小説
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約束する五月



 五月。青々とする木々から漏れる木洩れ日が眩しい。

 一か月前、私はある男の人に痴漢から助けてもらった。お礼をしたかったのだけど、彼は私が学生ということもあって遠慮しているのか、缶コーヒーしか受け取ってくれなかった。

 でも、どうしても、どうしてももう一度彼に会いたい。会って、あわよくば、また会う約束を取り付けたい。連絡先を交換したい。お近づきになりたい。
そう。これは、お礼を口実にしただけの、ただの私の一目惚れだった。

 あの日、満員電車でおじさんにお尻を触られて泣きそうになっていたとき、誰かに助けを求めるように周りを見回して、彼と目が合ったのは偶然だった。彼は私を見つめて颯爽と立ち上がり、そして華麗に私を助けてくれたのだ。そのあとも、痴漢のおじさんを警察に引き渡して、お巡りさんと駅員さんに囲まれて私が不安に思っている間も、彼はずっとそばにいてくれた。何かきちんとお礼をさせてほしいと言ったけれど、私が気にしすぎないように気にしたのか、彼はお礼も断って名前だけ言って電車を下りてしまった。
あのときの彼の姿に、見惚れてしまった。あそこまでされて惚れない人がいるのだろうか。いやいない。絶対いない。あんなかっこいい人に惚れずにいられるわけがなかった。

 どうにかして、もう一度彼に会いたい。あわよくばお近づきになりたい。そんなことを考えて、今私はここに、彼があの日下りて駅に立っていた。

 彼と出会ったあの日は土曜日だったから、こうして毎週土曜日の午後、彼を探そうとしている。こうやって貴重な休日の半分を徒労に終わらせるのも四回目だけど、なかなか彼は見つけられない。うーん、あのときは聞けなかったけど、彼はもしかして、この駅を定期的に利用してるわけじゃなかったりするのかな。そういえば警察の人から解放されたあと、彼も私と同じように下り方面の電車に乗ったけど、あの人は何か用事とかあったんじゃないのかな。お仕事とか、大丈夫だったのかな。
ここまで探して会えないのならば、普段は駅を使わないのだと考えた方がいいのかもしれない。なおさら、あの日彼と出会って助けてもらったことが奇跡みたいに、運命みたいに思えてきた。

 考え事をしているとホームに電車が到着して、やや遅れて人混みが改札にやってきた。人の群れを目をこらしながら眺める。人が多くて嫌になってしまいそうだけど、きっと彼の顔なら見逃さないというそんな強気な気持ちが、心のどこかにあった。ずっと見つめていると、彼らしき人物を見つけた。間違いない、あのときの彼、松野おそ松さんだ!
走り出して、彼の背中を追いかける。人混みに紛れて見失ってしまいそうになりながらも、どうにか彼の服の裾をつかんだ。

「ま、松野さんですよね!」
「……人違いです」
「えっ」

 そんな、だって絶対この顔だったのに。失礼かも知れないけれど、目の前の彼の顔をまじまじと見つめる。
そう言われてみれば、少しだけ、雰囲気が違う、ような……? 記憶の中の彼よりも少し髪型がぼさぼさだったり、姿勢が悪かったりと、ほんの少しの違いはあるけれど、それでもあのときの彼と同じ人にしか見えない。

「え、えっと……。松野、おそ松さんじゃないんですか?」
「松野おそ松さんじゃないです」
「ええ……?」
「あんたの人違いだよ。じゃあね」

 行ってしまった……。じゃあねと言ってすたすたと去っていく彼の背中を、私は唖然としながら見送るほかできなかった。おかしいなあ。絶対あの人だと思ったんだけど。

 そうして、その次の週も、そのまた次の週も、計五回ほど同じやりとりを繰り返した。松野おそ松と名乗ったあの人にそっくりなのに、人違いだとみんな口を揃えて言うのだ。「またあなたですか」と言われたことは一度もないので、私は多分五人に人違いをしてしまったのだと思う。私、あの人の顔、確かに覚えてるはずなのに。五回も人違いをしてしまうなんておかしすぎる。記憶違いでもしているのかな。

 出会ったあの日は桜が綺麗に咲いていたのに、もう花弁はとっくに散ってしまって、枝の先は青々とした葉をたくさん付けていた。彼と出会った日から、あと少しで二か月になる。

「もう、会えないのかなあ……」

 そう、独りごちたときだった。視界の端に、見覚えのある姿が映った。これであの姿を見るのは七度目。五回は人違いだったけれど、でも、もしかしたら、今度こそ。
必死に走って、人混みの中を歩く彼の腕をがしりと掴んだ。

「松野、松野おそ松さんですか!」
「そうだけど?」

 やったあ!やっと、やっと見つけた!思わず笑みがこぼれる。この再会を、ずっと待っていたのだ。
 彼は、突然現れて満面の笑みを浮かべる私を不思議そうにしながら私を見つめた。覚えられてないのかな。でも一ヶ月前に偶然出会っただけだし、私からしたらすごく運命的な出来事だったけど、彼からしたら大したことなかったのかもしれない。覚えててほしかったっていうのは贅沢だったかな。とりあえず今は、彼ともう一度出会えたことが何よりも嬉しかった。

「私、ひと月前に赤塚駅であなたに痴漢から助けてもらった、苗字名前です!」
「……あー!思い出した思い出した。痴漢の子だ」

 痴漢の子とは、なんだか誤解を呼びそうな呼ばれ方をされてしまった。でも私を特定する単語として間違っていないし、否定するようなことでもないからまあいいや。思い出してもらえただけでも喜ばないと。

「それで、どうしたの」
「あの、私ずっと、松野さんにお礼がしたくて!」
「お礼〜? だから、べつにいーよぉそんなん。めんどくさいし」

 彼はそう言ってめんどくさそうに顔をしかめた。そんな。せっかくやっと会えたのに。お礼を名目に彼との仲を深めていく作戦が、早くも頓挫してしまいそうだ。
ショックを受けている私を尻目に、彼は何か思い出したように声を上げた。

「あ、そういやさあ、もしかして結構前からこの辺で俺のこと探してたのって君?」
「え、はい。えっと、毎週土曜日に」
「何人か、俺と似たやつに話しかけたりしたでしょ」
「はい。人違いしちゃったみたいで」
「あー、やっぱそっか。だからかー」
「……? あの、どうかしたんですか?」
「君のせいでね、俺にロリコン疑惑が立ってんの」

 ロ、ロリコン? 思わず眉にしわが寄る。ロリコンって、あの、幼女趣味とかそういう意味のあれ?

「私、幼女じゃないです」
「いや別にまんまそういう意味じゃないけどさ。俺いくつだと思う?」
「え、えっと……23歳、くらいですか?」
「当たり。で、君は?」
「17ですけど……」
「ほらロリコンじゃん!23の俺が17の君に手出したら警察のお世話になっちゃうの!あのときの痴漢みたいになっちゃうの!今ももしかしたら警察に睨まれてるかもって、俺気が気じゃないんだけど」

 そうかな。17歳と23歳なら大した歳の差でもないと思うんだけどなあ。六歳差なんて、夫婦間ではよく見かけるし、松野さんが気にするほどでもないと思う。第一、まだ恋人とかじゃないのにそんなに心配しなくたっていいんじゃないかなあ。もちろん、いつかそういう仲になりたいとは思うけれど、心配するには少し気が早いんじゃないだろうか。

「……で、なんだっけ。お礼?」
「はい。助けてもらったので、やっぱり何かお礼をしたくて」
「あのとき缶コーヒー買ってもらったじゃん」
「あれだけじゃ足りません。もっと、ちゃんとしたのがいいんです」

 そう言って彼を見上げ強く両手を握りしめる。一ヶ月半待っていたのだ、この再会を逃してなるものか。

「……でもさぁ、君高校生でしょ? 別にいいよお、めんどくさいしさあ。流石に俺、女子高生にたかるつもりないよ」

 そう言って彼は立ち去っていこうとしてしまう。やだ、せっかく、せっかくもう一度こうして会えたのに! 咄嗟に彼の手首を掴んで引き止めた。

「待って、待ってください!」
「もー、なにぃ?」
「じゃあこうしましょう! 私、これから松野さんにたくさん缶コーヒー奢ります!」

 会う機会が作れないのなら、自分から会いにいけばいいんだ。

「だから、また会ってください!」
「はあ?」

 松野さんは素っ頓狂な顔をしていたけど、それを無視してまくしたてるように喋った。

「来週の土曜日、この時間にまたここで会いましょうね!コーヒー、渡すから、絶対絶対来てくださいね!ずっと待ってますから!」
「いやちょっと、何言ってんの」
「それじゃあ、私これで失礼します!」
「はあ!?」

 無理やり宣言してお辞儀をして、彼の呼び止める声を背中に浴びながら、改札を通ってホームへの階段を駆け上がった。浮かれた気分でホームに降りる。改札の向こうにぽかんとしている松野さんが見えたので、大きく手を振った。
 これでまた来週、彼に会える! 嬉しくて、電車が来るまでいつまでもいつまでも手を振っていた。