小説
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ごめん、ありがとう



私は、仕事帰りのその足で以前訪れたおでん屋台の元へ来ていた。
外から様子を伺うと、他の客はいないようで、赤い暖簾をめくると一人おでんの様子を見ていた店主と目が合う。

「らっしゃい! あ、あんた……!」
「あの、あのときは、せっかく誘っていただいたのに、ごめんなさい。今日はゆっくり食べていこうと思って寄ったんですけど」

そう声をかけると、店主はニッと笑って座ることを促す。

「あ、そういや一緒に住んでる奴がいるって言ってなかったか? そいつぁいいのか」
「はい。今日はその人、帰りが遅くなるそうなので、一人です」

鞄を置き、椅子の端に座る。木で出来たそれが、体重のせいでぎしりと音を立てた。目の前の業務用の鍋から漂う美味しそうな出汁の香りが、鼻孔をくすぐった。何を食べるか聞かれたので、大根とがんもどき、それから白滝をお願いする。

「なんか飲むか?」
「ああ、ええと、ノンアルコールって何かありますか?」
「烏龍茶ならあるぜ」
「それでお願いします」

一人でいるときにお酒を飲んで、もし悪酔いしたら松野さんに怒られてしまう。何より、今日はただおでんを食べに来たわけではないのだから。
ちらりと目を脇に逸らして屋台の壁をうかがうと、以前と同じ場所にあの張り紙は鎮座していた。短くはない時間そこに張られていたであろうそれは、少し茶色く変色していて、彼の家族が今も探し続けていることを示唆していた。

ぼうっとそこを見ていたけれど、店主がウーロン茶の瓶とコップ、それからおでんの乗った皿を目の前に差し出してくれたのでそこでいったん思考は中断された。
以前は食べることのかなわなかったそれは、温かく出汁が良く染み込んでいて美味しい。大根を噛みしめるたびに、ほわりと口から湯気が漏れる。彼も、この店でこんな風におでんを食べたことがあるのだろうか。彼の家族と、一緒に。

「……あの、」

たった今気がついたみたいな顔で、何となく気になったような口ぶりで声を出す。
口の中はカラカラで、温かいおでんを食べているのになぜだか寒気がして、それなのに汗もじんわり浮かんでいて、身体中が、自分が緊張しているのだと示している。

「あの、この張り紙の探し人って、お知り合いですか」

店主はその張り紙に視線を向け、口を開いた。

「ああ、あれな。オイラの腐れ縁の昔なじみでもあるんだけどよ。そいつら六つ子でさあ、一番上のやつが数ヶ月前に家を出てっちまったらしいんだよなあ」
「六つ子……」

五人の弟がいるとは聞いていたけれど、六つ子だったのか。六人同時に生まれたという非日常な言葉に、目を見張った。
六つ子の、長男。想像でしかないけれど、もしかしたら彼のあの面倒見の良さは、生まれてからずっと弟の前で兄としてあれと生きてきたからなのかもしれない。甘やかすのが得意だと、家に来たばかりのころ、彼がそう言っていたのをふと思い出す。ともに腹で育ち生まれた六つ子ともなれば、ただの六人兄弟よりもずっとお互いを大切にしていることだろう。私は、彼の弟たちから、唯一無二の兄を奪っていたのだ。

「なんでも弟たちと喧嘩して、家出したらしいんだよ。オイラんとこにも来て泊めろって言うから、馬鹿言うんじゃねえって追い返したんだけど、それ以来どこへ行ったやら」

家出したというのは知っていた。彼が家にきたばかりのときに、本人の口から聞いた話だ。嫌になって出てきちゃった、なんて軽い口ぶりで話していた彼は、きっと軽い気持ちだったのだろう。弟に心配をかけるつもりなんかなくて、ただ、勢いで家を出たところに、都合よく住居を提供してくれる相手が見つかったから、それに乗っただけ。それが容易く推測できる程度には、彼のことを知ってしまっていた。
口が渇いて、声が出ない。コップに入った烏龍茶をあおり、喉を湿らせる。

「大事な弟たちに心配かけてよぉ、長男の名が泣くぜ」
「……今も、弟さんたちはその人を探しているんですね」
「ああ。もうあいつがいなくなって何ヶ月になるかなあ。もうあいつらどんどん弱ってってよぉ、見てらんねえんだよな」
「…………」
「オイラも、あいつらには迷惑ばっかかけられてたけど、やっぱり六つ同じ顔が揃ってないと落ち着かないっていうか、」

もう十分だった。覚悟は、決まった。

「その人、きっと、すごく色んな人に好かれているんでしょうね」

松野さんを、家に帰してあげなくちゃいけない。弟たちのもとに、本来いるべき場所に、彼はいなければいけない。

「私、そろそろ帰ります。ごちそうさまでした」
「おう、またいつでも来いよ」

会計を済ませて、立ち上がる。きっと、もうここには来ないだろうと思いながらも、曖昧に微笑みを返した。

  ◇

玄関の電気を点けて、チェーンをかけずに彼の帰りを待つ。早朝に帰ると言っていた。きっと疲れ果てて帰ってくるんだろう。
一人では静かなこの部屋には、彼のものがあふれていた。数か月前まで殺風景だったこの家には、すっかり彼の存在が染みついている。
私は彼のソファベッドで丸くなっていた。目を閉じて彼の毛布にくるまっていると、まるで彼に抱きしめられているような錯覚に陥る。
彼の帰りを待つ時間は、短いようにも長いようにも感じた。このままずっと彼が帰ってこなければいい。そうしたら、私は彼の存在が刻まれたこの部屋で、ずっと彼の帰りを待っていられるのに。そんな馬鹿らしい幻想を抱いてしまう。

玄関の錠が合鍵によって開けられる音が耳に届いた。ああ、ついに帰ってきてしまった。待ち遠しいようで、ずっと訪れてほしくなかった彼の帰宅が、廊下から聞こえる足音によって告げられる。

「おかえりなさい、松野さん」

居間の扉を開けた彼に、そう声をかける。彼に言ってもらうことは数え切れないほど経験したけれど、私が彼にこの言葉を言ったのは数えるほどだった。驚いた顔を見せる彼が、やけにおかしく感じて笑ってしまいそうだ。緊張のし過ぎで笑いそうになることって、本当にあるんだなあと、まるで人ごとのようにそう思った。

「えっ、名前ちゃん起きてたの!? 今日仕事は、」
「行きますよ。仮眠はとりましたから大丈夫です」

上着を脱いでハンガーにかける彼の後ろ姿を眺めながら、重たい口を開く。

「ねえ、松野さん。話があるんです」
「話? 何、どうしたの、改まって」

喉が異常にひりつく。鼓動がどくりどくりと響いて煩わしい。掌が汗ばんで気持ち悪い。口を開いては閉じを繰り返す。目の前の彼はただ黙って私を見つめ、話し出すのを待っている。彼の、こういう優しいところが、大好きだった。でも、ああ、私は、言わなくちゃいけない。

「松野さん、この家を、出ていってもらえませんか」
「……は?」
「急で申し訳ないですけど、必要なら、数日分のお金は渡しますし、」
「え? いや、いやちょっと待ってよ名前ちゃん。急に何言ってんの? 俺なんかした? 怒ってる?」
「……怒っているとかそういうのじゃ、なくて、」

口ごもっていると、彼が苛立ちを隠そうともせず、後ろ髪をがしがしと無造作に掻き散らす。彼の苛立ちの原因は、対象は、まぎれもなく私だ。彼が私に対しここまで苛立ちを露わにするのは初めてで、思わず怖気づく。

「あー……、あのさ、もしかして本当は、昨日の、聞こえてたんだ?」
「…………ぁ、」

予想外の方向から話を振られて、思わず声が漏れる。彼はそれを、肯定と受け取ったようだった。

「…………。あー、うん。そういうことね。おっけー、分かった分かった。気持ち悪いもんな、自分に惚れてる男とおんなじ屋根の下とか、暮らしてらんないよな。ごめんごめん」

松野さんが勘違いをしていることは分かったけれど、それを今否定したら話が拗れてしまう。この想いは、伝えるべきものじゃない。彼のためにも、彼の家族のためにも、勿論、私のためにも。否定せずに俯いていると、深い溜め息が聞こえてきた。

「……今日、名前ちゃんが仕事行ってる間に出てくよ。荷物とか、全部片づける。合鍵はポストん中入れておくから。それでいいよね」
「……はい」

彼は黙って戸棚からゴミ袋を出し、自分の衣類を無造作に詰め込んでいく。「仕事の準備したら」と声をかけられ、その姿を見ていることすらも許されなかった。

支度をして、玄関に立つ。彼の見送りなしで家を出るのがやけに寂しくて、自分で決めたことなのに、思わず鼻の奥がツンとした。今の私には、泣く権利なんかありもしない。ただ、黙って家を出た。いってきますの声は、上げなかった。

  ◇

仕事帰りにマンションのゴミ捨て場を覗くと、彼の私物が全てゴミ袋にまとめられて、そこにあった。この場所で彼を拾ったときは、こんなに彼が大きな存在になるだなんて、思ってもみなかったのに。
衣類から陶器までまとめて詰め込まれたそれは、きっと業者も回収してくれないことだろう。一度私が家に持ち帰って分別しようと持ち帰る。感傷にも浸らせてもらえない。

玄関を開け、ただいま帰りましたと思わず言いかけて、口を閉じる。もう、それに答えてくれる人はこの部屋にいないのだ。今朝、私が一方的に傷つけて、追い出したのだから。ポストから合鍵を取り出す。冷えた小さな金属が、掌の熱を奪う。
ゴミ袋から彼の衣類を取り出すと、ふわりと彼の匂いが広がった。ほんの一日前までそばにあった香りなのに、やけに懐かしく感じられる。
洋服、食器、入っていたものをすべて取り出し、分別を終えてから、空になった袋にぐしゃぐしゃに丸められた紙きれが残っていることに気が付いた。彼が今朝出したゴミ袋だから、生活ごみは混ざっていないはずなのに、どうして。
袋から取り出して、手に取る。何か文字が書かれているようだった。紙を広げて、確認する。
文字を読んで、目を見開いて、思わず涙がこぼれた。見なければよかった、そう後悔した。彼がこれを書いて、それからぐしゃぐしゃに丸めて捨てた様子が、目に浮かぶようだった。こんなものを部屋に残されていたら、きっと私は彼をずっと忘れられなくなってしまう。


『ごめん、ありがとう。名前ちゃんのこと大好きだったよ』