小説
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その言葉をずっと待ち望んでいたことなど彼女は知らない



一年目は、「なんかぽいよね」という前の席の女子の謎の一言が原因だった。
二年目は、「今年もよろしくな」という担任教師の無茶苦茶な一言が理由だった。
かくして私は、二年連続でクラスの学級委員長を務めている。

学校にもよるとは思うけれど、学級委員なんてものにリーダーシップが必要とされる場面はほとんどなくて、大半の仕事が雑用だ。
集会時の点呼にホームルームの進行、生徒会行事の手伝い。挙げ句の果てには提出物の回収まで頼まれると、それくらい日直でいいだろうとは思うけど、教師に気軽に抗議できるほどフランクな性格でもない私は言われるがままだ。
仕事は面倒だとは思うけれど、誰かがやらなくちゃいけないことだし、力不足とも役不足とも感じない。「ぽいよね」と言われた通り、たぶん私は地味な雑用を粛々と行うのには向いてる性格なんだと思う。

「あれ? 海ってもう帰った?」

その日、隣のクラスの男子が私のクラスの教室に顔を出したのは、終礼が終わって15分ほど経ってからのことだった。教室の中を見渡してお目当ての人物を探せど、姿も荷物もすでにここにはない。彼が探す海くんは、終礼が終わるといつもすみやかに教室を出ていくのだ。
扉の近くに座る男子が、同じように教室を見渡し、海くんの机を確認したのちに彼に返答する。

「多分、もう部活じゃね?」
「早えな。あいつって何部?」
「たしかバレー部」
「バレー部ってどこでやってんの?」
「第二体育館じゃなかった? どしたん?」
「五限であいつに辞書借りててさ。放課後返すって約束してたんだけど」

彼の手の中には、黒い保護カバーに入った電子辞書があった。たしか隣のクラスは今日の五限目に古典があったはずだ。昼休みのあとの古典教師の声は、子守唄のように聞こえるのだと友人がぼやいていたのを思い出す。

「まあ、机の上に返しときゃいっか」

そう言って彼は、海くんの机の上に、無造作に電子辞書を置く。
教科書類をスクールバッグにのんびり詰めかえながら彼らの会話を耳に入れていた私は、思わず眉を潜めた。
電子辞書はノートや筆記用具のように安いものではないし、今週は英語の長文読解の課題が出ていた。自宅に紙の辞書があったとしても、それで課題をこなすには苦労するというのは想像に難くない。学校で盗難なんて考えたくない話だけれど、教室にむき出しで置いたままにするのはよろしくないのではないだろうか。けれどそれを、話したこともない他クラスの男子に指摘したところで、なんだこいつはと面倒くさがられるだけということは目に見えている。
耐えきれず、ついに席から立ち上がって口を挟んでしまった。

「あの、それさ。海くんに私が返しておくよ」

唐突に挟まれた女子の声に、男子二人が少し驚きながらこちらを向いた。

「おお、さっすが委員長!頼りになる!」
「まじで!? いいの!?」

クラスメイトは調子の良いことを言って、「うちの委員長に感謝しろよ」と隣のクラスの男子の背中を叩いた。背を叩かれた男子は、渡りに船と電子辞書をこちらに差し出す。

「いいの。どうせ図書室に行くついでだし」

本当は今日、図書室に行く用事だってないし、そもそも図書室は閉架図書の整理で臨時休館だけど。適当な理由をつけて、ついでだからと彼らを納得させたのは会話が早く終わるからだ。
気にしないで、と手を振れば、彼はまじサンキューなと軽い礼を言って廊下に走り去っていった。廊下走んな。


そういうわけで私は、普段話したこともないクラスメイトのために、体育館へつながる廊下をとぼとぼと歩いているのだった。
先ほどの会話によると、バレー部は第二体育館が活動場所らしい。普段の集会や体育の授業では、一番大きな第一体育館を利用することがほとんどで、第二体育館は教室のある校舎からは少し離れている。教室から離れるごとに、人とすれ違うことも少なくなり、室温も冷えていくように感じた。秋なんて一瞬で過ぎ去って、じきに冬が来る。そろそろコートを出した方がいいだろうか。でも早くから暖かい装いをすると、真冬が越せない気がして、毎年ぎりぎりまで我慢してしまう。

「はあ……」

脚が重かった。憂鬱だった。自分で言い出したくせに、早々に後悔している。
男子バレー部に友人なんていないし、そもそも男子に友人と呼べるほどの仲の人がいないし。練習真っ最中だったら声かけづらいなあ。
届け物の持ち主である海くんだって、全く関係ない私がわざわざ渡しに来たら不思議に思うだろう。

五限目で借りたんなら、六限の前に返せば良いのに。せめて放課後になってからすぐにうちのクラスに来れば、本人に返すことが出来ただろう。というか、どこにいるか分かってるんだから、自分で返しに行ったらいい。一人で黙々と歩いていると、先ほどの男子に対しての苛立ちがこみ上げて来る。
自分で勝手に話に乱入して嘘までついて申し出たくせに、勝手なものだ。
けれど、あそこで素知らぬ振りをして帰ることもできなかったのだから仕方ない。我ながら面倒な性格だ。

多少離れているといえど同じ学校の構内だ。牛歩のようなスピードでも、目的の場所へはそう時間もかからずたどり着く。

「……あれ」

入り口から顔だけ覗き込んでみると、第二体育館の中には女子しかいなかった。運動部男子特有の野太い声も聞こえない。女子バレー部はすでにボールを高く上げているし、まだ練習が始まっていない、というのは考えづらい。もしかして、今日の活動は休みだったりするんだろうか。
慌てて、入り口そばでドリンクを用意している女子バレー部の子に話しかけると、男子はこの時間帯は校外にランニングに行っているのだと教えてもらえた。
なるほど、そういう練習もあるのか。そりゃあるか。運動部に入ったことがなかったから、知らなかった。ずっと体育館の中でサーブやスパイクでもしてるものかと思っていた。
レシーブ、トス、スパイク。ワンツー、ワンツー、アタック。体育の授業じゃルール指導もおざなりでいきなり試合をさせられるし、バレーボールについてはほとんど知識がない。

どうしたものかね。君の持ち主はお外ですってよ。
心中でひとりごちて、手の中の電子辞書を見やる。
当然のことながら、返答はない。いや話し出されても困るけれど。
先ほどの女バレの子の話によると、いつもあと十五分くらいで戻ってくるのだという。
部活中の彼女に託すのも申し訳ないし、そもそも無関係な私が無理やり引き受けたことだ。ここでなおのこと関係のない他人に任せるのは頓珍漢な話である。

私は結局、男子バレー部の人が外から戻ってくるのを待つことにした。
体育館の入り口前に立って、ぼんやりと女子バレーの活動を眺める。黄色と青色のボールが高く上がって、床に勢いよく叩きつけられる。キュッという床とこすれるシューズの音が小気味良い。バレーボールってイタリアカラーみたいなやつもなかったっけ。あれ、でもテレビでたまにやってる東洋の魔女の映像だと白だったような。なんで変わったんだろう。

寄りかかっていた体育館の鉄扉は制服越しでも冷たいうえに廊下の気温は低く、ぼうっとしている間にも、肌がじんわりじんわりと冷えていく。思わず身震いをしたそのときだった。

「そんなとこでなにやってんの?」
「……あ、」

一番に体育館へ帰ってきた部員は、黒尾くんだった。入学式で顔を合わせたときよりも、さらに背丈が高くなっている。赤いジャージは一体いくつのサイズなんだろうか。
彼とは小学生のときのクラスメイトだが、高校に入ってからはクラスもかぶったことはなく、ほとんど交友はない。バレー部だったことすら、たった今知ったくらいだ。それでもまだ、顔見知りというだけで少しほっとした。

「えっと、ランニング、おつかれさま」
「あ、どうも」
「あのね、海くんに渡したいものがあって」
「、海?」
「うん」
「なんで」
「なんでって……、クラスメイト、だから?」

黒尾くんは眉を潜め、怪訝な声で問う。
ほんとになんでだろう。自分でも分かってないよ。なんでわざわざ放課後に一時間近くも学校に残ってるんだろう。寒いし。

「クラスメイトだから?」
「クラスメイトだから、電子辞書を返しにきました」
「……は? 電子辞書?」

うわ、なにその声。急に間抜けた声をあげられてびっくりする。たしかに我ながらなんの話だよと思うけど。
黒尾くんの後ろから続々と、男子バレー部の皆さんが外から戻ってきている。誰だろうという好奇心の視線に居心地が悪い。海くんの姿はその集団の中には見当たらなかった。

「その、隣のクラスの男子がね、海くんに借りてた電子辞書を返しそびれたーって言ってて。代わりに返しにきました」
「……わざわざ? なんで苗字が」
「ほら、電子辞書ってわりと高価だし、ないと課題困るかなあって思って」

こうして声に出して状況を説明すると、自分でも呆れてしまう。述べたのは電子辞書を返す理由であって、私が返しにきた訳はどこにもない。ほんとに無関係すぎる。

「本人はわざわざここまで来たくなさそうだったし、じゃあ私が返すよって、預かってきた」

来たくなさそうっていうか、たぶん直接返す発想自体がなさそうだったけれどね。自嘲の笑みをへらりと浮かべた。
黒尾くんは、それを真顔で聞いたあと、俺が預かると申し出てくれた。

「海なら今、捻挫した一年を保健室に連れていってるから遅くなる」
「そっか。じゃあお願いします」

両手で差し出すと、指先が彼の手に少し触れる。
先程まで走っていたからだろうか。外にいたはずなのに、その手は私よりも暖かかった。

「……ちょっとここで待ってろよ」
「? うん」

唐突に校舎の入り口まで走っていった彼は、程なくして小さなペットボトルを持って戻ってきた。

「ずっとそこで待ってたんなら、冷えてんだろ」

そう言って、ココアを差し出される。目の前に出されたそれを咄嗟に両手で受け取ると、じわじわとした温かさが指の先から伝わってきた。

「あ、ありがと。あの、お金、」
「こんくらいいいって」
「でも、」
「……名前ちゃん?」

不意にまた違う声で名前を呼ばれ、意識が逸れる。
黒尾くんの後ろにいつの間にか立っていたのは、もう一人の昔の知り合いだった。

「あ、研磨くん……。ランニングおつかれさま」
「うん。ありがと」

彼とは家がお向かいだから、東京へ戻ってからも、回覧板を届けるときに顔を合わせたことがある。けれど、学校で話すのは初めてかもしれない。バレー部だったのも知らなかった。黒尾くんほどではないけれど、彼もけっこう身長が伸びたと思う。ランニング帰りでバテているのか、まだ息が乱れている。

「こら研磨、部活内じゃねえんだから」
「あ、…………えっと、苗字先輩?」

首だけ後ろに振り向いた黒尾くんの注意に、たっぷりの間を開けて研磨くんが私の名を呼び直す。昔は名前にちゃん付けだったのが、いまや苗字も変わって、さらには先輩後輩という上下関係が生まれてしまったのだから、戸惑うのも仕方ない。
あまりに不慣れなその言い方に、私は思わず声を上げて笑ってしまった。

「ふふ、今まで通りでいいよ。気にしないから」
「うん、わかった」

研磨くんはあまり変わった感じがしなくて、話していてあまり緊張しない。そりゃ身体は昔より大きくなったけど、名前ちゃんと呼んでくれるのが、慕ってもらえているようで、姉心をくすぐるからかもしれない。
お姉ちゃんと呼んでくれた弟も、最近は名前を呼び捨てにしてきて寂しいし、歳下から懐かれるのはとても喜ばしい。

「主将! 休憩後の練習なんですけど……、っ! お話中スンマセン!」
「ああ、悪い。すぐ行く」

一年生だろうか。黒い髪を一部以外短く刈り上げた髪型の男子は、体育館から顔を出したものの、私と目があった途端に、慌てて顔を引っ込めてしまった。
へえ、キャプテン。部活に入っていない自分には、後輩との交流なんてほとんど無くて、周りを率いる立場なんて雲の上の存在みたいだ。一つの目標に向かって活動する部活のリーダーと、名前だけの学級委員では、仕事量も責任も大違いだろう。

「キャプテンなんだ、すごいね。ずっとバレー部なの?」
「ああ、まあな」
「そっか。小学校のときから黒尾くん、バレー好きだったもんね」
「……は、」

あれ、違ったっけ。たしか放課後によくバレーボールやってたと思うんだけどな。サッカーとかもやってたっけ。彼のぽかんとした表情を見て、早々に不安になってくる。もしかして私知ったかぶりしたかな。もっと熟考してから発言すればよかった。

「……よく覚えてたな」

良かった、記憶はどうやら合ってたみたいだ。
黒尾くんは、苦笑いとも照れ笑いとも形容できない、なんだか複雑な変な顔をして、にへらと笑った。

「練習邪魔しちゃってごめんね。私、そろそろ帰るよ。ココア、ありがとう」
「おう、ありがとな。海にも苗字が届けてくれたって伝えとくから」
「べつにいいよ。それじゃあね」

別れを告げて、教室棟に戻ろうと足を進めた矢先。

「……苗字!」

大声で呼び止められて前につんのめる。
離れてないんだから、そんな声出せなくても。
振り向くと、自分でも思っていたより大きな声が出て驚いたのか、黒尾くんが己の大きな手で口元を覆っていた。

「うん、なあに?」
「あー……、あのさ、……また明日」
「……? うん、また明日」

手を振って今度こそ足を進める。
窓から外を見上げると、太陽はすでに沈み、空にはほんのり橙色が残るばかりだった。こんなに遅くなっちゃった。図書室も閉まっているし、今日は早く家に帰る予定だったのに想定外だ。この時間の電車は何分だっただろうか。

ぼんやりと空を見ながら廊下を歩くそのときの私には、なんの気ない『また明日』の言葉に、彼が笑みを浮かべていた理由を知るよしもないのだった。