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ちゃんと聞かせて



へろへろの身体で必死に走っていた。急に立ち上がって走り出したせいか、頭ががんがん痛む。それでも、足は止められない。逃げても逃げても後ろから追ってくる足音が止む様子はない。ちらと後ろを見ると、赤いパーカーが十メートルほど後ろに見えた。諦めてくれそうには到底見えない。角を曲がり、そのまま細道を走り去ろうとしたときだった。突然、つま先が地面にひっかかかるような感覚がした。がくんと身体が前のめりになって、バランスを崩した。咄嗟で声も出ず、私はそのまま地面に勢いよく膝をつく。

「いった……」

転んだ拍子についた膝と掌が痛い。思わず声が漏れた。伝線したストッキングに、血が滲んで汚れていく。とっさに地面についた掌も、コンクリートに擦ってしまったせいで皮がめくれてうっすら血が見えた。じくじくと鈍い痛みが内側に広がっていく。

「名前ちゃ……!?」

後ろから松野さんの声と、足音がした。もう逃げられない。観念して、地面にしゃがみ込んだまま膝を抑える。

「えっ、なに、どうしたの、転んだの!? えっ、えっ」

地面に座り込んでいる私のもとへ、松野さんが慌てながら走り寄ってきた。

「だいじょぶ、立てる? 手当てする? そこ公園あるからさ、とりあえずそこまで行ける?」
「だ、大丈夫です。手当てとか、平気ですから」
「だめだって、ばい菌入るよ。いいからこっち」

彼に腕を引っ張られ、半ば無理やり公園まで連れていかれる。彼が言うまま、ベンチに腰掛けた。石でできたそれはひどくひんやりとしていて、スカートの布越しでも冷たさが伝わってくる。
「なんかハンカチとか持ってない?」と聞かれ、ポケットからハンドタオルを取り出し渡す。彼はそれを持って水道まで歩いて行った。その背中を見ながら考える。彼は、一体何のために私を追ってきたのだろう。まさか、こんな追いかけっこまでして、世間話をするわけでもないだろうけれど。私がカラ松さん相手に語っていたこと、やっぱり聞こえていたのだろうか。彼が追いかけてきたのがどんな理由にせよ、気が重い。思わず俯いてしまった。自分の血と砂で汚れた膝が見えた。

「これ、濡らしてきたからさ。ストッキングかなんか履いてんの? まあその上からでもいいから、とりあえず拭いときなよ」
「……ありがとうございます」
「痛くない? 平気?」
「大したことないです。大丈夫です」

彼に手渡された濡れたハンドタオルを使って、掌と足についた砂を優しく拭っていく。帰ったらこのストッキングは捨てないといけないなあなんて、そんなことを現実から逃れるように考える。
彼は何も言わず私の横に座った。先ほどまで屋台でカラ松さんと空けていた距離と同じくらい、いや、それよりももう少しだけ開いた距離。ベンチの端と端に、2人で座っていた。お互い目も合わせず、会話もなく、数分が経っただろうか。唐突に彼が口を開いた。

「……名前ちゃん、お酒くさいね」
「……お酒、飲みましたから」
「なんで飲んでんの? 一人で飲むなよって俺言ったじゃん」
「……そんな、だって」

言い返そうと口を開いたものの、続きの言葉が浮かばずそのまま口を閉じる。だって、何だと言うのだろう。私は一体どんな言い訳をするつもりだったんだろう。松野さんがいないのが悪いとでも言う気だったのだろうか。
彼は、突然追い出した私を責めることもせず、先ほどの発言に触れるわけでもなく、ただ私の心配だけをしていた。

「夜中に酔っ払って女の子が歩くもんじゃないよ。タクシーとか呼びなって」
「……大丈夫です。歩いて帰れますから」
「だーめ、危ない」
「本当に、大丈夫ですってば」
「……さっきから大丈夫大丈夫ってさあ、心配くらいさせてよ」

彼がそう言った声が、やけに切なげに聞こえて、思わず口を噤んだ。大丈夫という言葉ばかり繰り返していたけれど、本当は全然大丈夫なんかじゃない。けれどそれを、そんな弱い姿を、松野さんに見せたくなかった。

「もう俺は、心配もさせてもらえないの」
「ちが、そうじゃ、そうじゃなくて」
「そうじゃなくて何?」
「だって、私、松野さんのこと、無理やり追い出したのに、心配してもらうなんて」
「……それはべつにいいよ。あそこは名前ちゃんの家なんだし、出てけって言うのも名前ちゃんの自由でしょ」
「……今は、松野さんは実家に戻ってるんですか」
「あー、うん、そう。家に、うん、そうね。弟とまた六人おんなじ布団で寝てんの。超せまいよ、笑えるでしょ」
「そう、ですか」
「あー……」

笑って家の話をしていた松野さんは、突然表情を消して呻くような声を上げて、それから、自分の頭をぐしゃぐしゃと掻いた。

「俺はさ、こんな話するために名前ちゃんのこと追っかけてきたわけじゃないんだよ」

真っ直ぐこちらを見つめられて、彼から目が逸らせなくなる。

「ちゃんと聞かせて。俺に出てってほしいって言った理由も、さっきあいつと話してたことも、名前ちゃんが考えてること、全部教えて」

真剣な彼の問いをはぐらかすことは、出来なかった。私は、口を開いて、ぽつりぽつりと話し始めた。

「……ごめんなさい。私、わたし、知っていたんです。松野さんの弟が、松野さんを探していることも、家に帰らなくちゃいけないってことも、知っていたのに、でも、そばにいてほしくて、出て行ってほしくなくて、だからずっと、黙っていて。でも、弟さんたちが、ずっと、ずっと探していて、松野さんがとても大事な存在なんだって、そう聞いて、だから。私は、松野さんを返してあげなくちゃって、そう思って、だから、あの日無理やり、追い出したんです。決心が鈍るから、聞いたその日に、無理やり。でも、本当は、……本当はずっと、松野さんと、一緒に暮らしていたかった」

頭の中はぐちゃぐちゃで、自分が何を言っているのか、もう分からない。感情が溢れかえって、言葉が支離滅裂に口から漏れていった。さっきから胃はむかむかしているし、頭もガンガン痛むし、最悪な気分だ。それでも、今言わなければ、今を逃したらもう彼に伝えられない。そんな焦燥感に駆られて、ただただ頭に浮かんだ順に語っていた。
松野さんは、いつもみたいに、私の話が終わるまで、静かにただ黙って聞いていた。

「好きって言ってもらえて、すごく、すごく嬉しかったんです。でも、怖かったから、それを受け入れていいのかなって、弟さんたちが、今でも探してるのに、私だけ松野さんと一緒にいて、幸せで、ずるいんじゃないかって、そう思って私、それを聞かなかったふりして、傷つけて、ごめんなさい。松野さんがいなくなってから、色んな人と話をして、その度に松野さんはもう私のそばにいないんだなって思い知らされるみたいで、辛くて、忘れたかったのに、忘れられなくて、今日だって、車に轢かれそうになったのをカラ松さんに助けてもらって、そのとき、思わず一瞬、松野さんだって嬉しくなってしまったんです。全然忘れられないんです、あなたのこと」

眼のふちから涙がぼろぼろと溢れてきて、思わず彼の視線から逃げるように俯く。嗚咽の声が漏れる。鼻の奥がつんと痛い。熱い雫が、頬を顎を伝って、膝の上で握りしめていた拳に落ちた。

「私、もうだめなんです。松野さんがいないと、もう何にもできない。あなたがいないとだめなんです。あなたじゃなきゃだめなんです。朝一番に目に入れるのも、おかえりって言ってもらうのも、いってらっしゃいも、おはようもおやすみも、抱きしめてもらうのも、全部全部あなたがいい」

無理やり涙を拭っていた手が、彼によって阻まれる。両手首をつかまれて、いつの間にかすぐ隣まで来ていた彼の方へ、身体を向けさせられた。

「ねえ名前ちゃん。さっきチビ太んとこで言ってたの、もっかい言って」
「え……?」
「俺は、名前ちゃんが好きだよ。名前ちゃんは?」

松野さんが真剣な顔をして、私の目を見て、手を握って、ゆっくりとそう言った。

「……好きです。私、松野さんが、あなたが好きです」
「……うん」

彼に抱きしめられる。彼のぬくもりが、じんわりと身体に伝わっていく。安心する温度だった。この慣れ親しんだ温度が、大好きだった。松野さんの胸に顔を埋めて、深く息を吸い込む。私のものとは違う洗剤の香り。初めて嗅いだその匂いは、どこか懐かしくて涙が出た。
彼の手が私の頬に添えられて、顔を上げさせられる。彼の優しい瞳が、私だけを見ていた。上を向いた拍子に涙がまた一つこぼれて、頬を伝う。彼がそれを追うように、頬に唇を寄せる。どちらからともなく目を閉じて、唇を重ねた。初めて触れる彼の唇は、少しかさついていた。