小説
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プロローグA



小学生のとき、歳の近い男の子が近所に二人いた。
同い年の男の子と、一つ歳下の男の子。
小学校の通学班は、私と、私の弟と彼らの四人だけだった。私以外はみんな男の子で、通学班長として先頭を歩く私の後ろで、彼らはゲームやスポーツの話で盛り上がっていて、いつも疎外感と羨望を感じていたのをよく覚えている。

けれど家庭の事情で──有り体に言えば両親の離婚調停で──私が小学校を卒業すると同時に、私たち姉弟は父方の祖父母の家で暮らすことになり、彼らとの交友関係はそれきり途絶えてしまった。
同性だったら話はまた変わったかもしれないけれど、ただ偶然、近くに住んでいて歳が近いだけの関係性なら、そんなものだろう。小学生では携帯電話やパソコンも持っていないし、わざわざまめに文通をするほどの仲でもなかった。

慣れない環境に苦労こそしたが、中学から一新した環境に入った私はまだましで、小学校半ばで転校した弟の戸惑い、さらには両親と離れて暮らすことへのストレスは相当のものだった。姉としてそれを支えているうちに新生活には慣れていき、郷愁にかられることもほとんどなく、それなりに平穏な中学生活を過ごしていた。
そして、無事というべきかは分からないが、私と弟の親権を、安定した職と収入を持つ母親が得ることに決まったのが、中3の夏。
生まれ育った東京の家から通学時間が短い公立高校という基準で選んだ進学先は、音駒高校だった。

さて、私が冒頭から長々と昔話をしたのには理由がある。
それが、今目の前に立っている男子だった。

 ◇

一年生全員分のクラス分けが記載された大きな紙が、掲示板に貼りだされているのを、遠目から伺う。
五十音順に名前が並ぶ中から、最近変わったばかりの自分の苗字を探して、クラスを確認した。一年一組。覚えやすくて何よりだ。
目の前では、おそらく元々同じ中学だった者同士で互いの所属クラスを確認して、離れてしまっただの同じだっただのと話し込んでいる人が多いが、心機一転の私はいっそ清々しい。一からの友達作り、出来るだろうか。まあ広範囲から集まってる分、中学よりはやりやすいかな。べつに友達百人作るわけでもあるまいし。
ひらりと身を翻して、廊下の一番奥、一組の教室へ向かおうとした矢先だった。

「……名前?」
「はい?」

頭上のはるか上の高さ、後ろから降ってくる声に振り向く。黒髪を上に高く立てた、長身の男子が私を見つめて立っていた。その長躯に圧倒されて、思わずたじろぐ。でっっっか。何それ、同じ高校生? 一体、何cmあるんだろう。
ぽかんと見上げる私の顔を確認した彼は、みるみる目を見開いて、破顔していく。

「まじで名前かよ! クラス替えに名前無かっただろ!?」
「え、あ」
「いつこっち戻ってきてたんだよ、三年ぶりだよな!?」
「う、ん。ソウダネ」

いや誰。東京にいたときの知人なんだろうから、それは多分そう。三年ぶり。
男子三日会わざれば刮目して見よ、とは言うけれども、成長期の男子に三年も会わなければそれはもう全く知らない人だ。外見も声も、私が知っているかつての彼の姿とはすっかり変わっているに違いない。
だからこそ、彼のことが分からなくても仕方ないと思う。思うんだけれども。

己の顔がみるみる引きつっていくのが、自分でも分かる。
下の名前で呼び合っている(私は呼んでないけれど)男女が大声で話をしていれば、周りの注目は嫌でも集まってくる。人が絶え間なく通る廊下で、じろじろとすれ違いざまに見られていく。
いやだ。こんなにも注目を集めるのも、相手が誰か分からないまま話が展開していくこの状況も。

「家近いんだから、戻ってきたときに声くらいかけろよ!」

バシバシと肩を何度も叩かれる。痛い。なんでこの人こんな親しげなんだろう。
家が近いという彼の言葉に、はたと思い出す。家が近く同い年の男子とくれば、思い当たる人物はたった一人だ。

「もしかして、黒尾くん?」

小学生のときに通学班が一緒だった、副班長のくせに班員の研磨くんと横に並んで歩くから私がたくさん注意した、同級生の黒尾鉄朗!?

「はあ!? 嘘だろ、まさか今まで忘れてたわけ?」

だって、小学校を卒業したときには彼と私は同じくらいの身長だったはずだ。中学年のときはむしろ私の方が大きいくらいで、見上げることなんて一度たりともなかった。
けれどたしかに、言われてみればその髪型には面影があるような気もする。
ぶ厚い胸板、筋肉がついて太い手足、教室扉の框に引っかかってしまいそうなほどの身長、声変わりしてすっかり低い男の人の声。あの彼が、こんなにも成長していきなり目の前に現れても、戸惑いしかない。というか、正直なんかちょっと長身ゆえの圧があってもう怖い。

「あの、ごめん。ずいぶん背が高くなってるから、分かんなくって……」
「ああ、まあ中学で結構伸びたしな」

にしたって、仲良かったんだからもう少し再会の喜びとかさあ……。
ため息をつきながら彼はそう言うけれど、言うほどだろうか。だって彼は、もう一人の近所の男の子と遊んでいた方がずっと多いし、そもそも二人きりで遊んだこと自体が少なかったし、ここ三年は連絡も取らずじまいだ。
その程度で仲良しと呼称しても良いものなんだろうか。

「はあ……。改めまして、黒尾鉄朗です。久しぶりだな、名前チャン?」
「ええと、久しぶり。今は、苗字、 名前です」
「……? ああ、そういうことか」
「うん、そう。母親の旧姓」
「なるほどな。そりゃクラス表で苗字探しても見つかんないわ」

おかげさまで、離婚が成立しました。
私の苗字が以前と変わっていることに関しては、転校の事情もあって、すぐに理由が思い当たったのだろう。重く受け取られて気を遣われるよりは、そうやって軽く流される方が気が楽だった。
そういえば、彼の家も片親だったはずだ。「うちリコンするらしいんだけどさ、リコンってどんな感じ?」と子供ゆえの無邪気さで不躾に質問した当時の記憶が蘇って、後悔する。出来れば忘れていたい記憶だった。

「それで、隼人は元気?」
「ああ、隼人ね、うん、元気。小学校も音駒小に戻るだけだし、転校もわりと喜んでた」

弟の名前を出されて、自分から話題が離れることで、ようやく少し落ち着く。
年は四つ離れているけれど、多分私よりも弟の隼人の方が彼と親しかったんじゃないだろうか。小学校時代の通学班を思い出した。

質問に一言で返してばかりで、会話は一向にはずまない。彼はこのリズムの悪いやり取りが気にならないんだろうか。世間話は苦手だ。特に、男の子とするのは。

「そりゃ良かった。ああ、そういや俺二組だったんだけど、名前は?」
「私は一組だった。……そろそろ、教室行こうかな。私、これで」

周りからの視線についに耐えかねて、無理やり会話を打ち切る。
友達作りはスタートが肝心なのだ。新環境で誰もが戸惑っている中、誰よりも早く話しかければ、それだけでアドバンテージになる。すでに出来たグループに飛び込むのは、一から友人を作るよりもずっと難しいと私は知っている。
それなのに、男子と名前で呼び合っていたら(私は呼んでないけれど!)変に悪目立ちしてしまう。「苗字さん、さっき廊下で背の高い男の子と話してたよね?」なんて言われても困るのだ。

「ああ、じゃあまたな」
「うん、じゃあね」

逃げるようにその場を去る。
「また」なんてない。きっと社交辞令だ。クラスも違うし、男の子は男の子同士、友達がたくさん出来るだろうし。
幼馴染みでもない、ただの小学校のときのクラスメイト。それが、私と彼の関係だったのだから。