小説
- ナノ -




名前を呼ぶ八月



八月。死に損ないの蝉がやかましく喚いていた。

クソ暑いし蚊もいるし、蝉がみんみんうるさいけど、夕方にちょっと街を離れると鈴虫も鳴いてたりする、そんな微妙な時期だ。公園でぎゃあぎゃあ騒いで遊んでた小学生たちも、きっと今頃家にこもって泣きべそかいて宿題をやってるんだろう。
まあ俺たちは宿題をやることすらしなかったから、そんなこと知る由もないし、今でも年中夏休みみたいなものなんだけど。はー、ニートってほんっと最高。

エアコンの効いた我が家にこもって、ゴロゴロしながら食べるアイスは世界一美味い。特にこんな炎天下の日は。窓の外では背広を羽織ってハンカチで汗を拭きながら仕事をしているおじさんがぜいぜい息を吐きながら歩いている。かわいそう。

一瞬で食べ終わってしまったアイスの棒を噛みしめると、ソーダの甘い味がほんのりとする。口寂しさを誤魔化してがじがじと棒を噛み続けると、だんだんアイスの味がなくなって、そのうち棒についた木の味すらも消えていった。ぼろぼろになった棒切れを、指で弾いて部屋の隅のゴミ箱に投げ捨てる。綺麗な放物線を描いて、アイスの棒は吸い込まれるようにゴミ箱に入った。ナイッシュー、俺。

さて。
アイスも食べ終わったし、このあとの用事も特にない。この暑さでどこかにいく体力もやる気もない。
要するにめちゃくちゃ暇。パチンコに行こうにもお馬さんを見に行こうにも、俺の財布は空っぽだし、我が弟どもはどいつもこいつも金を持ってるわけがない。頼りになんねー。

「ひーまーだーなー」
「そんなに暇なら手伝ってくれ、おそ松」

天井に向かって一人ごちていたら、カラ松が台所から声をかけてきた。

「あ?カラ松、何してんの」
「えんどうの筋向きだ。母さんから頼まれてな」

カラ松は、半開きだった居間の引き戸を脚で開けた。右手に新聞紙、左手にはスナップえんどうが山盛りになったボウルを持って居間にやってくる。

「えー、面倒〜。ていうか今日の夕飯なんだって?」
「今日はスナップえんどうの胡麻和えとカレイの煮付けらしいぞ」
「カレイねえ……。肉が良かったなあ」
「つべこべ言わないで手伝え。働かざるもの食うべからず、だ」
「カラ松お前、かっこつけて言ってるけどさあ、えんどうの筋取りだけで労働カウントはどうかと思うよ。大体お前だって肉のが好きだろ?」
「今日手伝いすれば、明日は鶏の唐揚げにしてくれるとマミーが言ってたからな」

カラ松は昨日の新聞を無造作に開いて、畳の上に広げながら、目を輝かせている。でもさあ、それ多分、手伝いしてもしなくても、元からその予定だったんじゃない? 俺昨日の夜、冷蔵庫にもも肉あるの見たもん。手伝いの口実にされてるだけじゃねえかなあ。
面倒ではあるものの、暇すぎて死にそうでもある。さらに言えば、カラ松は手先が不器用だから、見てるとちょくちょく筋むきを失敗していてお兄ちゃんとしてはじれったい。
渋々身体を起こして、カラ松のそばに寄った。

「……あ、」
「どうした?」

カラ松が開いていた新聞のページには、ちょうど高校美術展の文字があった。
あいつ、苗字。そういや8月に部活の展覧会出すって言ってたな。ふと思い出して、少し興味が湧いた。もしかしてあいつ、載ってるかも。
大賞だけはどでかく作品の写真ごと掲載しているけど、それ以外は全部、描いたやつの名前がずらりと並んでいるだけ。あいつの苗字だけを頼りに、端から文字を眺めていく。苗字、苗字……と。

「……あ、これだ」

『佳作 苗字名前』

へえ。あいつの名前、こういう字で書くんだ。

 ◇

いつもならあいつは、改札を出た途端真っ先に俺を探してきょろきょろとする。それなのに、今日は珍しく、人混みが落ち着いた頃、誰かと並んでぺちゃくちゃおしゃべりしながら改札から出てきた。
ワイシャツに、苗字のスカートと同じ色の、グレーのスラックスを着た男。
多分、おんなじ制服。クラスメイトとか?
改札を出る時だけ少し離れたけど、二人で身体を寄せて、一冊の教科書を見てあーだこーだと喋っていた。
……何を話してんだか知らないけど、なんか距離近くね?

「……名前!」
「えっ! は、はい!」

肩をびくりと震わせ、振り返ってきょろきょろと周りを見回す苗字。
俺と目が合うと、途端に顔が綻んだ。

「あっ、おそ松さん!!」
「おつかれ、苗字」
「あ……、戻っちゃった……。急に名前で呼ばれたから、びっくりしちゃいました。どうしたんですか?」
「べっつにー、なんとなく。それよりさ、そっちの連れはいいの?」
「あっ! ごめんごめん、じゃあまた、夏休み明けにね!」

苗字は、俺の言葉に思い出したように振り向くと、先程まで仲睦まじげに話していた男に、にこにこ手を振って別れを告げた。男は少し挙動不審に会釈して立ち去る。なにあいつ、おどおどして気持ちわる。

「えへへ、こんにちは!おそ松さん!今日も暑いですね!」
「ね、あちいね」
「さっきの人はおんなじクラスの子なんですよ!」
「あっそお」
「もうすぐ夏休み明けだから、宿題の範囲を聞かれてたところです」
「そうなの?別に聞いてないけど」
「聞いてないけど喋っちゃいました! おそ松さんは、宿題はコツコツやるタイプでした?」
「苗字からそう見えんならそうなんじゃない?」

なんだか知んないけど、無性にいらいらする。苗字からのたわいもない質問にも、あからさまに適当な回答で返した。……流石の苗字もキレるかな。

「どうしたんですか? 今日はご機嫌斜めですね」
「……お前はさあ、いつ見てもご機嫌でいいよね」
「うーん、いつもご機嫌なんじゃなくて、おそ松さんと会うと幸せになっちゃうので、ご機嫌な姿しか見せられないんですよ。へへへ」
「……はあ、あっそ」

いつも思うけど、これで素面なのやばくない? 若さ?それともこいつが特にやばいだけ?
なんだか阿呆らしくなって、さっきからの謎のイライラもいつの間にか消え失せた。

「そういえばおそ松さん、私の下の名前、知ってたんですね」
「……最初に自分で名乗ってたじゃん」
「そうでしたっけ。ずっと苗字でしか呼ばれてなかったから」

だから、さっきは嬉しかったです。
そう言って苗字は顔を赤くしてはにかむ。
正直下の名前とか忘れてたけど。でも、新聞で苗字の名前を見かけたことは、何となく気恥ずかしくて言い出せなかった。だってなんか、俺が苗字の名前をわざわざ探したみたいじゃん。違うし、カラ松が開いた新聞紙で、勝手に目に入っただけだし。


今日の苗字は、自動販売機の前で少し指を迷わせたあと、夏限定のチョコミントミルクティを選んだ。

「こないだ失敗したばっかなのに、なんでそういうの挑戦するかなあ。分っかんねえー」
「だって、新しいの見かけたら気になっちゃうじゃないですか……」
「ばっかだなー」
「で、でも!今回は大丈夫ですよ!チョコが入ってますから!」

何そのチョコへの絶大な信頼。子供の好奇心ってのは本当に恐ろしい。
絶対それまずいよ、だってチョコミントだよ? 歯磨き粉じゃん。失敗しても今日はもう水買ってやんねーぞ。
いつも通りのブラックコーヒーを受け取って、素知らぬ顔で尋ねる。

「前言ってた、絵のコンテスト? それさあ、どうなったの」
「ああ、えっと、実は佳作なんですけど、賞を頂きまして」
「すげーじゃん」

佳作なんですけどって何?賞の順位とかよく知らないけど、入賞ってことでしょ?めちゃくちゃすごくない?
苗字はえへへへと恥ずかしそうに笑いながら少し俯き、顔の前で揺れる髪の毛を耳にかけた。

「今まで賞とかって、もらったことなくて。だから嬉しいです」
「賞取った絵、見せてよ」
「えっ? えー……っと、ちょっと、恥ずかしいです……」
「なんでよ、入賞したんでしょ?上手いってことじゃん」
「そ、そうじゃなくて……」

煮え切らない返事だ。いつもなら「はい喜んで!」って居酒屋の店員みたいに言いそうなものなのに、快活な苗字にしては珍しい。

「あ、あー……、あっ! そう、まだ展覧会から戻ってきてないんですよ!多分戻ってからも、学校の部活の方で反省会みたいなのもするから、しばらくおそ松さんには見せられなさそうです」

あからさまにほっとした様子で、苗字は早口でまくし立てる。
それ明らかに後付けの言い訳じゃん。絶対なんか他に、見せたくない理由があるに違いない。

「もうちょっと、もうちょっと待ってください! 作品が手元に戻ってくるまでに、心の準備をするので!」
「ふうん。……じゃあいつか、見せてね」
「はい、必ず」

心の準備ってなんだよ。べつに、見せてくれるならなんでもいいけどさ。

「じゃあお祝いに苗字とデートでもしてやるかー」
「えっ!」

適当に提案するや否や、苗字の表情がぱあっと明るくなる。

「ほんと!?ほんとですか!?」
「べつにいーよ、今度競馬勝ったらね」
「次の競馬はいつですか!」
「次は再来週のレースかなー。負けたら延期ね」
「絶対勝ってくださいね!!男に二言はなしですよ!!」
「はいはい。いいから早くそれ飲んじゃえよ。予備校遅れるよ」

苗字が両手で握っていたチョコミントミルクティの缶を開けて一口、途端に顔をしかめるから、思わず吹き出した。何も言わずに缶を奪う。案の定歯磨き粉の味がして、「まっず」と思わず声が出た。
再来週までに金、貯めとかないとなあ。