仕事から帰り、自宅の玄関を開ける。いつものように、居間からひょこりと顔を出して松野さんが出迎えた。
「ただいま帰りました」
「おかえり。名前ちゃん今日の飯なあにー?」
「今日、コンビニのお弁当全部売り切れていたんですよ。今から作るのも面倒だし、出前でも取ろうかなって思っているんですけど」
「お、たまにはそういうのもいいね。俺寿司かピザがいいな」
彼の言葉を受けて、出前の広告を探す。たしか広告は、まとめて電話台のところに置いていたはずだ。無造作に置かれたダイレクトメールやチラシの束から目当てのものを探す。最近忙しいから放っておいていたけれど、掃除しなくちゃいけないなあ。急いで目を通す必要があるもの以外はここに置きっぱなしだ。
目当ての広告をようやく見つけて、後ろでわくわくしながら待機している彼に渡す。
「松野さんが好きなものでいいですよ」
「やった。どーしよっかなあ、名前ちゃんの金だと高いのも頼めるからいいよね、へへ」
「限度は考えてくださいよ? 私、お風呂入れてきますから」
そう言って風呂場へ行こうとしたとき、携帯電話から着信音が響いた。ナンバーディスプレイを確認したけれど、登録されていない番号だ。非通知ではなかったので、少し訝しみながらも電話に出る。
「はい。苗字ですが……」
「あ、あの、俺です。佐藤、です」
「……!」
「良かった、出てくれて……。もう、着信拒否されてるかと思ってた」
「……何か用事?」
「この間バーで会ったときさ、名前が忘れ物してたみたいで、知り合いだからって店に言って預かったんだ。今家にいる?」
「家だけど……? 忘れ物って」
「イヤホン。白くてカナル型の、イヤーピースはグレーのやつなんだけど、違う?」
「……私のだと思う」
鞄を漁ってみると、確かにポケットに入れていたはずが見つからなかった。財布を取り出したときに落としたのかもしれない。あの日忘れていたのか、今まで気が付かなかった。
イヤホンか。会いたくないからという理由で捨てていいよと諦めるのは微妙に躊躇われる。
「届けた方がいいかと思って、今、名前の家の近くまで来てる。……去年と、変わってなければだけど」
「はあ?」
「引っ越してないなら、もうすぐ着くんだけど」
何それ。家まで届けにくるって。そんな、困る。
松野さんは通話をしている私を不思議そうに見ている。「どうしたの、仕事でトラブル起きた?」と小声で訪ねてくるので、無言で首を横に振る。
「ちょっと待って。家に来るのは、」
やめてほしい。そう言いかけた声を遮る、インターホンの音。
ああ。昔は彼の行動力があって強引なところに惹かれていたけれど、今となってはその行動力がひどく憎い。
松野さんが俺出てくるよなんて言って、モニターを見て固まる。私にはもう、携帯電話を持つ反対の手で頭を抱えることしかできなかった。
「……あの、名前ちゃん」
「……この間松野さんとバーに行ったとき、私忘れ物をしたみたいで」
「それを、家まで届けに来たって?」
無言で頷くと、松野さんは不機嫌そうに顔をしかめる。そんな顔をされたって、私だってこんなの、望んでないです。そりゃあ松野さんからしたら、自分の生活スペースに同居者の知人が突然訪れていい気分はしないだろうけど、当の私だって招いてない客だ。
家にいることはもう自己申告してしまったし、居留守は使えない。観念して玄関へと足を進める。扉を開けて廊下に出ると、少し肌寒い空気が肌を撫でた。大丈夫だ、少し気まずいし憂鬱だけど、イヤホンを受け取ってありがとうってお礼を伝えてそれでおしまい。
ため息をつきながらつっかけを履こうとして、不意に、後ろからがくんと腕を引かれた。思わずバランスを崩した身体が、松野さんの胸に受け止められる。
「え、松野さん?」
「俺が出る」
「え、どうして」
「別にいいじゃん。忘れ物受け取るだけでしょ」
彼は半ば無理やり私の前に出て玄関の扉を開けた。扉の向こうには当たり前だけれど佐藤くんがいて、彼は少し驚きながらも松野さんの肩越しに私と目を合わせた。
「夜分遅くにどうもー」
「え、あ、どうも。あ、あの……?」
「忘れ物は?」
「あ、ああ。これです」
「はいどうも。ん」
松野さんは振り返って私にイヤホンを差し出した。それを両手で受け取る。たしかに私のものだった。
「それじゃあわざわざ家まで届けてくれてありがとうございましたー。ご苦労様でーす」
「名前、この人と一緒に住んでるの?」
「…………」
「……そうだけど」
話を終わらせドアを閉めようとする松野さんの動きを遮って、佐藤くんが問うてくる。それに答えれば、聞いた彼はふうんとつまらなそうな声をあげた。
「あのさ、名前と二人きりで話がしたいんだけど」
「え……。そんなこと言われても、困るよ。もう帰って」
「少しだけでいいんだ、出てこられない?」
困ったように松野さんの顔を伺えば、「なんで俺の顔見るの、名前ちゃんの好きなようにしなよ」と笑われた。止めてほしかったと思ってしまうのは、贅沢だろうか。恋人でもないのに、烏滸がましい願いだっただろうか。彼に止めてもらえるような、そんな立場でもないくせに。
「わかった。松野さん、営業時間終わっちゃうからご飯頼んでしまってください。先に食べていていいですから」
◇
結局、佐藤くんと二人きりでファミレスに来ていた。24時間営業のそこは、もう夕飯には遅い時間だからか、客もまばらで店員も数人しかいないようだった。長居するつもりもないけれど何か頼まなくてはと思って、ドリンクバーを注文する。
「それで、何。私たちの間にもう、話なんてないでしょ」
随分と嫌味な言い方をしてしまったけれど、彼との別れを考えたらもう仕方ないことだ。私は一人で生きていけるだろうと言われ振られた女で、彼は一人で生きているだろうと言って振った男だった。それでも、別にもう恨んでいるわけでも未練があるわけでもない。思い出として昇華できているのだ。だからと言って、今更懐かしいねなんて彼と思い出話をする気はない。
「……あのときは、本当にごめん」
「べつにもういいよ、私にも非はあったし。話はそれだけ?」
「もう一度、やり直したい」
「無理」
今更何を言っているんだ。どうせ独り身の時に偶然元カノに再会して元鞘に戻れないかと軽い期待を抱いただけでしょう。
一言で切り捨てれば、結果は予想していたようで、そっかと小さく笑われた。
「……あの人と、一緒に住んでるんだ」
「そうだよ、さっき答えたでしょ」
「付き合ってるの?」
「……そういうわけじゃ、ないけど」
「恋人では、ないんだ。名前は、あの人のこと好きなの?」
「……そうだよ。さっきから何なの」
「あの人の名前、松野って言うんだろ」
「……なんで知って、」
「行方不明だって、貼紙を見たことがある」
全身が凍りつく。心臓だけが、どくんと大きく脈打っていた。
それは、考えないようにしていたことだった。目を逸らしていたことだった。忘れようとしていたことだった。自分可愛さに、無かったことにしようとしていたことだった。
「あの人、帰る家があるんだよな」
やめて。やめて、それ以上、どうか言わないで。
「どんな成り行きで一緒に住んでるかは知らないけど、そんな人との生活がこれからも平穏に続くわけない」
「名前、前はそんな無責任な、考えなしなことするような人じゃなかった。もっとしっかりして自立した、」
「そんな女が嫌だって言って捨てたくせに、ずいぶん偉そうなこと言うんだね」
声が震えた。こんな声じゃ、強がっているのがばればれだ。
「……帰る」
これ以上、何も聞きたくなかった。松野さんの声が、聞きたかった。
◇
「おかえり」
「……ただいま、帰りました」
「風呂、お湯張ったけど、先に入っちゃう?」
「はい」
松野さんは、何も訊かなかった。それに対して、ほっとしているようで、少し拍子抜けもした。私は、彼に訊かれたかったのだろうか。あいつと何の話をしていたんだと、問い詰められたかったのだろうか。
風呂を出て、バスタオルをかぶったまま、ドライヤー片手に居間へ戻る。髪から垂れた雫がパジャマの肩に落ちて、湿った。居間では、松野さんがソファに寝転がってテレビをぼんやりと見ていた。
「……あれ、どうしたの。いつもあっちで頭乾かしてから来るじゃん」
「ああ、ええと……、寒かったから、こっちで乾かそうと思って」
松野さんと目が合って、先ほどファミレスでの会話を思い出す。思わず、目を逸らした。もしかしたら、ずいぶん感じの悪い態度をとったように見えたかもしれない。
「そっか。ピザあるけど食べる?」
「あー……朝食べます。お風呂入ったら、食欲なくなっちゃった」
「ん、分かった」
ソファに座って、ふうと息をつく。隣に座る彼の顔が見られない。彼の顔を見たら、またあの時のように泣きそうになってしまうかもしれない。
「髪の毛、乾かしてあげよっか」
「え?」
「それ、貸して」
手に持っていたドライヤーを半ば強引奪われ、彼の手の中で電源が入れられた。無言で髪をかき混ぜられ、熱風を当てられる。手の動きが雑で少し痛かったけれど、何も言わずに甘えることにした。
彼の骨ばった手が、耳や首筋に触れた。ドライヤーを使うことに慣れていないのか、松野さんは髪の先ばかり乾かしている。
「……名前ちゃんあのさ、俺ね」
「はい?」
熱風が耳にかかって熱い。髪の毛を、彼の手が乱暴に撫でくりまわしている。ドライヤーの音が、ごうごうと耳元で騒がしかった。
「 」
「……? ごめんなさい、ドライヤーうるさくて……。今なんて言いました?」
「俺、明日深夜バイト入れたから、帰るの早朝になるよーって話」
「ああ、はい。分かりました。明日は何ですか、交通整理?工事現場?」
「なんかね、倉庫整理みたいなやつ。日給で選んだから詳しくは知らないけど」
「ふうん、頑張ってくださいね」
「だから明日は先に寝ててね。……ん、乾いたよ」
「ありがとうございます」
「もう寝る?」
「はい、おやすみなさい」
本当は表面しか乾いてなくて根元の方は生乾きだったけれど、私は何も言わずに一人、部屋に戻った。
彼が言った言葉、本当は聞こえていた。聞き逃すはずがなかった。
だけど、その言葉を受け入れてしまったら、今の日常のすべてが崩れてしまう気がした。私にはまだそれを壊す勇気がなくて、怖くて、怯えて、怖気づいてしまったから。だから、彼が出した勇気を踏みにじった。
ごめんなさい。声にならない声が、唇から漏れる。
扉の向こうの彼が、今どんな顔をしているかは、分からなかった。