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毒を呑む七月



七月。澄んだ青い空に真白く大きい入道雲のコントラストが目に痛い。

どこかのアニメ映画にでも出てきそうな快晴だ。窓の外を見て、そんなことを思った。
校庭からは先ほどまで野球部の練習する声が聞こえていたが、そちらも休憩に入ったのか、すっかり蝉の声だけが響いていた。
土曜日のお昼は、部活の片付けを早々に済ませて、持参したお弁当を部室棟で食べるのが習慣になりつつあった。

目の前の友人は、お弁当をつつきながら参考書をめくっている。お行儀が悪いよと注意はするけれど聞く耳持たずだ。
どうやら今日は英熟語の勉強のようで、器用にも咀嚼の合間に例文を読み上げている。

部活の後輩たちは期末試験後の開放感でいっぱいなのか、部活動の最中に夏休み中の遊ぶ計画を話していたが、高3ともなると、期末試験よりももっと大きなものを年明けに控えている。真の開放感にはまだまだ遠い。
夏を制するものが受験を制す、なんて耳にタコが出来るほど言われてきた。

「このあと図書室行くんだっけ? じゃあ私、お弁当食べ終わったら、美術室とここの鍵、職員室返しに行くね」
「ん、ありがと。そういや名前ってさあ、部活のあといつも帰っちゃうよね、予備校?」
「うん。6時から」
「6時から? あと4時間以上あるよ。じゃあ一旦家帰れるじゃん。お弁当持ってくる必要なくない?」
「予備校は6時からだけど、3時からもっと大事な用事があるの」

へへへ、とおそ松さんの顔を思い出して笑いながら答えると、友人は不思議そうにしながらも、深く追求することはなく参考書に視線を戻した。



「あ、あのね、実は、来月から会う時間が少し遅くなるかもしれないんです 
「なんで?定期試験?」
「いえ。定期試験はこないだ終わったんですけど、夏休みは部活が午後までになるので」

夏は日が長く、午後3時じゃまだまだ太陽が傾くには早い。
この間よりも日差しの角度が少し変わり、今日は自販機の隣のベンチが日陰なこともあって、そちらに腰掛けた。自販機は飲み物も買えるし日陰も作ってくれるしとっても偉い。
まだ喉はそこまで渇いていないし、もう少しこの冷たさを満喫しようと、キンキンに冷えたスチール缶を首筋に当てた。

「部活、美術部だっけ」
「そうです、覚えててくれたんですね」

以前に少しだけ話したことを、覚えていてくれる。そんな小さなことで嬉しくなってしまう。

「じゃあ何時がいいの? 5時くらい?」
「多分、そのくらいに……。おそ松さんはお時間大丈夫ですか?」
「ニートだもん、いつでもへーきだって」

気にすんな、と手をひらひらさせておそ松さんはいつものコーヒーをごくりごくりと勢いよく飲む。
缶を首筋から垂れるように一筋、汗が流れたのが見えて、なんだか見てはいけないものを見てしまった気がして目を逸らしてしまった。なんだかすごく、色っぽい。

「毎週土曜日に部活やってるって聞いてたけどさあ、美術部ってなんか、もっとこう、のーんびりしてんのかと思ってた。放課後に週3とかそういうの」
「文化系の部活だとそういうとこもありますね。うちも普段は放課後だけなんですけど、夏の終わりくらいに展覧会があるんです。それに出品する作品を今作成中で、それで」
「ふーん」

展覧会は、8月末だ。
中学から美術部で、今まで一度も大した賞をもらったことはないけれど、最後くらいは、なんて期待している。
おそ松さんはあんまり美術とか興味ないかな。

「勉強に部活に、学生は忙しいねえ〜」
「普通ですよ、私はまだこうしてのんびりする時間もあるし、ゆるい方です」
「苗字はいま高3でしょ? 進学すんの?」
「その予定です。このあとも、夜から予備校に」
「何時から?」
「6時からです。今日は英語と古典」

がんばります! とガッツポーズをすると、おそ松さんは苦いものを食べたときみたいに軽く顔をしかめた。

「うげ、6時ってもう飯の時間じゃん。夕飯どうしてんの?」
「授業始まる前に軽くパンとかおにぎりとか食べてます」

そのあと、予備校から帰ってからお母さんが作ってくれた夜ご飯を電子レンジで温めて食べている。
時間的にも遅いし、あんまり健康にも良くないけど、予備校前に食べても満腹だと集中出来ないし、変な時間にお腹減っちゃうし。
予備校に通ってる他のみんなはどうしてるのかなあ。

「苗字さあ、受験生なのにこうしてぷらぷら俺と会ってて大丈夫なの?」
「大丈夫ですよ。ちゃんとメリハリつけて勉強してますし、これでもそれなりに成績はいいので。おそ松さんと会えるのすごく嬉しいので、良い息抜きになってるんです」
「……よくそんなこっぱすがしいこと素面で言えんね」
「そうですか?」

素面って言われても、酔っ払ったことないし、そんな恥ずかしいことを言ったつもりもないのに。
おそ松さんといると、すごく楽しいし、また来週からもがんばろうって思える。土曜日のこの時間は、私にとっては今週も頑張ったというご褒美だ。

「しかし苗字はいつも元気だね〜、若さってやつ? 俺は暑くて無理だわ、苗字との約束なかったら絶対こんな日に外でないもん」
「っ、おそ松さんに会えるから元気になれるんですよ!」
「あっそおー」
「今もすごく元気出ました!!」
「なんで?」

私のために、何も用事がない日に着替えて、駅前まで来てくれているんだ。それは少し申し訳ないけれど、正直嬉しさが優ってしまう。

口角を上げながら、まだ飲んでいなかったミルクティーのプルタブを開けた。
最近新発売のミントミルクティー、広告で見て気になってたんだよね。
わくわくしながら、缶を上に傾ける。
……………………あ。

「そういやミントのミルクティーってなに?どんな味なの?」
「…………うん!って感じです!」
「まずかったときの反応じゃん」
「私の口には、合いませんでした……」

ミントティーもミルクティーも好きだから、きっとすごく美味しいと思ったのになあ。
ミルクティーのまろやかな甘さとミントティーの爽やかさが口の中で喧嘩している。うう、口の中ゆすぎたい。さっき水筒の中の麦茶も飲みきっちゃったし、予備校までに新しいお茶買わなきゃ。

「おそ松さんは、いつもブラックですね。私は苦くて飲めなくて……、飲めるのすごいなあ。大人っぽくてかっこいいです」
「お前はなんでもかんでもかっこいいって言うね」

少し呆れたような顔をされる。
だってかっこいいんだもん。仕方ないじゃない。

「てか大人っぽいっていうか大人だからね」

そう言って、彼は缶を大きく傾けてコーヒーをぐびりと飲む。
おそ松さんがコーヒーを飲むときの、揺れる喉仏が好きだ。男の人なんだなあって、少しどきどきする。クラスメイトの男子だって、きっと喉仏くらい出てきているんだろうけれど、私には、おそ松さんのものならなんだってかっこよく、眩しく見える。

「もー、そんな物欲しそうにじっと見ないでよお。照れんじゃん。欲しいんなら一口くらいあげるってば」
「……え。あげ、あげるって」

ほい、と差し出された、飲みかけの缶コーヒー。
飲み口に少しだけ、真っ黒な液体が残っている。

おそ松さんの、飲みかけ。
おそ松さんはもちろん意識なんかしてないんだけど、するわけがないんだけど、私にとっては、好きな人の飲みかけだ。これを飲んじゃったら、間接キスになってしまう。

「口の中まずくて困ってんでしょ、これでさっぱりさせちゃえば?」
「……………………えっ、と」
「飲まないの?じゃあ飲み切っちゃうよ?」
「ああああ飲みます!!飲んでみたいです!ブラックコーヒー!!」

まだ冷たさの残る缶を受け取って、両手で握る。
少し躊躇った後、腹をくくって、一口。苦味と酸味が口いっぱいに広がる。甘さなんか1mmもない、大人の味だ。

ああ苦い。ていうかもう不味い。ヒトが飲んでいい代物なんだろうか、これ。人の味覚は食べ物が安全かどうかを測るために発達したって生物の授業で聞いたような気がする。高1の時のことだからよく覚えてないけど、甘みはエネルギーだけど、酸味は腐った食べ物で、苦味は毒。
このコーヒーは人間が誤って飲まないようにこんなに苦い味を持ってるんじゃないのかな。どうしてこんなものをおそ松さんは飲むんだろう。
まさか吐き出すわけにもいかず、どうにか口に含んだ分を飲み込む。味覚を感じるはずもない喉すらもまずいと言ってる気がする。

「……ありがとうございました」
「真っ赤になったり慌てたり顔くしゃくしゃにしたり、忙しいやつだね」

おそ松さんは私の表情を見て、けらけらと笑う。楽しそうに笑うけど、間接キスとか絶対気にしてないんだろうな、この人。私告白したよね? 好きって伝わってるよね? 私の片想いなのは分かり切っているけれど、ここまで意識されないとなんだか少し悔しい。

さっきから飲み物に翻弄されて、舌も心もかわいそうな事になっている。口直しをしようにも、残っているのは一口しか口にしていないミントミルクティー。買っちゃったからには飲まなきゃなあ。日なたの方まで出なきゃだけど、水道まで行って一度口ゆすいでこようかな。
ふと、おそ松さんの腕が伸び、傍らにおいていた私のミントミルクティーの缶を手に取った。

「あ、」
「お子様にはまだまだコーヒーは早すぎたんじゃない?」

そう言って、ミントミルクティーを一息に煽る。
かなり中身は残っていた。ぐびり、ぐびりと大きな音がして、数十秒。おそ松さんは段々と缶を傾けていき、ついにはまっすぐ天を見上げて飲み干した。

「…………まっじいなこれ。絶対これすぐ販売終了するっしょ」
「なんで不味いのに飲んじゃったんですか!」
「んー、怖いもの見たさ? それに捨てるのももったいないじゃん」

そりゃそうだけど!
おそ松さんは立ち上がって少し先のゴミ箱に空き缶を放り入れる。からん、と音が響いた。

「てか後味もすげえなこれ。口ん中甘ったるい」
「あ、それならコーヒーが、」

ありますよ、言うよりも早くおそ松さんが自販機でミネラルウォーターのボタンを押した。
がこんとペットボトルが取り出し口に落ちる。
え、え、コーヒーはいいのかな。返すタイミングを失った缶コーヒーを持っておろおろする。
おそ松さんは、蓋を開けて、一口、二口。そして、キャップをしないまま、私に差し出した。

「はい、あげる」
「え、でもそれ、おそ松さんの」
「口の中、コーヒー残ってるっしょ」
「あ、ありがとうございます……」

もしかして私の口直しのために買ってくれたのだろうか。それを気遣わせないために、自分が先に飲んで。
缶コーヒーと引き換えに、ペットボトルを受け取る。
無味無臭の水が口内を洗い流す。ああ美味しい。最近口に入れたものの中で一番美味しい気がする。
ねばつく口内が途端にさっぱりとした。
ふう、と一息つくと、おそ松さんが私を横目で見ていたことに気がついた。

「あーあ、間接キスだ。苗字のすけべ」
「…………へ、」

いたずらが成功したときみたいな顔で、おそ松さんが笑った。
言われたことを理解した途端に、かおっと顔に熱が集まる。それを言うなら、さっきも、なんで、なんでそういうことを、この人は!!
こっちがさっきからどんな気持ちで!

「お、おそ松さんの方が、すけべです!!」