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教える六月



 六月。雨が静かに地面を濡らしていた。

「こんにちは松野さん! いい天気ですね!」
「いや、雨だけど」

 七日前、半ば押し切られる形で取り付けられてしまった彼女との約束。それを無視することも出来ず、結局俺はまた、駅前まで足を運んでいた。いやべつに用事とかあったわけじゃないけどさ、なんか無理やり約束されたのがなんか複雑っていうか。あれ本気だったのかな、もしかして冗談だったんじゃないのなんて思ったりもしたけど、彼女は俺が探すまでもなく、そわそわきょろきょろと辺りを見回しながら駅の改札前に立っていた。あれ完全に不審者でしょ。男だったら職質されてる。
 彼女は俺に気がつくとぱあっと顔を明るくして、小走りでこちらまで来て冒頭のあいさつをした。いや雨だし。土砂降りだし。

「雨ですけど。でも私、雨嫌いじゃないですよ。雨音ってなんだか聞いていると落ち着きませんか?」
「そうかなあ、俺蒸し蒸しすんの嫌なんだよね」

 雨音が落ち着くとか、俺にはよく分からない感覚だった。蒸し暑いし傘は邪魔だし、梅雨は嫌いだ。女の子特有なのかね、こういう考えって。
 彼女ははっと思い出したように、両手で握った缶コーヒーを笑顔で差し出した。初めて出会ったときに彼女に買ってもらった、駅の中の自販機でしか取り扱ってないちょっとお高いやつだ。

「これ、買っておきました。流石にもう温かいのは売ってなかったんですけど、冷たいので大丈夫ですよね?」
「うん、平気」

 このじめじめした中ホットコーヒー飲みたくないし。礼を言って差し出された缶を受けとろうと手を伸ばすと、俺の手が彼女のそれと軽く触れる。すると、彼女はびくりと身体をはねるようにして、俺から飛び退いた。え、驚きすぎじゃない? 釣られて俺までびっくりしながら彼女の顔を見ると、真っ赤な顔で恥ずかしそうに俯いていた。えー……? この子本当に、一週間前に強引に約束をとりつけてきた女の子だよな? 照れるポイントがよく分からない。手が触れただけじゃん。
 大体、お礼をしたいというのもよく分かんないし、正直彼女は謎だらけだった。俺だったらたとえどんな恩人でも、連絡先も分からないようなやつをわざわざ探そうとか思わない。

「あー、えっと、君さあ……」
「あ、苗字です! 私、苗字名前です!」
「えっと、苗字さあ、なーんでそんな俺に会いたがるわけ? お礼とか言うけどさ、別にあの一回きりの縁だったんだから、わざわざ俺を探す必要なんかなかったでしょ」
「そ、それは……ええと、その」

 苗字は少し言いよどみながら俯く。そして、意を決したように顔をおもむろにあげて、こちらをまっすぐ見つめた。

「す、好きだからです」
「は?」
「私、松野さんのこと好きになっちゃったんです、一目惚れです。……ごめんなさい、お礼がしたいって言うのは、嘘じゃないんですけど、建前です」

 まじか。まじかよ。え、ほんとに? うわ、女子高生に告白されちゃったよ俺。やばい、帰ったらあいつらに自慢してやろ。
 彼女の言葉を聞いた直後思い浮かべたのは、そんなくだらないことだった。今まで告白をされたことがないわけじゃないけど、学生のときに同級生に告白するのとはわけが違う。だって現役女子高生だよ? 現役って付けるあたり俺もおじさんなのかな、でも興奮すんのも止むなしじゃない? 本物の現役女子高生の彼女で童貞を捨てるなんてAVみたいな展開、そうそう無い……、あれ。
 いやでも待てよ。女の子からの告白につい浮かれてしまったけれど、ここで俺がこの子と付き合ったとして、手を出したら警察のお世話になっちゃうんじゃなかったっけ。そうだよ、たしかなんか法律だか条例だかよく分かんないけど、大人が健全な未成年をたぶらかしたらだめですよみたいなやつがあった気がする。あったよな? あれ、18の誕生日を迎えたらいいんだっけ。それとも卒業式が終わったらかな。……それって長くない? 卒業までお預け食らうってことだろ。結構めんどくさいな。断ろうかな。
 俺が頭の中で卑しい算段を立てていると、彼女は慌てながらまた続けた。

「あっ、で、でも、別に付き合って欲しいとかじゃないんです!」
「あ、はあ、そうなの?」
「だってまだ会ってからそんなに経ってないし。松野さんが私のことを好きになってくれるまで、私、待ちますから!」
「は、まつ、待つ?」
「だから、また来週もここで会いましょうね!」
「うん?」

 なんだかあっちのいいように流されて、また約束をさせられた気がしたけど、彼女が至極ご機嫌そうにふふふと笑みをこぼしているので、水を差すのも悪い気がしてしまった。

「……じゃあ、来週もコーヒー奢ってね」
「まかせてください!」

  ◇

「松野さん! こんにちは!」

 毎週土曜の十五時。二人で会うのは電車での出会いを含めてこれで六回目だ。

「松野さん、今日は晴れてるし、せっかくだからそこの公園でのんびりしませんか?」
「ん、べつにいいよ」

 先週と先々週は駅のベンチでだらだらして、苗字が予備校の時間になったらさようならだったけれど、今日は苗字の提案で駅前の公園まで足を伸ばすことになった。
 駅を出たはいいけれど、初夏の日中、日差しはなかなかに暑い。じわじわと体温が上がっていくのが分かる。普段は家でだらだらと過ごしている体力のないニートには辛い。公園で木陰のベンチに座って一息ついたころには、汗がだらだら流れていた。

「あっちー……。なあ、なんか飲まない?」
「あ、そういえば私、今日はまだコーヒー買ってませんでした。そこの自販機で買ってきます!」
「あ? あー……」
「いつものとは他の銘柄になっちゃいますけど、かまいませんか?」
「あー、うん。ブラックなら何でもいいや」
「分かりました! いってきますね」

 正直、自販機でとはいえ毎週毎週高校生にコーヒーを奢らせるというのは気が引けないわけじゃない。だけど、本人がいいって言ってるし、素直にお言葉に甘えることにした。だって人の金だし。
 五十メートルほど先の自販機へ向かって、苗字が身を翻す。ベンチに座っている俺の目の前で、苗字の制服のスカートがひらりと揺れた。わざわざ走らなくてもいいと言おうとしたのに、思わず日に焼けていない真白い太ももに目を奪われて、気遣いの言葉を出せないまま、彼女は走って行ってしまった。
 白いワイシャツに赤いリボンと、灰色のチェックのプリーツスカート。普段はエロ本やAVくらいでしか間近に見る機会のない制服が、自分のすぐそばでひらひらとしているのはなんだか奇妙な気分だった。本当に女子高生なんだなあなんて、最初から分かり切ったことを再認識させられる。
 帰りも走ってきた苗字からコーヒーを受け取り、缶を開けながら声をかけた。

「なあ、それ、夏服?」
「あ、はい、衣替えです。本当は日焼けしたくないから長袖がいいんですけど、そういうわけにもいかなくて」
「ふうん、衣替えかあ。学生は大変だねえ」
「松野さんは、お仕事は私服なんですか?」

 やっべ、そういえばこの子、俺がニートってこと知らないんだっけ。どうしよう、なんとか誤魔化せねえかな。

「あー、あ、名前さ、めんどくさいからおそ松でいいよ。兄弟いっぱいいるから苗字で言われるの慣れてないんだよね」
「あ、はい、じゃあ、おそ松さんで。ふふ、名前で呼ぶなんてなんだかどきどきしちゃいます!」

 名前くらいで喜ぶなんて、この子大丈夫かな。笑う顔はでれでれとしていて、心底喜んでいるのが伝わってくる。本当に幸せそうに笑うな、こいつ。

「それで、お仕事は?」

 あ、誤魔化されてくれなかった。
 いやべつにさ、べつにいいんだけどさ。働いてないことを情けないとか恥ずかしいとか思っているわけじゃない。働きたくないから働いてない、それだけのことだし。けれど、自分のことを好きだと言っている女の子が、俺が無職と知った途端嫌な顔をするんじゃないかと思うと、あまり気分の良いもんじゃない。

「……お馬さんの順位を予想する楽しいお仕事」
「……? よく分からないけど、楽しそうですね! 素敵です!」

 信じちゃったよ。何この子、馬鹿なの? 馬鹿なのかもしれない。馬鹿っぽいし。もういいや、失望されようが幻滅されようが知ったことか。

「冗談だっつーの。ニートしてんの、ニート」
「働いてないってことですか?」
「そう。この年になっても定職に就かずふらふらしてんの。昼からパチンコしたり競馬したりね」
「…………」

 あーあ、黙り込んじゃった。この週末の約束も、もしかしたら今日でおしまいかな。おごってもらったコーヒーをちびちび飲みながら駄弁る時間は、わりかし嫌いじゃなかったけれど。

「自分の好きなことばかりできるのって、すごく楽しそうですね!」

 前言撤回。馬鹿なのかもしれないんじゃなくて、こいつ馬鹿だ。ぎょっとして苗字の顔を見ると、とりあえず話を合わせたとかじゃなくて、満開の笑顔だった。こいつさっきからずっと笑ってんな。

「何言ってんの? ニートだよ、ニート」
「はい」
「はいじゃなくてさあ。みっともないとか情けないとか、そういう風に思わないわけ?」
「おそ松さんは、自分でみっともないって、そう思ってるんですか?」
「……いや、べつに、思ってないけどさあ」

 もうやだ。こいつと話してると調子が狂う。

 それから一時間くらいくだらない世間話をして、苗字がそろそろ予備校に行く時間だと言うので、駅まで送ることにした。

「それじゃあ、また来週」
「はいはい、またね。帰り、遅いんだろ。気を付けて帰れよ」
「はあい。……へへへ」
「何笑ってんの」
「だって、嬉しくて。今日は、おそ松さんが名前で呼んでいいよって言ってくれるし、帰りは気をつけなよって言ってくれるし、公園デートも出来たし。今日は最高な日でした」
「はあ? 公園デートって……ただ公園で駄弁ってただけじゃん」
「それでも、私の中ではデートですよ。今日は、今日も、ありがとうございました」

 苗字はやっぱり心底幸せそうに笑って、それから改札を通って手を振る。
 どうやら、俺が思っているよりも、俺は惚れこまれてしまっているようだった。