小説
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好きです、大好きです



目を覚ますと、知らない天井だった。慌てて飛び起きると、途端に頭痛に襲われ頭を押さえる。辺りをそろそろと見渡すと、自分が今までにソファで寝ていたことに気が付いた。ここは、一体どこなんだろうか。本棚、ソファ、カーテン、サーフボード、赤いカラーコーン。最後のものを抜かせば、生活感のある普通の部屋だった。窓から外を覗くと、見慣れないビルや建物が並んでいて、真上に太陽が見える。おそらくは民家の、室内。襖が開かれる音がしてそちらに目を向けると、松野さんが器用に足を使って襖を開けていたところだった。

「あ、起きた?」
「ま、松野さん? なんで、ここって」
「俺んちー。その様子だとまたあれでしょ、よく覚えてないって言うんでしょ」
「え、あ、その……えっと、あの」
「べつにいいよ、めちゃくちゃ酔ってたの知ってたし。予想してた。まあまあ水でも飲んで落ち着いてよ」

彼は、手に持っていた二つのコップのうち一つを私に手渡し、私が寝ていたソファのすぐそばに胡座をかいた。一口水を口に含むと、途端に身体が喉の渇きを思い出して、ごくりごくりと一気に一杯飲み干してしまった。松野さんはそれを見て、自分用に用意したのだろうもう一つのコップも私に差し出す。お礼を言って、遠慮なくそれも飲む。

「んで、えーっと、どこまで覚えてる?」
「ど、どこまでって……」
「順番に考えたら、思い出すかもでしょ」
「……ええと、まず、仕事帰りに先輩と飲んで、それから先輩を家まで送って、それから」
「うん」
「それから、歩いているうちにカラ松さんに出会って、おでん屋さんに、チビ太さんのところへ、行って、お酒飲んで」
「ああ、あれ二軒目だったんだ。どうりでヘロヘロになってたわけだ。そんで、それから?」
「そ、それから、それで、ええと」
「それから先は、覚えてない?」
「い、いや! 違うんです、覚えてるんです! 覚えてるん、ですけど……」

順を追って思い返しているうちに、きちんと思い出してきた。きちんと、全部、ちゃんと、全て思い出した。恥ずかしくて、穴があったら入りたい。あんなに、子供みたいに泣いて自分の気持ちをさらけ出してしまって、挙句。

「まあでも、まさかキスの直後に気持ち悪いって言われるとは思わなかったよね。あれ俺結構ショックだったよ?」
「……っ!! ごめん、なさい……」

自分の考えていたこと、考えていること、全てを吐露して、目の前の彼と口づけを交わして、そして私は吐き気を催した。昨日飲んだアルコールの量と、酔っぱらった状態で全力疾走したことを考えれば、当然の結果だった。自己嫌悪でいっぱいになる。酷いことを、してしまった。反省と後悔で、思わずその場で二日酔いの頭を抱えていると、彼の手が私の手を取って、両手で握られた。

「ねえ、名前ちゃん、確認するけどさ。俺、またあの家に戻ってもいいの? ……俺は、名前ちゃんと、また一緒に暮らしたい」

「だめ?」と尋ねる声は、いつになく弱々しくて、彼が緊張しているのが分かった。不安そうに視線を泳がせている彼の手を、強く握り返す。

「言ったでしょう、松野さん。私、松野さんがいないと駄目なんです。……どこにもいかないで、ずっとそばにいてくれますか」
「……うん、どこにもいかない。名前ちゃんが嫌だって言っても、今度は、もうどこにも行ってあげない」

  ◇

彼女と同棲するから、と居間で告げた彼に対するご家族の反応は、予想だにしないものだった。カラ松さんをはじめとした、松野さんと同じ顔の弟さんたちが、五人揃って「うらやま死ね!」「クソ長男!」「抜け駆けずるいぞ!」と叫びながら松野さんに飛びかかって拳を浴びせているのは衝撃だったし、それを全ていなしている松野さんにも驚かされる。呆気に取られている間、松野さんのご両親はにこにこしながらお茶を飲んでいて、その上「引き取り手がいて助かったわ」「孫が楽しみだな」なんて会話をされて少し困ってしまった。まるで結婚の挨拶でもしたような気分になって恥ずかしい。
私はてっきり、ゆっくり準備をして後日私の家に正式に引っ越しをするものかと思っていたのだけれど、どうも違うようで、彼は弟相手の攻防を終えてすぐ、私の手をつかんで「あー疲れた。ね、早く行こうよ」と急かしてきた。松野さんのお母さんが「せめて夕飯くらい食べていったら」と言うのも、「名前ちゃんと二人で食べるからいいー」と断って、あれよあれよという間に私たちは松野さんの家族に送り出されていた。

「えっ、おそ松兄さん、荷物それだけ?」
「うん、洋服とか全部、名前ちゃんちに残ってるって言うから。暖かくなったら適当に夏服送って」

私の家には、彼のものが全て残っていたままだ。捨てられなかったのだと告げると、嬉しそうに「そっか」と笑われて、少し恥ずかしかった。保険証とお財布、上着など最低限のものだけを持って玄関に立つ彼は、まるでふらりとコンビニまで行くような格好だ。

「あれ、そういや一松兄さんは?」
「一松兄さんなら二階にいたよ、めんどいから俺はいいって言ってた!」
「あー、あいつ人見知りだから」
「だからって、見送りくらい顔出せばいいのに」
「まあそう遠い距離でもないしいいじゃん。会おうと思えばすぐ会えるんだし」

松野さんと十四松くん、トド松くんが三人で話している横で、緑のパーカーの、たしか三男のチョロ松さんがこっそりと私の目の前にきて、耳打ちをする。

「苗字さん、愛想つかしたらいつでもあのクズ放り捨てて大丈夫ですからね?!」
「ふふ、捨てませんよ」

絶対捨てませんよ。もう何があっても、彼をあの部屋から追い出したりしないって、私は決めたから。

「苗字、おそ松をよろしく頼む」
「はい」

笑ってそう言ったカラ松さんの目を見つめ、短い言葉で答える。おでん屋での恥ずかしい内緒話は、私と彼、松野さんも知らない二人だけの秘密だ。

「おいカラ松、何見つめあっちゃってんの? 名前ちゃんは俺のだからね」

私とカラ松さんの間に入って、松野さんが拗ねるのがおかしくて、思わず笑ってしまう。何も心配いらないのに、おかしい人だ。何があったって、私は松野さんのものなのに。

  ◇

一日半ぶりの我が家だった。昨日おでん屋に置いてきたままだった鞄から自宅の鍵を取り出して、差し込み回す。錠の開く音ががちゃりと聞こえた。

「あ、待って」

松野さんが、玄関のドアノブをつかんだ私を止める。突然どうしたと言うのだろうか。首をかしげていると、彼が私の手の上からドアノブをつかんでこちらを見る。

「俺が先に入るから、ちょっとここで待ってて」
「え……?」

返事を待たずに、彼は部屋に入ってしまった。玄関の前で置いてけぼりにされて、少し不安になる。どうしたんだろう。困惑していると、程なくして中から「いいよー」と気の抜けた声が聞こえてきた。一体何がしたいんだろうか。ドアノブをひねって開ける。当然と言えば当然のことだけれど、中には松野さんがいる。靴を脱いで一人、鼻の下を指でこすりながら廊下に立っていた。

「へへ、おかえり」
「おかえりって……。それは、松野さんでしょう。一体何がしたかったんですか」
「うん、でも、名前ちゃん言われたかったでしょ、おかえりって」

嬉しそうな、楽しそうな彼のその言葉を聞いて、理解して、顔が、身体が、じんわりと熱くなる。

「……はい」

言われたかった。松野さんのおかえりが、ここ二週間ずっと欲しくて欲しくてたまらなかったのだ。

「おかえりなさい、名前ちゃん。ただいま」
「松野さん、ただいま帰りました。おかえりなさい」

まだ靴を履いたままだっていうのに抱きしめられて、引き寄せられるようにそのままキスをした。二度目のキスはなんだか恥ずかしくて、思わず顔を伏せてしまった。

「へへへ、酔ってない名前ちゃんとキスすんの初めて」

ちらと上目で伺うと、彼は顔中の筋肉を緩めて、まるで世界で一番幸せだとでも言うみたいな顔をして笑っていた。彼の瞳の中の私も、同じ顔で微笑んでいた。

「好きです。大好きです、松野さん」
「うん、俺も名前ちゃんのこと、すげえ好きだよ」

これからは、これからも、ずっと彼と朝を迎えるのだ。そう思うと、こんなに頬が緩むのも、仕方のないことだった。
この部屋に、世界中の幸せが詰まっているような、そんな気がした。