小説
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寂しい



彼がいなくなってから、正確に言い直せば彼を追い出してから、十日間が経った。

どんなに心が痛くとも朝はやってくるし、どんなに心が傷んでいても社会は待ってくれない。失恋で周りに迷惑をかけていられるほど、子供ではなかった。去年の秋ごろにも、こんな風に失恋して落ち込んでいたんだっけ。まるで、心に穴が開いたような、そんな喪失感。例えるなら、手から離してしまった風船が空へ飛んで行ってしまうのを、泣きそうになって見上げているような、子供のころのそんな気持ちを思い出した。
朝慌てて起きてから急いで支度をして家を出て、仕事から帰ったらコンビニで買ったおにぎりを食べて、シャワーを浴びて泥のように眠る。ほんの数か月前までの日常が戻ってきただけなのに、何かが決定的に足りない。「何かが」なんて誤魔化したって、何が足りないか、私はもう痛いほどに知っているのだけれど。

数ヶ月前までは全く気にならなかったのに、この1LDKは私一人だけじゃやけに広く寂しく感じる。居間に置かれたソファベッドに身体を沈めると、スプリングがぎしりと音を立てた。これだけが、彼がこの部屋に残したままにしていたものだ。私はこの十日間、毎日ここで眠っていた。自分のベッドと比べると少し硬く寝心地が悪くて、数か月の間ずっと彼をこれで眠らせていたのが申し訳なくなる。

横たわったまま部屋を見渡すと、部屋の隅に鎮座する複数のゴミ袋が視界に映る。きちんと分別したら、未練を断ち切ってすべて捨ててしまうつもりだった。それなのに私は、あの人のものをまだ捨てられずにいた。
彼が普段から使っていた毛布を抱きしめる。鼻先へあてがって、思い切り息を吸い込むと、彼の残り香で、頭がくらくらした。まるで麻薬のようだった。この匂いを肺に入れるたびに、ますます彼を忘れられなくなっていく。それなのに、捨ててしまうことはできなかった。彼の洋服も、寝具も、マグカップも、思い出も、全て捨てられずにいた。

彼はきっと見せるつもりのなかったメモを手に取って、大事に大事に指で文字をなぞる。もう幾度読み返しただろうか。一瞥すればすべて読み切ってしまうような、短い言葉。松野さん、あなたは、どんな気持ちでこれを書いたんですか。どんな気持ちで、これを捨てたんですか。未練、恨み、それとも。考えても、分からなかった。きっと、どれも正解ではないのだろう。
松野さん。心の中で呼んだって、返事なんか聞こえない。もちろん、声に出したところで結果は一緒だ。

「寂しい……」

一人の部屋で答える声はなく、涙混じりに漏れた声は、宙に浮かんで消えていった。
ねえ、松野さん。私、あなたがいないと何にもできないんです。一人でも生きていけそう、だなんて評されていたのが、まるで嘘のようだった。人並みの生活を演じることはできても、心の中は寂寥感でいっぱいだ。張りぼてで周りを固めて今まで通りを演じていた。松野さんはひどい人だ。こんなにも私のことを駄目にしてくれて、 どうしてくれるんですか。
まるで私が捨てられたみたいだ、なんて自嘲する。

彼は今頃家に戻っただろうか。五人の弟に暖かく迎えられて、幸せに笑っていればいいのだけれど。

  ◇

会社のエレベーターに乗り込むと、知り合いと目が合い軽く会釈する。いつぞやの合コンで、高い度数のカクテルを前にして困っていた同期だった。

「苗字さん、おはよ。最近どう?」
「うん、まあまあ。どこの部署もこの時期は忙しいね」
「本当やんなっちゃうよねー。あ、そういえばさ、こないだの合コンどうだった? 二次会いなかったよね。覚えてないけど、たしか男性陣も一人減ってたし、もしかしてあのままくっついちゃったりした?」

彼女がにやりと笑って小腹を小突いてくる。楽しそうな表情で何よりだった。学生の時、バスケ部の彼はマネージャーと付き合っているらしいだのなんだのと恋愛の話題で盛り上がったのを思い出した。女性というものはいくら歳を重ねても変わらないものだな、なんて少し笑う。

「違う違う。ちょっと悪酔いしちゃったから、タクシーで送ってもらっただけだよ。普通に家の外でさよならしておしまい。何にもないって」
「ほんとー?」
「本当だってば」

実はあんまり覚えてないんだけれど。だけどタクシーに乗ったのは覚えている。家の住所を伝えて、気が付いたら家のリビングで目が覚めた。私が覚えていないうちにあの彼と過ちを犯した可能性は限りなく低いだろう。間違いなんて起こりうるはずもなかった。だってあの時は、家に彼がいたのだから。


仕事が終わり、夕飯を買うべくいつものコンビニエンスストアに立ち寄った。梅とシーチキン、二つのおにぎりを手に取って会計を済ませる。いつもの気の抜けた声の店員が、いつも通りにバーコードを読み取っていく。

「レシートと15円のお返しです、ありがとうございました」
「ありがとうございます」
「……最近は、一人分なんですね」
「え?」

突然、店員に話しかけられて、思わず素っ頓狂な声を出した。今まで最低限の接客以外で話しかけられたことなんてなかったのに、どうして。

「弁当。しばらくずっと、二つ買ってませんでした」
「え、ああ……はい」

ああ、そうか、いつもここで二人分夕飯を買っていたから。今までおにぎりをいくつか買うだけだった客が、急に二人分の弁当を購入していくようになって、それからまた、おにぎりだけを買うようになって。どんな事情があるのか、興味を引くかもしれない。毎日のように通っていれば、店員側も常連の顔と買っていくものを覚えていてもなんら不思議ではなかった。

「ええと、実はしばらくルームシェアをしていたんですけど、最近、それを解消したので」
「へえ、そうだったんですか」

間違いではないけれど、当たり障りのないようぼかして伝える。ありのままを伝える気はなかったし、相手だって聞かされても困るだろう。

「おにぎりばっかよりは、まだ弁当のが栄養的にいいんじゃないかと思って安心してたんですけど」

おせっかいですかね、すみませんと詫びる彼に、「いえ、気にしないでください」と返す。名札に書かれた苗字と顔しか知らないアルバイトの彼に自分の身体の心配をされていたなんて、少しおかしくてふふふと笑ってしまった。


家に帰っておにぎりを口に運んでいると、固定電話に着信が入る。ナンバーディスプレイで実家からの電話であることを確認して、受話器を取った。寡黙な父から私に電話してくることはないから、十中八九、相手は母だろう。

「もしもし、お母さん? 急に電話なんてどうしたの」
「どうしたのって、あなたがこの間、料理教えてってメールしたんでしよう。どういう風の吹き回しかと思ったけど」
「え? あ、ああ……」

松野さんに美味しい手料理を食べさせてあげたいと思って、以前母に連絡したんだっけ。すっかり忘れていた。もう、教わる必要はなくなってしまったけれど、それを母に告げるのも面倒で、適当に会話を交わす。

「だから、仕事に夢中なのはいいけれどちゃんと家事もこなせるようにしなさいねって、母さん何度も言ったでしょう。いつか好い人が出来たときに美味しい料理作れなくて困るのはあなたなんだから、」
「もう、分かったってば……。今度また時間があるときに私から連絡するから。とりあえず今日は疲れてるから切っていい? 今仕事から帰ったばっかりなの」

小言が長くなりそうなので、通話を半ば無理やり終わらせて、ため息をついた。いつか好い人が出来たときに美味しい料理が作れなくて困るのはあなたなんだから。そう言った母の言葉が耳に痛い。すでに困っていたから母に頼ったのだけど、それでも、その人に料理を披露する機会はもうなくなってしまったのだから、これから教わる気はさらさらなかった。


翌日、パソコンの液晶とにらみ合い、ため息をつく。目がやけに乾燥する。目薬でも差そうかと鞄の中のポーチを漁ると、隣のデスクで軽快なタイピング音を響かせていた先輩が話しかけてきた。

「苗字さん、最近元気ないね」
「えっ……? そう見えますか?」
「うん、見える。ここ一週間かそこらくらいから、気分がどよーんってしてる。あと朝がやたら辛そう」
「す、すみません。仕事に差し支えていますか」
「まあ私くらいしか気が付いてないと思うけど。よーし今日は飲みに行くか!!」
「えっ」
「明日休みでしょー? いいじゃんいいじゃん、女二人で呑もう。先輩が奢ってあげるからさ」

業務が終わった後、先輩の行きつけだという居酒屋に行って、お酒と食事を嗜む。彼女はただひたすら、「この出汁巻き玉子が美味しい」「ここは芋焼酎にこだわっている」などと美味しいものを勧めてきた。最初から私の気晴らしをしてくれるつもりだったのだろう。何かあったのか、悩みがあるのかと聞かれるよりも、ずっとありがたくて、気が楽になった。
その後、ハイペースで焼酎を飲み干して酔ってしまった先輩を、タクシーで家まで送り届ける。

「先輩、マンション着きましたよ」
「んー、ありがと。苗字さん」
「いえ、こちらこそ今日はありがとうございました」

楽しそうにけらけら笑う先輩に礼を返す。仕事だって忙しいのに、就業後に後輩の気晴らしに付き合ってくれて、自分はよい先輩に恵まれたなと実感した。
千鳥足の先輩が無事オートロックの扉を抜けるのを目で確認した後、一息ついて自分の帰路を考える。たしかこのあたりから私の家までは三駅ほど先だったはずだ。歩けない距離じゃない。酔い覚ましにもちょうどいいし、歩いて帰ろう。

ぼんやりと夜道を一人歩く。冷たい夜風が少し火照った顔に心地良い。街灯がちかちかと点滅していた。暗闇に自分が吐いた息が白く光る。こんな時間に暗い道を歩いて帰ったら危ないじゃんと私を叱ってくれる人は、もういない。

昨日は、まるで周りが揃って彼のことを回想させるかのようだった。忘れたいのに、忘れられない。忘れさせてもらえない。けれどもしかしたら心の奥底では、忘れたくないのかもしれない。忘れた方が楽になれることは、分かり切っているのに。
大丈夫、失恋の痛みは時間が癒してくれるはずだ。一年前だってそうだったじゃないか。あんなに辛かったのに、もう過去の話に出来ていた。だからきっと、辛いのは今だけ。時が経てば、この痛みもきっと忘れられる。
自分にそう言い聞かせて、交差点から一歩踏み出そうとしたその時。

「おい、あんた危ないぞ!」

腕を取られ、がくんと後ろへ引っ張られた。目の前をスピードの出た自動車が走っていく。信号無視の車に気がつかなかった。ぽかんと口を開けて、自動車が走り去った方向を眺める。危ないなあ。ぼんやりしていた私も悪かったけれど、そっちは赤信号なのに。

「だ、大丈夫か?」

すっかり頭が回らず忘れていた、後ろの低い声の持ち主が、返事のない私の顔を心配げに覗き込む。
危うく轢かれていたところを助けてくれた彼を見て、思わず息を飲んだ。

「……え、?」

さっきまで脳裏に浮かべていた松野さんの顔が、そこにあった。