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出会う四月



 四月。桜がきれいに咲いていた。

 珍しく早起きした俺は、電車に乗り込んだ。スーツを着て今からお勤めであろうサラリーマンを尻目に、角の席を陣取ってキオスクで買ったばかりの競馬新聞を広げる。平日の朝から競馬場へ行けるニートでよかった、ニート万歳。
今日はどの子にしようかな。マツノクリステルも調子良さそうだし、お前にしちゃおうかな。だけど、大穴を狙うのも嫌いじゃない。誰も目をつけていなかった馬が一位をかっさらって、今までそいつに見向きもしなかった人間たちが悔しがってんのを万馬券を握って見ているときの痛快さといったらたまらない。ああ俺、今ギャンブルしてるなあって、そんな気分に浸れるのだ。

 あ、やばい、今どこだ? 万馬券に夢を見ているうちに乗り過ごしてしまったかと少し焦る。電車の扉の上にある案内表示を見ると、目的の駅の三つ前だった。なんだ、もうちょっとゆっくりしてられんじゃん。心持ち浮かした腰をもう一度座席に下ろすと、目の前のサラリーマンが少し残念そうな顔した。ごめんね、今から働くあんたがずっと立ってて競馬に行く俺が座ってるなんてちょっと可哀想だね。でも電車の座席って早い者勝ちだからさ。譲ってやる気はさらさらなかった。クズと呼びたきゃ呼べばいい。
 案内表示からそのまま手元の競馬新聞に目を移したときだった。違和感を覚え、もう一度そちらに目を向ける。それなりに混んでいる人混みの隙間に目を凝らした。

 ……もしかしてあれ、痴漢じゃね?
 ブレザーを着た女の子がドアのすぐそばに立っていて、その真横のおっさんがその子にめちゃくちゃ密着している。おっさんは素知らぬ顔をして女の子のスカートの上からお尻あたりをひっそりと撫でていた。立っている周りのやつらには見えない地味な痴漢だ。多分気が付いたのは座ってて目線が低い俺だけかもしれない。うっわー、朝から嫌なもん見ちゃったよ。AVやエロ本で痴漢モノを見るのは好きだけど、現実でそういうのはちょっと……。犯罪犯してまで興奮したいわけじゃないし俺……。てか、うわ、女の子泣きそうな顔してんじゃん。かわいそー。

 え、えー? 何これ、どうすればいいわけ。正直声をかけて面倒ごとに巻き込まれるのはごめんだ。目的のレースに間に合わなくなる。だけど、気付いてしまったのに見て見ぬ振りをするのも後味が悪い。うだうだ考えながらそちらを見ていると、痴漢されている彼女と、ばちりと目が合ってしまった。瞳に涙をうっすら浮かべて、唇を噛みしめて耐えているそんな顔をしている彼女と、視線が絡んでしまった。

 あーあー、こんなことする柄じゃないんだけどなあ、俺。
 よっこいせと座席から立ち上がると同時に、電車が駅に停まる。お、ナイスタイミング。降りていく人混みに紛れて、おっさんと女子高生に近づいた。ドア前に立っているのをいいことに、おっさんはさっきよりも女の子に密着していた。気持ちわり。

「ねえねえ、あのさ、おじさんさぁ。こんっなさわやかでうららかな朝っぱらから女子高生のこといじめんの、良くないと思うよぉ?」

 さわやかでうららかな朝っぱらからギャンブルに勤しもうとする自分は棚上げだ。いいの、俺のはべつに犯罪じゃねえし、ただ人生を満喫してるだけだし。中年のおっさんの肩を掴んでそう言うと、おっさんは大げさなくらいびくりと肩を揺らした。

「ちょっと俺と一緒に駅員さんとこ行こうよ、おじさん」
「な、なに言ってるんだ、私はそんなこと、」
「いやいいからいいから。あ、君もちょっとここで降りてもらっていい? 当事者いないと流石にさ」

 女の子が戸惑いながらも小さく頷いたのを確認して、おじさんの腕をしっかり掴んだまま駅のホームに降りる。初めて降りる駅だから分かんねえけど、改札の方行けばいいかな。そしたら多分、駅員がなんとかしてくれんでしょ。

 改札の窓口で立っていた駅員に事情を説明すると、机と椅子だけ置かれた小さい部屋に案内されて、そこで警察の人が来るのを待つことになった。女子高生はびくびくしてるし、おっさんもびくびくしてるし、なんだこの空間。異様な空間で、俺だけがへらへら競馬新聞を読んでいた。
 遅れて入ってきた警官に、「このおっさんがこの子のお尻触ってました」と告げる。はい俺の役目おしまい。

「俺もう帰っていいっすか?」

 そう声を上げて立ち上がると、女子高生が俺のことをすごい目で見てきた。えっ帰っちゃうのみたいなそんなことが言いたいんだろうけど、俺ここまでおっさん連れてきただけでも頑張った方じゃない? 帰らせてよ。
 女子高生のアイコンタクトは特に意味もなく、警官の「もう少し事情をお聞きしたいので、しばらくお時間いただけますか」の声で俺は大人しくまた椅子に座り込むことになった。ニートだからお巡りさんに弱いの。何もやましいことしてなくても、職務質問で「お仕事は? へえ、無職なんですか」って言われんの苦手なの。自分に非がなくてもとりあえず怖いの、ニートだから。

 そんなこんなで、警官に言われるがまま良い子に事情聴取に付き合い、解放されたのは昼近くだった。なんかよく分かんないけど、おっさんはもうしばらく警察の人とおしゃべりをするみたいだ。ずっと「はい」「そうです」と小さな声で受け答えしていた女子高生も、そろりと椅子から立ち上がって一緒に部屋を出た。部屋の中の警官と、最初に話しかけた駅員に会釈しているのを律儀な子だなあなんて思いながら眺める。
 あーあ、これもう、あっち着いたときにはお目当てのレース終わってるわ。諦めて今日はもうパチンコでも行こうかなあ。たしか自宅に近いパチンコ屋で新作が昨日公開されたはずだ。今から行って台空いてっかな。これからのことを考えながら、ホームまで足を進める。

「あっ、あの!」

 後ろから呼び止められて、振り返る。彼女がまっすぐこちらを見ていた。

「あの、助けていただいてありがとうございました」

 そう言って結構な角度でお辞儀される。いや、俺べつにそこまでのことしてないんだけどな。正直目が合ってなかったら助けてなかったと思うし。目の前で泣きそうになっている女子よりも、競馬を優先しようとしていたし、真正面から感謝されるとどうにもばつが悪い。

「あー、いいよいいよ。大丈夫だった?」
「はい、……あっ、お礼! 何かお礼させてもらえませんか!」
「えー? いやべつに……あ、じゃあさ、コーヒー奢ってよ」

 ちょうど視界に入った自販機を指さすと、彼女は嬉しそうにはいと返事をした。

「どれにしますか?」
「んー、じゃあこれ」

 彼女は俺が指差した黒いボトルの缶コーヒーを買って、両手でそれを俺に差し出した。自販機の中で温められていたそれは予想していたよりも熱くて、思わず取り落としそうになった。

「あんがと」

 彼女は続けて、自分用にペットボトルのミルクティーを買った。たしかトド松が好んで飲んでたやつだ。女子が好きそうな、甘いやつ。そういえばあいつ、居酒屋でもカシオレとか頼むけど、誰受けを狙ってんのかな。どうでもいいけどさ。
 俺はちびちびコーヒーをすすりながら、彼女は暖をとるようにペットボトルを両手で握り締めながら、ホームのベンチに座って電車を待つ。時刻表は見てないけど、もう特に急いでもないしいいや。缶を傾けるたび、口の中にコーヒーの味が広がっていく。そういえばこれちょっと良いやつじゃん。140円する、高いやつ。初めて飲んだけど結構美味いかも。

 朝乗ってきたのと逆方向、自宅方面に向かう電車がホームへやってきたのを確認して、まだ中身の入ってる缶コーヒーの蓋を閉めながら立ち上がる。すると彼女も、スカートを整えながら同じく立ち上がった。
 平日の昼過ぎ、しかも下り方面の電車の中はガラガラだった。適当に真ん中の席に座ると、遅れて、一人分よりは少し狭いくらいの、そんな微妙な距離を開けて彼女が隣に座った。

「……君こっちでいいの? 学校行く途中とかだったんじゃないの」
「あ、え、えっと、本当は部活があったんです。春休みなので、午前中だけ」
「ああ、じゃあもう行っても間に合わないのか」

 案内表示の液晶に目を向けて確認すると、時刻はもう十三時に差しかかろうとしていた。午前中の部活なら終わっちゃってるわな。しかし警察の事情聴取って長いんだな。おっさんが初犯だのなんだの、どうでもいいから俺も被害者のこの子も早く帰してくれたらよかったのに。

「はい。顧問にも電話で事情は説明したので、もう今日は帰ろうかと思って」
「そっかそっか。部活、何部入ってんの?」
「美術部です」
「へえ、絵上手いんだ」
「あ、いや、絵を描くのは好きですけど、……上手ってわけじゃないんです」
「ふうん」

 がたんごとんと電車に揺られる。座席の下のヒーターの暖かさと、心地よい揺れで少しうとうとしそうだった。そういえば今日早起きしたんだっけ。おっさんのせいで無駄になっちゃったけど。さっきから飲んでるブラックコーヒーくらいじゃ、この睡魔には耐えられそうになかった。ニートの睡眠欲を馬鹿にしちゃいけない。
 この車両には俺と女子高生二人しか乗っていなくて、俺たちが黙るともう電車の音しか聞こえない。静かな車両の不思議な心地よさにそのまま身をゆだねようとした、その時だった。

「……あ、桜」

 隣の彼女がふと声をあげた。花なんか特に興味もないのに、思わずつられて顔を上げる。
電車は丁度でかい川の上の橋を、ひときわ大きな音を立てて走っていた。土手を桜並木が埋めている。一面、白ともピンクとも言い切れない色に染まっていて、結構綺麗だった。

「綺麗ですね」
「綺麗だねー」

 小学生みたいな感想を二人して漏らす。あ、花見してえな。花見酒。ビールでも日本酒でもいいし、出店で焼き鳥とか買ったら楽しそうだ。今度あいつらを誘ってみようか。最近付き合い悪いけど、そこはお兄ちゃんの腕の見せ所だ。

「……あ、あの」
「ん?」
「あの、やっぱり、改めてお礼をさせてもらえませんか」
「んー? いいよ別にそんなん。コーヒー奢ってもらったし」
「でも、じゃ、じゃあせめて、お名前だけでも教えてくれませんか」

 もしもこの子が綺麗なお姉さんだったらここぞとばかりに連絡先とか聞いてただろうけど、女子高生だしなあ。流石に女子高生相手にこれからの可能性を感じるほど馬鹿じゃない。今朝のおっさんとは違うけど、手を出したら犯罪だ。警察のお世話になるのは俺の方になってしまう。

「名乗るほどのもんでもないですー」
「お、お願いします! 教えてください!」

 えー、結構食い下がるな、この子。さっきまで事情聴取の最中に抱いてたのは、もう少し大人しい子だという印象だったんだけどな。

「……おそ松だよ。松野おそ松」

 後ろ髪を掻きながら言うと同時に電車が止まり、座席から立ち上がる。自宅の最寄り駅だ。

「そんじゃあね」

 手をひらひらと振って、座席に座ったままの彼女にばいばいをしながら、見知ったホームに降りる。
 もう飲みきってしまったコーヒーのボトルは、すっかり冷たくなっていた。




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