売機の前には、黒尾くんが立っていた。あ、と思ったときには目が合ってしまう。
先日彼になぜか連絡先を聞かれてからというもの、何度か携帯でも対面でも会話はしたけれど、いまだに緊張してしまう。

こういうときって、どんな挨拶が適切なんだろうか。おはようにはまだ早い気がするし、こんにちはの時間ではないし、部活帰りでもない彼にお疲れさまも違う。

「こ、こんばん、は……?」

私のぎこちない挨拶に、黒尾くんはふはっと音を立てて吹き出した。

「はい、こんばんは。なんで疑問形なんだよ」
「な、なんとなく……」
「こんな時間にどうした? 先生に見つかったら叱られんぞ」
「あー、なんか目が覚めちゃって……。黒尾くんは?」
「俺は毎朝ランニング行ってるからさ。朝飯前に行ってこようと思って、その前にスポドリ買いに来た」

習慣といえど、修学旅行中も欠かさないのかと感心する。普段から朝練もあるだろうに、その上ランニングまで。運動部ってすごいなあ。

「なあ、浴衣一枚で寒くねえの?」
「……さむい」
「一月だぞ、なんか羽織ってこいよ」
「忘れちゃったの」
「……これ、着れば?」
「え、いいの?」
「どーぞどーぞ」

彼が羽織っていた半纏を受け取り、そのまま羽織った。冷え切った身体が人肌の温もりに包まれ、思わずほっと息を吐く。
それと同時に、はっとして、周りをきょろきょろと見回した。こんな時間だ、ほかに生徒なんているはずもないけれど、あんな夢を見たあとで過敏になっている。もうすっかり、吹っ切れたものだと思っていたのになあ。

「? 先生ならついさっき見回り来てたから、あと一時間くらいは多分来ねえよ」
「そ、そっか……」
「そういや、苗字の班はどこ行く? 今日の自由行動」
「ああ……うちは、空港近くのメインストリートでお土産買う予定」

本当は水族館も行きたかったけど、地理的に難しく諦めたのだ。昼には空港に集合だから、時間にもさほど余裕はない。自由行動とはいうものの、大半の生徒は土産を買うだけで終わってしまうだろう。

「まあ荷物になるし、土産はどこも最終日だよな」
「うん。黒尾くんも、部活の後輩にお土産買うの?」
「買いますよ。まあ優しい先輩なんでね」

わざとらしい口調で、自分で優しいと称する彼に思わず小さく笑った。

「そういえば飲み物買いにきたんじゃないの」
「あ、そうだ」

彼の言葉に思い出し財布を開けると、運悪く小銭を切らしていた。お札入れを覗くも、こちらも一万円札しか入っていない。

「……あー」

フロントまで行けばおそらく両替してもらえるだろうが、わざわざそこまでするのは気が引ける。ああもう、一体何しにきたんだろう、私は。

「小銭、いくら足んねえの? 出そうか」
「あ、いや、平気だよ! この前もココアもらっちゃったし」
「気にすんなよ、あれはうちの海のためにありがとねっていう礼だし。それより、なんにする? 」
「……じゃあ、お茶がいいな。あったかいの」

言うそばからすでに、横から小銭を自販機に投入し始めた彼に甘えることにした。ガコンと音を立てて落ちたペットボトルを、黒尾くんが取り出し差し出す。

「ありがとう」
「どういたしまして」

熱すぎずじんわりとした温かさが手のひらから伝わってくる。唇を湿らせるように一口飲んだあと、暖を取るように、手の中でしばらく転がした。
彼は何が楽しいのか、それを微笑んで眺めてくる。

「ごめん、お金今度返すね」
「いいのいいの」
「でも、悪いよ」
「んー、じゃあさ、お礼にそれ一口飲ましてよ」
「え……」
「そんな、あからさまに嫌な顔しなくても良くない?」

私は一体どんな顔をしていたんだろうか。拗ねたような彼の指摘に、思わず顔を手で押さえた。変な顔をした自覚はないが、両手のひらで頬を挟み、むにむにと揉んでみる。

「……冗談だって。こんくらいほんと気にすんなよ」
「わ、」

呆れるように笑い、彼は私の髪をくしゃりとかき混ぜた。

「苗字は、それ飲んだらまた寝んの? 朝食まではまだけっこう時間あるけど」
「……う、ん」
「? どうした」

眠れるかな。そう思って言い淀んだ返事に、彼が反応する。

「……ちょっとね、さっき、怖い夢を見ちゃって」
「怖い夢って、どんな?」
「怖い夢っていうか、昔の夢なんだけど。中学のときの思い出」

あのときのことを、人に話したことはほとんどなかった。それでもなぜか、私はぽつりぽつりと、たどたどしく口を開いて、彼に語り始めた。……やっぱり、自分で思っているよりもさっきの夢に動揺しているのかもしれない。

「中学のときね、仲が良かった男の子がいて……。特に恋愛とかそういうんじゃなくて、よくおしゃべりとかするくらいの。……でも、その男子と仲の良い男子が、女子にすごく人気があって、それで、周りの女子から、ちょっと……注意というか、なんというか、まあ、そういうのがあったの」
「その、人気の男子と仲が良かったってわけでもないのに?」
「うん。その男子目当てで、その子とも仲良くしてたんでしょって言われちゃって。二人ともに失礼な話だよね。……それで、それ以来ずっと、男子とはあんまり喋らないようにしたんだけど。そしたらいつの間にか、男子と話すのが怖くなっちゃった」

あ、だめだ。話しているうちに、かつて言われた言葉を思い出し、思わず潤んできた瞳をごまかすように、へらりと笑った。本当に、過去の話なのだ。とっくに割り切れていて、さっきの夢があんまりにリアルだったから、少し引きずっているだけ。
黒尾くんは何も言わず、ただ黙って私の話を聞いている。ごめんね、こんな話聞かされても、困るよね。

「変だよね……。もう、何年も経ってるのに、そのときのことが忘れられなくて、今でもずっと周りを気にしちゃうの」

私は今、誰かに視線を向けられてないだろうか。目の前の彼のことが好きな誰かを、傷つけていないだろうか。そう思うと、怖くなる。だから、なるべく不必要に話さないようにしてきたのだ。
同い年くらいの男の子だけが苦手になってしまっただけで、歳下や、先生などの大人の男の人は平気だから、今まで大して困ったことはなかったけれど。挙動不審な私にいつも話しかけてくれる黒尾くんのことは、きっと困らせていたのだろう。

「あはは、ごめん、なんか湿っぽくなっちゃったね。気にしないで」
「……俺と話すのも、怖い?」
「う、ううん、」
「ほんとに?」
「……ほんとだよ。ちゃんと、黒尾くんとも話せるようになりたいって、思ってるんだよ」
「じゃあさ、」

一歩、黒尾くんがこちらへ歩み寄る。二人の距離が近くなった。俯く私の顔に彼が手を添え、私の顔が上を向くように持ち上げられる。

「俺と話してるときは、俺だけ見ててよ」

他のやつのことなんか、考えないでさ。
そう言って、彼の親指が、私の頬をすりと撫でる。
距離が近い。彼の顔しか、目に入らない。
どうしてそんな目で見つめるの。まるで、愛おしくてたまらない、なんて眼差しで。

 ◇

クラスメイトの携帯から、一斉にアラームが鳴る。朝食に間に合う時間に鳴るよう、同室のみんなで設定していたのだ。
けたたましい音に反応して、一人また一人と布団から這い出てくる。

「ふぁあ……。ねむ……」
「あと五分……」
「あれ、委員長もう起きてんの……? 早いね……」
「ねー、誰か私のコンタクトレンズ知らない?」
「まだアラーム鳴ってんのだれのー? 早く消してよぉー」
「おーい、名前 ? もしかして目開けたまま寝てる?」

寝相の悪い友人が寝ぼけ眼のまま、私の顔の前で手を振る。

「お、起きてる……」
「起きてんのね。おはよ」
「おはよう……」

私は、あのあとずっと布団の上で体育座りをしたまま、放心していた。
な、なんだったんだあれは……。あれ、あんな、なに……?

どうやって部屋に戻ってきたかも覚えていない。
ただ、羽織っている半纏と買ってもらったお茶が、先ほどの出来事を現実だと主張している。お茶は、もらった直後に一口飲んだきり、すでにすっかり冷め切っていた。

深い意味は、他意はないのかもしれない。人の話を聞くときは相手の目を見なさいって、そういう話だ。うん、きっとそうだ。
必死にそう考えようとするものの、脳裏にあの眼差しが浮かんで、消えてくれない。
思い出すたび、顔がみるみる熱を帯びていく。

「ねえ、名前 大丈夫? 熱でもあんの?」
「う、ううん! 平気だよ!」
「ほんとに? なんかずっとぼーっとしてるけど」
「してないしてない! 元気! 朝ごはん食べ行こ!!」
「まだ大広間空いてないでしょ。ほんとにどうした」

訝しむ友人の前で、必死に落ち着こうと深呼吸する。
そこのお茶でも飲んで落ち着いたらと差し出されたペットボトルは、言うまでもなく彼にもらったもので、残念ながら完全に逆効果だ。

かくして、楽しい楽しい高校の修学旅行の思い出は、悪夢から黒尾くんとの夜へとすっかり塗り替えられてしまったのであった。