小説
- ナノ -




変わらないで、愛しい人



名前を見送りながら、くつくつと笑っていると、隣に立つ研磨からじとりとした視線を向けられた。

「……なに笑ってんの」
「あいつ、昔から変わってねえなあと思って」
「そう……? 大人っぽくなったと思うけど」

研磨の言う通り、名前は小六から考えれば随分女らしく、大人っぽくなっているし、入学してからも見るたび可愛くなっていくように思う。けれど、中身は昔と変わらない、正義感があって困っている人を見過ごせない、お人好しの名前のままだった。
誰だよ、あいつが変わったなんて言ったの。俺だけど。

名前は子供のときから、はたから見ていて呆れるくらい責任感が強くて面倒見が良くて、周りの大人から「名前ちゃんはしっかりしていて安心ね」と信頼されていた。小学校の通学班で、俺か名前のどちらかに班長を任せることが決まった際も、教師・班員の保護者、満場一致で彼女を選んだそうだ。
あのときの班長の名前ちゃんから、呼び止めたときに振り向いて「なあに?」と小首をかしげる癖も、へらりと笑ったときの顔も、あいつは何ひとつ変わっていなかった。

また明日。
入学式のときには返ってこなかった「また」が、今回はあるのだ。きっと、名前としては深い意味はなかっただろうけれど、それでも、また名前と会話が出来たことが嬉しくてたまらなくて、俺は次を期待してしまう。

「……クロ。その緩み切った顔、なんとかしたら」

主将としての威厳もなにもないよ。
研磨の冷たい声の指摘に、照れ隠しにうるせえと返す。二人並んで、間もなく休憩が終わる体育館に戻った。




「黒尾、さっきの女子どうしたんだよ」

その日の練習後、部室で着替えながら夜久がこちらに問いかけた。その後ろでは、好奇心を隠せていない表情で山本がこちらを見ている。

「あー、海に忘れ物届けに来たって」

事情は少し違うのだが諸々を割愛して説明する。
電子辞書は、あのあと体育館へ戻ってきた海にすでに返却済みだ。
「ああ、四組の女子か。その割にはお前、なんか仲良さそうだったよな。知り合い?」

知り合いよりはもう少し近しいはずだ。だが研磨みたいに幼なじみかといえば、それも少し違う。となると友達になるのか? ここ一年以上、会話の一つもなかったのに?
俺たちの関係は一体、どう呼ぶべきなのだろうか。

「家が近所でさ。小学校のときは研磨と一緒によくつるんでたんだけど、中学は違くて、最近はあんま喋ってなかったな」
「へえ、研磨とも知り合いなのか」
「それにしても苗字さん、いい人だよな。関係ないのに丁寧に体育館まで届けてくれて」

海も朗らかに話に入ってくる。
名前は、男女ともに人当たりがいい海とすら普段ほとんど話をしないという。今日は、入学式のときよりは普通に話せていたと思うが、それでも当たり障りない世間話の域を出ない。やはり男子が苦手なのだろうか。それなのに、わざわざここまでやってきて。

「お人好しなんだよ、昔から」

呆れたように笑って、制服のシャツに袖を通した。
困っている人を見過ごせない、責任感が強い、お節介で世話焼きでお人好し。あいつのそういうところが、昔から好きだった。



その日の部活帰り、運良く二つ並んで空いた電車の座席に、研磨と腰を下ろす。ドア横の仕切りに寄りかかれる一番端の席に研磨が座るのは、二人の間で暗黙の了解になっていた。研磨は席につくなりエナメルバッグからゲーム機を取り出し、最近買ったばかりのゲームを起動する。早く続きをやりたくてじれったいのか、オープニングムービーをスキップしようとする研磨を横目に見ながら、ふと話しかける。

「なあ、名前と俺たちの関係って、なんだと思う?」
「なに、急に」
「幼なじみだと、なんかしっくり来ねえし……昔なじみ? 旧友?」
「……クロの、初恋の人じゃない?」
「は?」
「ちがうの?」

いや、違わないけど。
俺と会話しながらも、RPGゲームを続ける研磨を凝視する。

「研磨お前、知ってたのかよ」
「見てれば分かるよ。クロ、分かりやすかったし」
「まじか……なんか恥ずかしいな……」

分かりやすかったとは、観察眼のするどい研磨から見ての話なのか、それとも当時の俺がよほどあからさまだったのか。
今となってはどっちだっていいが、ほぼ身内に等しいこいつに『クロって名前ちゃんのこと好きなんだ』って目でガキの頃から見られてたなんていうのはどうにも照れくさい。

「だから、すこし意外だったんだよね。名前ちゃんがこっちに帰ってきてから、クロとあんまり喋ってなかったの。……今は、ちがうの?」

研磨は目線を液晶画面から動かさず、急カーブで大きく揺れる車内で器用に電子世界のオープンワールドを自在に駆け巡っている。現実でもこれくらい軽やかに動いてくれたっていいんですけど。

今は名前のことが好きじゃないのかと問われれば、多分ちがう。俺は、今も変わらず名前のことが好きだと思う。今日の偶然の会話に胸を弾ませてしまったし、俺が昔からバレーが好きだったと覚えていてくれたことに浮かれたし、変わらないところを見つけて、ああやっぱりと安心している。
三年間も空白期間がある上に、たった五分ほどのやり取りで理想との乖離に勝手に失望して、一年半会話すらしてなかったというのに、初恋はなかなか簡単に冷めてくれない。

「……入学式の日に再会したとき、すげえビビられたのがちょっとトラウマでさあ。多分今のあいつ、男子と話すの苦手みたいで」
「……そうだった?」

たしかに研磨と話しているときは、名前もわりと落ち着いている様子だったように思う。
名前は俺の家のはす向かい、要するに研磨の家と通りを隔てた向かいに住んでいて、こいつらは俺が音駒に引っ越してくる前からの仲だ。違いは単純に、付き合いの長さだろうか。

「今日は普通に話してたじゃん。また話してみたら」
「でも、話す機会ないだろ」
「携帯で連絡すれば」
「連絡先知らねえよ」
「聞いたらいいじゃん」

こいつ、自分の話じゃないからって簡単に言いやがる。そんな簡単に「そうだよな、じゃあ聞いてみるわ」って出来てたら、とっくに聞いてんだよ。
ただ確かに研磨の言うことはもっともで、俺はただ、自分から動かない言い訳をぐだぐだと述べているだけに過ぎない。話すチャンスなんて自分で作ればいい。俺が連絡先を聞かなかったところで、名前は何も困らないし、俺たちの関係は何も変わらない。
この膠着した状態を変えるには、ただ俺が動くよりほかないのだ。

 ◇

次の日、昼休みが終わる少し前。
名前のクラスの入り口に立ち、教室内を見渡す。
ざわつく教室で名前は一人、四限目の授業で使われた黒板の板書を消していた。

「あー、苗字、ちょっといい?」
「く、ろおくん。どうしたの?」

黒板に近い方の扉に移動して声をかけると、名前は一瞬目を見張った。手に持っていた黒板消しをクリーナーの上に置くと、こちらに駆け寄って、小声で用を訊かれる。

「あー……、えっと、あのさ」
「うん」

勢いのままに来たはいいものの、名前の態度は昨日よりもぎこちない。この状況で連絡先を聞いて、もし断られたらと想像する。男が苦手だか男嫌いだかは分からないが、その可能性は十分にあった。
呼んでおきながらなかなか用件を切り出さない俺に、名前は不安げな様子で小首を傾げる。
くっそかわいいな、ああもう、どうにでもなれ。断られたらそんとき考えろ。

「えっと……。海くんなら、多分もう五限の教室に向かったと思うけど」
「ああ、いや、海じゃなくて。……あのさ、連絡先、教えてほしいんだけど」
「え?  ……ああ、隼人の?」

なんでだよ。
勇気を振り絞った言葉に返された予想外の答えに、思わず脱力する。少しくらいは自分に関心を向けられてるとか考えないものだろうか。だが、その発言は、要するに俺たちの関係がそれだけ希薄になっているということでもある。

そうしているうちに予鈴が鳴って、四組の生徒たちはぞろぞろと次の授業の教室へと移動を始めた。
彼らは入り口そばに立っている俺たち二人を物珍しげに眺めながら横を通り過ぎる。

「ちがう、あなたの。苗字名前さんの」
「え……、なんで……?」

気を取り直して発言を否定するも、本当に不可解そうな面持ちで質問が返ってくる。
なんでって。理由なんて、お前と話したいから以外に何があるんだよ。そこまで説明しなきゃだめ? 5W1H必要?
夜寝る前に『いま何してた?』って話しかけたり、あわよくば電話とかしちゃったりなんかしたいからなんだけど、それは申告してもいいやつ?
まだ教室にちらほら残る周囲の人間から、好奇の視線を向けられていることは分かっている。その視線に、名前が居心地悪そうにしていることも。申し訳ないとは思うが、全く接点のない俺には、こんなタイミングじゃなければ名前に話しかける機会はない。

「なんでも」
「なんでも……」
「苗字の連絡先を、俺が知りたい」
「……っ! 分かった、分かったから。教えるから……!」

そんな大きな声で言わないで。
そう言いながら、名前は慌てて、スカートのポケットから自分の携帯を取り出す。両手で携帯のパスコードを入力して、そそくさと連絡先交換用のQRコードを表示した。

「……ん、出来た、ありがとな。あとで連絡するわ」
「う、うん……。じゃあ私、移動教室だから、もういくね」

自分の机に事前に準備していたのであろう教科書をつかんで、いつかの入学式と同じく逃げるように教室を出ていく名前の後ろ姿を眺めながら、目的達成に感極まった俺は小さくガッツポーズをした。




風呂上がり、濡れた髪を無造作にバスタオルで拭いながら、自宅の階段を上がる。二階の一番奥が自分の部屋だ。
勉強机の上に置いたままのスマホを手に取り、メッセージアプリに溜まった未読通知を消化していく。通知の大半はグループチャットで数人が盛り上がっているもので、返信が必要なものはほとんど無かった。

液晶画面を操作しながら、「新しいお友だち」と表示されたところに目を止める。飾り気のない、苗字名前というフルネームのユーザー名と、おそらく喫茶店かどこかで撮ったのであろう、プリンの写真のアイコン。旧知の仲のはずだが、この情報社会で、本日やや強引に名前の連絡先を知れた俺は、ようやく彼女とお友だちとしてのお付き合いがまともに出来るようになったのだ。

はす向かいに住む名前は、物理的距離だけで言えば、きっと今俺がいる部屋から50mと離れていない。中学のときとは違う。ほんのすぐそばにいるのだ。それでも、昨日までの俺にとっては、遠くから眺めるだけの、あまりに遠い存在だった。それがいきなり指先一つで話しかけられるというのだから、なんだか現実味がない。

さて、最初はなんと送るべきだろうか。
「黒尾です」か? そんなんユーザー名を見れば分かるだろ。「よろしく」か? 復唱のように四文字だけ返されて、会話が止まるのが目に見えた。
数分間、何も表示されていない、名前とのメッセージ画面と睨み合い、そして決意する。
いける。今日の俺は勇気を出した。今回も出してみせる。手を伸ばして、スマホを身体から離す。親指で、通話ボタンにそっと触れた。呼び出し音が鳴り始めたスマホを耳元に当てて、唾を飲み込む。普段は何の感情も芽生えない呑気なメロディに、こんなにも緊張するのは初めてだ。風呂上がりとはいえ、初冬の時期。部屋は冷えきっているはずなのに手汗が出てきて、スマホを持つ手を入れ替えて寝巻きのスウェットで拭う。数十秒経っても、メロディは鳴り止まない。
ああもう寝てっかな。それとも突然の電話に戸惑っているかのどちらかか。
もし出なかったら「悪い、間違えた」とでも送って、明日直接謝りにいこう。


『……はい、もしもし?』

不意に音楽が途切れスマホの向こうから聞こえた、低い声。
想像しなかった男の声に息を呑むも、すぐに声の持ち主に思い当たった。

「……隼人かよ」

途端に緊張の糸が解けて、腰掛けていたベッドに勢いよく倒れ込む。

『鉄くんじゃん、久しぶり』
「おう、久しぶり。お前声変わりした?」
『した。最近成長痛やばい』

彼女の弟である隼人と話すのはおよそ四年半ぶりか。ガキの頃しか覚えてないが、今は中学一年生のはずだ。ちょうど成長期だろう。

「てかお前の姉ちゃんに電話したつもりだったんだけど」
『名前ならさっき洗濯終わったから洗面所行ったよ。電話、鉄くんからだったし勝手に出た』
「勝手に出んなよ。スマホのロックかかってたろ』
『名前のパスワード、自分の誕生日だよ』
「セキュリティがばがばだな」

そのパスワードなら俺だって開けられてしまう。しっかりしてんだか、抜けてんだか。
数字四桁を脳裏に浮かべ、思わず笑みがこぼれた。

「音駒中だろ? 部活どこ入った?」
『部活はめんどくさくてなにも、』
『ちょっと隼人ティッシュ! 入れっぱなしなんだけど!』
『……あー、ごめん』

不意に聞こえた、電話から離れているにも関わらずこちらまで届く名前の怒声と、あまり罪悪感を感じられない隼人の返事。話の内容から簡単に推測できた大惨事に、うわあと苦笑いを浮かべる。そういえば、小学生のころもこうやって弟の忘れ物やらを注意してたな。

「変わってねえなあ、お前も名前も」
『ほんと、相変わらず口うるさいんだよ……。あ、名前に用事だっけ、変わろうか』
「あー……、いいや。忙しそうだし」

誰かさんがティッシュを洗濯機に突っ込んだおかげで? と揶揄すれば、飄々と『分かった、じゃあまたね』と通話が切れる。
昔はあんなに姉ちゃん姉ちゃんと甘えてたくせに、名前も呼び捨てにして一丁前に生意気だ。

通話が終了しました、と表示される画面を確認し、スマホのスリープボタンを押した。元から何か話すことがあって電話をかけたわけじゃないし、今の時間から洗濯のやり直しはさぞ苦労だろう。
家での元気そうな声が聞けただけでも満足してしまった、と言うと、我ながら気持ち悪いだろうか。



翌朝、廊下を歩く名前の後ろ姿を見かけて、足早に横に並ぶ。

「おはよ」
「……! お、おはよう」

やはり昨日遅くまで洗濯されたティッシュの始末をしていたのか、あくびを噛み殺していた名前が咄嗟に口元を押さえる。俺から昨日電話があったことは聞いていないのか、声をかけても名前は不思議そうにこちらを見上げた。

「昨日は洗濯おつかれ」
「えっ、な、何で知ってるの?」

名前は驚きで目を丸くして、こちらを見上げる。

「あと、携帯のパスワード変えた方がいいと思います」

俺の脈絡のない発言に、名前は目をぱちぱちと瞬かせ、きょとんとするばかりだった。
あー、その顔かわいい。