小説
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私ね、彼のことが



「……え、?」
「あ、も、もしかして強く引っ張りすぎたか? すまない、咄嗟に腕を掴んでしまって」

私が呆気にとられていると、目の前の彼は慌てて私の腕を離した。強く掴まれていた手から解放され、右腕がぶらんと落ちる。薄暗い街灯の明かりに照らされる顔をまじまじとよく見てみると、ほんの少しだけ彼と雰囲気が違う。眉や声に、少しの違和感。
松野さんじゃない。少なくとも、私の知っている松野さんではない。でも、まるっきり同じ顔だった。

「危ないところだったな、もう大丈夫だ」
「あ、はい。ええと、その、助けていただいて、ありがとうございました」
「俺は松野カラ松」
「松野、カラ松さん」

動かない頭で、彼が唐突に自己紹介した名前を復唱する。松野さん。きっと、やっぱり、おそらく、あの「松野さん」の、弟だ。五人いる弟のうちの一人。私が一方的に罪悪感を感じていた相手の、一人。

「ここで会ったのも運命だと思わないか。どうだ、一緒に魂の渇きを潤そうじゃないか」
「……はい?」
「……一緒に、酒でも飲みませんか」
「……いえ、私さっきまで飲んでたし、もう帰るところなので」
「フッ、狂った果実をともに食べよう。躊躇うことは無いさ、エデンは全てを受け入れる」
「……? あの、」
「おでんは好きか? 美味い店を知ってるんだ」
「え、まあ。普通に、好きですけど……」

カラ松さんは、随分と気障というか、正直に言えばおかしな言い方をする人だった。私が理解できないという素振りを見せると分かりやすく言い直してくれたけれど、毎回ややこしい言い方をする。会話のキャッチボールが出来ない、投げるたびに暴投してその度にボールを拾いに行かなければならないような、そんな煩わしさがあった。拍子抜けするくらい、マイペースな人だった。

行きつけの店なんだと言って彼が先に道を進むのを、躊躇いながら数歩遅れてついていく。どうしよう、断り切れなかった。松野さんの弟となんて、一緒にいても良いことなんか一つもないのに。彼を思い出して、辛くなるだけなのに。
しばらく、彼のよく分からない話に生返事をしながら後ろを歩く。おでん屋に行こうと言われたけれど、あれってひょっとしてナンパだったんじゃないか。おでん屋というチョイスがよく分からないけれど、要するに私、松野さんの弟のナンパに乗ってしまったんじゃないか。

「あ、あの! 私やっぱり、」
「着いたぜ、ここだ」
「え……、」

彼が立ち止まった先には、今までに二度訪れたことのある、おでん屋台があった。思わず顔を引き攣らせる。どうしよう、ここにはもう来ないはずだったのに。だって、彼と、松野さんと会ってしまうかもしれない。

「らっしゃい! って、カラ松じゃねえか、金ないんなら食わせねえぞ」
「チビ太、さっき運命の出会いを果たしたカラ松ガールだ。紹介するぜ、ええと」
「……苗字です。カラ松ガールでは、ないですけど」
「あ、あんた、また来てくれたんだなあ!」

店主の名前はチビ太と言うらしい。チビ太さんが嬉しそうに来店を喜ぶものだから、ここまで来て帰りますと言うのも申し訳なくなってしまった。「ど、どうも……」と挨拶を返しながら苦笑いをする。

「なんだ、チビ太の知り合いだったのか」
「お前らとは違って食った分の金払ってく、ちゃんとしたお客様だよ。まあゆっくりしてけよ、今日はなんか飲むか?」
「……じゃあ、熱燗ください。お猪口一つでいいです」

もう自棄になった。ひどく酔ってしまいたい気分だ。忘れたいのに忘れられなくて、まるで世界が忘れることを許さないとでも言っているみたいで、嫌になる。鞄を地面に投げ捨てるように置いて、椅子に座った。遅れて、カラ松さんが少し距離を置いて隣に座る。横顔を横目で見ると、やっぱりあの人にそっくりだった。カラ松さんがこんなにも元気そうな様子から察するに、おそらく彼はもうあの家に戻ったのだろう。そして、彼の弟たちはすでに日常に戻っている。それは、きっと間違いないだろう。そうでなければ見知らぬ女をナンパして飲みに来たりしないはずだ。

「俺はいつもので頼むぜ、チビ太」
「はいはい、ウーロンハイだよな、今日はちゃんと金払えよ」
「なっ、ウイスキーだろ!?」
「女の前だからってカッコつけたっておめーじゃ無駄だよ。大体その嬢ちゃん相手いるぜ。たしか一緒に住んでるんだったよな」
「そ、そうなのか!? 俺は、人妻に……!?」
「……やだな、違いますってば」

苦笑いをして否定する。チビ太さんはずっと勘違いをしているようだった。最初に会ったとき、曖昧に否定したことが悔やまれる。恋人じゃないし、いまやもう一緒に住んですらいない。
カラ松さんの前に茶色い液体が並々入ったジョッキが置かれる。ウーロンハイなんだろうか。

「カラ松ガール」
「苗字です」
「苗字、俺たちの運命の出会いに乾杯しようじゃないか」

チビ太さんが出してくれた徳利を傾けると、とぷとぷと湯気をまとった無色透明の液体がお猪口を満たす。日本酒の入ったお猪口と、冷たいウーロンハイの入ったグラスがぶつけられて、かちんと音を鳴らした。喉が渇いていたのでそのまま一気に煽ると、喉が焼けるような感覚がした。これなら以前松野さんと喧嘩したときに飲んだものの方が美味しかった気がする。あれはなんて名前のお酒だっけ。酔いは醒めかけていたはずなのに、日本酒のせいでまた頭がぼんやりして、なんだか思い出せない。お猪口に二杯目を注いで、また煽る。アルコールに、脳が溶かされていく。

「苗字は酒が強いんだな、さっきも飲んだんだろう」
「そこまで強いわけじゃありませんよ。ただちょっと、酔いたい気分なんです」
「嫌なことでもあったのか?」
「……まあ、少し」
「俺で良ければ話してみるといい、吐き出した方が楽になることだってあるんだぜ」

同じ顔でそんなことを言われると、まるで松野さんが「嫌なことがあったの? 俺に愚痴っていいよ」って、そんな風に言ってるみたいで、私は思わず、誘われるように重い口を開いた。

「……カラ松さん、今から話すこと、明日になったら全部酔っぱらいの戯言として忘れてくれますか」

アルコールで沸いた頭が、おかしなことを口走る。おかしいな、これは誰にも言うつもりじゃないのに。言うべきじゃないのに。カラ松さんは、「ああ」と低い声で返事をして頷いた。

「……私ね、好きな人がいたんです。その人と、不思議な出会いをして、不思議な縁でしばらく一緒に暮らしていました。その人、すごく優しくて、いつも私を甘えさせてくれて、いつだって欲しい言葉をくれて、温かいぬくもりをくれて、朝を教えてくれて、太陽みたいな人でした。私、どんどんその人に惹かれてました。嬉しいことに、その人も、私のことを好きだって言ってくれたんです。でも、でもね、私と彼が一緒に過ごしている間、その人のことをずっと探してる人たちがいたんです。もともと彼はその人たちのそばにいるべきで、私の家にいる方がおかしかったんです。それを知ったとき、私、自分可愛さで彼にそれを隠したんです。自分が離れたくなかったから。だけど、彼を探してる人たちの話を聞いて、そうも言ってられなくなって。それで、私は、彼と離れることを選んで、彼を家から無理やり追い出しました。多分、きっと今頃、彼に恨まれてると思います。だから、今日は自棄酒なんですよ。失恋しちゃったから、お酒に逃げてるんです。ふふ、馬鹿みたいでしょう」
「……でも、今でも苗字はそいつのこと好きなんだろう。会いに行かないのか?」

黙って私の話を聞いてくれたカラ松さんが、不思議そうに尋ねる。その問いに、かぶりを振って答えた。

「私、あの人のこと何にも知らないんです。年齢も誕生日も、電話番号も、アドレスも、住んでた場所も、何にも知らないんです。おかしいですよね、ずっと一緒にいたのに。でも、だって、だって家に帰ればあの人が迎えてくれたんです。電話だって、家にかければあの人が出たんです。知る必要なんて無かったんですよ。だって、彼は家で待っていてくれたんです。彼の名前しか知らなかったけれど、彼が家にいてくれさえすれば、それで十分だったんですよ。…………ううん、ごめんなさい。やっぱり全部言い訳です。ほんのついさっき、彼に会う手がかりにも出会ったんですけど、やっぱり勇気が出ないんです。会いに行って、彼が私のことなんてもう忘れて、元の場所で日常を過ごしているのを見るのが怖いんです。元の場所に戻ってほしくて一方的に追いやったのに、私、自己中ですね。最低ですよね。悲劇のヒロインぶって、本当に馬鹿みたい」

自嘲的な笑いを浮かべる。どうして私は、カラ松さんに、彼の身内にこんなことを話しているんだろう。私は、彼にこんなことを聞いてもらって、どうしてほしいんだろう。チビ太さんは、口を一文字にしたままおでん鍋を見つめていた。ああ、もしかしたらさっきの発言について失言だったと思わせてしまったかもしれない。ごめんなさい、そう気にしないでください。酔っぱらいが、ただ愚痴を吐き出しているだけなんだから。

「お互いが想い合っているのに結ばれないなんて、まるでロミオとジュリエットだな」
「……そんな綺麗なものじゃないですよ」

格好つけてそんなことを言うカラ松さんに、思わず笑ってしまう。同じ顔でも、中身はずいぶんと違うものだ。

同じ顔の彼に心中を吐露して、思わず気が緩んでいた。だから、思わず口を滑らせてしまったのだ。それだけは絶対に言わずにおこうと決めていた言葉を、まるで独り言のように漏らしてしまった。

「わたし、私ね、」
「ん?」
「彼のことが、松野さんが、すきだったんです」

初めて、それを口にした。誰にも言わないつもりだったのに、自分の中にしまっておくつもりだったのに、

「……あ?」
「……え?」
「……は?」

前から、横から、後ろから、三つの声が聞こえた。前の声はチビ太さん。横は、カラ松さん。後ろの声は、一体誰のもの。
身体ごと後ろに振り向いて声の方向に目を向けると、カラ松さんと同じ顔がもう一人。間抜けな声を出して、間抜けな顔をして、その人はそこに立っていた。はてさて、この人は一体何番目の松野さんだろうか。

「え、なんで、は、……名前、ちゃん?」

それは、何度も聞いた、何度も呼ばれた声だった。

「……ぁ、」

ぽかんと開いた口から、小さく声が漏れた。あんなにも会いたかった人が、目の前にいた。松野さんが、目の前に立っていた。

立ち上がり、走り出す。鞄も何も持たずに、その場から逃げ出した。
背後から、横椅子が派手に倒れる音、それからカラ松さんの驚きと戸惑いを混ぜこぜにしたような声が聞こえた。

どうして私、逃げているんだろう。あんなに、あんなにも会いたかったのに。どうして松野さんはあそこにいたんだろう。一体、いつからあそこに立っていたんだろう。いつから、話を聞いていたんだろう。どうして、どうして。
アルコールに浸った身体では走るのが精いっぱいで、何も考えられなかった。ぜいぜいと自分の息を吐く音と、私の後を追ってくる気配だけが、頭の中を占めていた。