小説
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プロローグB



「……わたしのお父さんとお母さんねえ、たぶん、リコンすると思う」

名前がぽつりとそう呟いたのは、小6のある日の放課後だった。

同じ帰り道の俺と名前は、学校から大勢で帰っているときでも最終的には二人きりになる。それが俺は何より嬉しくて、その時間だけは、いつも女子に囲まれている名前を独り占めしているような気がして、わざと寄り道に誘ったりしては、真面目な名前に怒られた。
その日は新しいゲームの発売日で、朝から研磨に「今日はバレーしないから」と宣言されていたのを覚えている。

「今、弁護士さんといっしょに、わたしと隼人をどうするか話し合ってるの。それぞれが一人ずつ引きとるか、それとも、どっちかが二人とも引きとるか」

隼人はまだ知らないから、ないしょにしてね。
そう前置きをした名前は、真っ直ぐ前を見て、淡々と話し出す。
俺は戸惑いながらも、何か、何か言わなきゃと思って、とっさに質問した。

「……中学は、音駒中だよな?」
「分かんない。……けど、多分、おばあちゃんちの方に行くことになると思う」
「ばあちゃんちって、どこにあんだよ。東京? 関東?」
「ううん、宮城。いつもは新幹線で遊びにいってる」

宮城県。社会科の授業で出てきた日本地図を頭に浮かべて、東京からの距離を考える。ガキにとっては途方もない、はるか先の場所だった。

「やだなあ。行きたくないなあ」
「……なんで離婚すんの?」
「さあ。仕事のこととか、お金のこととかじゃないかな。わたしにはどうせなにも出来ないから、どうでもいい」

名前は理由自体には興味がないようで、大人びた様子でかぶりを振った。
子供がいくら必死に反対したところで、現実は何も変えられない。そんなこと知っていたのに、俺が一番分かっていたはずなのに、馬鹿な質問をしたと思う。

「鉄くんちも、離婚したんでしょ? 離婚ってどんな感じ?」
「どんな感じって……」

前を見て歩いていた名前がくるりと振り向いて、こちらを丸い瞳で見つめる。
そのまっすぐな視線に思わずたじろいだ。

「夫婦じゃなくなって、べつべつの家で暮らすことになるでしょ。でも、お父さんとお母さんは、離婚したってお父さんとお母さんじゃない? いきなりわたしのお父さんじゃなくなるとか、そういうわけじゃないでしょ?」
「そうだけど……。やっぱり、離れて暮らしてたら、全然ちがう」

数年前から離れて暮らす、母親と姉の姿を思い浮かべて答える。

「おれ、姉ちゃんいるって話したことあるじゃん」

うん、と名前は首を縦に振る。
いつの間にか、二人の足は止まっていた。
なんだか手持ち無沙汰で、誤魔化すように足もとに転がっていた石ころを爪先で蹴飛ばすと、少し先にある排水溝にからんと乾いた音を立てて落ちていった。

「姉ちゃんは母さんの方に引きとられた。女は女親、男は男親の方がいいだろうって」
「私はお母さんで、隼人はお父さん?」
「うちがそうだっただけで、名前んちがどうなるかは分かんねえけど。……でも、離婚してからはあんまり会えてない。やっぱり、家族じゃなくなっちゃったんだな、って思う」

数ヶ月前に、ファミリーレストランで二人に会ったときのことを思い出す。
母さんは顔つきと体型が少し変わっていた。姉ちゃんは知らない学校の制服を着ていて、おれとおやつの取り合いをしていた昔とは別人みたいに、女の人になっていた。二人がどんどん知らない人になっていくのが不安だった。

「鉄くんは、お母さんとお姉ちゃんと、もうどれくらい会ってないの?」
「……四ヶ月くらいかな。半年に一回は会う約束なんだってさ」
「そっかあ、私のうちも、そういう約束があったらいいな」

俺の真似をするみたいに、名前が足もとの小石を蹴飛ばす。俺が先ほど石を落とした排水溝を狙って蹴ったであろうそれは、てんで別の方向に転がっていった。名前が不満そうに唇を尖らせる。

「ね、寄り道しよ」

そう言って、名前は俺を置いて一人でそばの公園に入っていく。寄り道なんて絶対にしない、ふだんの名前からは考えられない行動だった。
名前はランドセルを肩から下ろすとベンチに置いて、ブランコに腰掛ける。
それを追いかけるように、俺はブランコのそばの地面にランドセルを投げて、隣のブランコを漕ぎ始めた。
俺たちしかいない公園に、キイキイとブランコが揺れる音が響く。
どちらも何も言わないまま、ブランコは少しずつ高く高く上がっていく。

「隼人とはなれちゃったら、どうしよう……」

先ほどまで淡々と語っていた名前が、初めて声を震わせる。
それに気がついてブランコを慌てて止め、彼女を見れば、名前は両目から大粒の涙を溢していた。
名前の弟である隼人は、この間ようやく、ランドセルの黄色いカバーが取れたばかりだ。甘ったれで、手提げが重たい植木鉢が重たいと登校中すぐ名前に泣きつく。
俺の家が離婚をしたのも、今の隼人と同じくらいのときだった。見知らぬ環境で、人見知りで、周りの全てにひどく怯えていた。そこから少しずつ、周りに慣れていったのは、研磨とのバレーと、名前のおかげに他ならない。

毎朝、弟と共に玄関から出てくる名前を見るのが好きだった。
いってきますと明るく家の中の家族に手を振る名前が好きだった。
おはよう、鉄くんと快活に笑う、名前の笑顔が好きだった。

今まで見たことのない好きな女子の涙に、俺は大慌てで、小六のガキだった当時の俺は、何も出来ず、ただ横で突っ立っていることしか出来なかった。
『大丈夫だ』だなんて、気休めにすぎないとほかの誰よりも俺が一番知っていることを、言えるはずがなかった。

どうしよう。いやだ。はなれたくない。
そう言って大粒の涙をぼろりぼろりとこぼしながら、両手で必死にぬぐう名前のそばで、俺はただ、何もできない自分がくやしくて、一緒に泣いているだけだった。



そのくせ、最後の日に名前は「ばいばい。鉄くん、研磨くん」と笑っていた。

「ほら隼人。鉄くんと研磨くんにばいばいしよう?」

なんて、ぐずる弟の前で澄ました顔で姉貴ぶって。
毎朝家に向かって「いってきます」と言っていた顔で、「ばいばい」とこちらに手を振る。
涙なんてひと粒も見せずに、新幹線に乗っていった。

今生の別れじゃない。海を隔てたわけでもない。
それでも、小学生が失恋をするのには十分すぎる距離だった。

初恋だった。

 ◇

それが、高校の入学初日にひょっこり再会するだなんて、思ってもみなかった。
いや戻ってきたなら言えよ。仮に同じ学校とかじゃなくたって、近所なんだから挨拶くらいしたっていいんじゃないの?
こちとらどれだけ泣いたと思ってんだ。
名前はそんな俺の気持ちもつゆ知らず、怪訝な顔でこちらを見る。

「もしかして、黒尾くん?」

まじかよ。
ひくりと口元が引きつった。
すぐに思い出してもらえなかったことよりも、黒尾くんと他人行儀に呼ばれたことの方がショックだった。
鉄くんと呼んでいたかつての彼女の声を脳裏に浮かべる。記憶の中の彼女は、あの日のあのとき以外、いつだって笑っていたのに、再会してからの彼女は不安げな表情しか見せていない。

「じゃあ、私これで」

逃げるように奥の教室へ走る後ろ姿を、あほ面のまま見送る。
あんな顔をさせていたのは、俺のせいか。
目線が合わなかった原因は、身長の違いだけか。
夢に見ていた名前との再会は、あまりにも理想とかけ離れていた。


それ以降、少し距離を置いて見てみれば、彼女が男子全般と距離を取っていることにはすぐに分かった。毛嫌いをしているわけではないようだが、自分から話しかけることはほとんどない。

誰にでも分け隔てなく笑いかけていた彼女は、もういない。
彼女の、小学生が高校生になるまでの三年間に、どれだけのことがあったのか俺は知らない。
多分、長すぎたのだ。思春期のその空白期間に、彼女も俺も変わってしまった。それは、身体の成長でもあるし、内心の変化でもある。なぜ変わってしまったのかと彼女を責めることなんて、出来るはずがない。


かくして俺は、おそらく、人生二度目の失恋を味わったのだった。