小説
- ナノ -




言いたくないなら別にいいや



ああ、これは、酔ってしまった。
会社の接待で、酒を飲んだ。事前に松野さんには、「仕事なら仕方ないけど、くれぐれも飲みすぎないこと」ときつく言い含められている。

先方のタクシーを見送ったあと、駅で先輩と別れる。張っていた気が途端に緩んで、一斉に酔いが回ってくるような感覚がした。泥酔とまではいかないけれど、慣れない日本酒や焼酎を飲んで、それなりに酔っている自覚はある。
こんなに酔っ払って、なんて、松野さんに怒られちゃうかな。でもこれは仕方ないんです、だって飲み慣れてないお酒だったし、何より仕事だもの。彼もきっと、いつものように呆れて笑って許してくれるはずだ。

冬の冷たい風が、少し火照った顔に当たって気持ちいい。駅前のベンチに座って少しだけ休んでいこうかな。
自動販売機でホットレモネードを買って一息ついていると、鞄に入った携帯電話から着信音が鳴る。発信元も確認せずに適当に画面に触れて、耳に携帯を当てた。

「……はい、苗字です」
「あ、名前ちゃん。もう終わったんでしょ?お疲れさま。どう、大丈夫?」
「松野さん。ううんと、ちょっとだけ、酔ってます」
「だろうねー、声がなんとなく酔ってるもん。今から迎え行くからさ、どっか暖かいとこ入って待ってて。今は駅にいんの?何駅?」

松野さんが迎えに来てくれるんだ。なんだか得した気分になる。
現在地を告げようと口を開いて、少し考えこむ。普段、彼と外を歩く機会は少ない。せっかくこちらへ出向いてもらうんだったら、そのまま一緒に居酒屋でも行くのはどうだろう。良いことを思いついたとばかりに頬が緩む。

「ねえ松野さん、今から一緒に飲みましょうよ」
「はあ? 名前ちゃん明日も仕事あるでしょ。朝辛くなるよ?」
「さっき先輩が、明日の午前中は有給半分使って休んじゃおうねって、上に連絡を」
「んー……、会社の仕組みとか俺よく分かんないけど、とりあえず明日は遅いってこと?」
「そういうことです。だから、迎えに来るついでに、一緒に飲みましょうよ、ね?」

松野さんがいれば、たくさん飲んでも心配ない。流石に、前後不覚になるまで酔う気はないけれど、それでも1人で飲むよりずっと気楽だ。それに取引先との会食だと、緊張でお酒の味も楽しめなかったし好きなお酒も飲めないし、せっかく酔ったのに損をした気分というか、なんというか。
自分の中で言い訳はたくさん思いつくけれど、ただ、彼と外で待ち合わせをして、デートの真似事をしてみたい。それだけだった。素面だったらきっとこんなこと提案出来なかったけれど、今の私はほろ酔い状態。アルコール様々だ。酔っているから、こんなおねだりだって出来てしまう。

  ◇

「ふふ、松野さんと外で一緒にお酒飲むのなんて、初めてでどきどきします」
「いつもは家でビールと酎ハイだもんなー。名前ちゃん普段こういうところで飲んでんだね」
「いえ、私もそんなに来たことはないんです。友達と飲むときに使ったことがあるだけで」

1度だけ友人と訪れたことのある小洒落たダイニングバーを訪れる。入口から入ってすぐのカウンター席を案内され、並んで座った。
肩が触れ合うほど近い隣の椅子に座る松野さんは、メニューを楽しそうに見ている。普段家にいるときはもっと近くにいるくせに、いつもと違う場所にいるせいかなんだか意識してしまう。
私はブランデーとベルモットのカクテルを、彼はオランダの黒ビールと生ハムの盛り合わせを注文した。二人で控えめにグラスを持ち上げて、目と目を合わせる。乾杯、と普段よりも小さく低い声で囁いてこちらを見つめる彼の姿に、思わず顔に熱が集まった。バーの照明が暗くてよかった。こんな顔、明るい場所で見られたら恥ずかしくて死んでしまう。

「名前ちゃん、顔少し赤いね」
「……日本酒とか、慣れないお酒を飲んだので、そのせいだと思います」
「そっか。会食だったんでしょ?何か美味しいもの食べられた?」
「緊張であんまり味が分からなくて……。あ、でも天ぷらが美味しかったです。松野さんにも食べさせてあげたかった」

松野さんはしきりにグラスを傾けてビールを喉に流し込んでいく。折角なんだから、もっと味わって、ゆっくり飲んだらいいのに。

「私もそれ、飲んでみたいです」
「ん、いーよ。そっちも一口」

グラスを交換して、松野さんが頼んだ黒ビールを一口もらう。想像していたよりも苦みが少なくて飲みやすかった。彼の目の前に置かれたビール瓶のラベルは、たしか彼が好きだと言っていたビール会社のものだ。今度駅ビルの中のスーパーでお土産に買っていったら、喜んでくれるだろうか。

「このカクテル、オレンジっぽい匂いがする」
「たしかね、オレンジキュラソーが入っているんです、このお酒」

そのあともつまみや酒を注文して談笑したけれど、三杯目を頼もうとしようとすると「そろそろおしまい」と窘められてしまった。彼がバーテンダーに水を頼み、無言で私の前に置く。飲み過ぎた、かなあ。反省しながら水をちびりちびりと飲む。冷たくておいしい。

「そろそろ出ます?」
「そうだね。俺ちょっとトイレ」
「じゃあ、その間に会計済ませておきますね」
「頼んだー」

ひらひらと手を振ってお手洗いへ向かう彼を見送ったあと、バーのマスターに代金を手渡し、コートを着るべく立ち上がる。急に立ち上がったからだろうか。くらりと、立ちくらみに襲われる。あ、やばい。
よろけそうになった私の背中を、突然、誰かの手が支えた。たった今来店した人が、とっさに後ろから手を伸ばしてくれたようだ。

「ご、ごめんなさい」
「……名前?」

振り向きながら謝ると、聞いたことのある声で名前を呼ばれる。

「……佐藤、くん?」

1年前に別れた、かつての恋人の姿がそこにあった。
数秒前まで、アルコールでふわふわと宙に浮いているような感覚だったのに、一瞬で冷水を頭から浴びせられたかのような気分になる。

「……ぐ、偶然だね。久しぶり」
「うん、久しぶり。……1年ぶりかな」
「そう、だね」

1年前に振られちゃったからね。
お互いの間に気まずい空気が流れる。様子を伺えば、あちらも、きまりの悪そうな表情をしていた。どうしようと思考を巡らせていると、背中にまだ彼の手が触れていることに気が付く。

「あ、ええと、支えてくれてありがとう。もう、大丈夫」
「あ、うん」
「…………」
「ひ、一人で飲んでたの?」
「あ、ううん、」

連れの人が今お手洗いに、そう言おうとしたとき、松野さんがトイレから戻ってきた。なんてタイミングの良い。ううん、どちらかというと悪かったと言うべきかもしれない。

「名前ちゃん、どうしたの?……だれ?その男」
「名前、この人は……?」

松野さんと佐藤くんが、私を挟んでお互い立ったまま視線を合わせて黙り込む。
なんだこれ。なんだこれ。一人の女を挟んで二人の男がにらみ合う、まるで修羅場のようなシチュエーション。生まれてこのかた、こんな状況に陥ったことがないから戸惑ってしまう。だけど悲しいことに、この状況を立て直すことが出来るのは、この場にいる人間でただ一人、私だけだった。

「あの、私、彼と、一緒だから。もう帰るところなの」
「あ、ああ。そうなんだ。邪魔しちゃってごめん」
「ううん。……え、えっと、さよなら」
「……うん、それじゃ」


歯切れの悪い別れをして店を出たあと、松野さんと二人で路肩のタクシーに乗り込む。その間、会話はなかった。
後部座席に二人、並んで座る。さきほどまで座っていたカウンターよりも、距離が少し遠い。松野さんは、ずっと窓の外を見ている。

「あれ、知り合いなの?」
「…………、」

突然の問いに、思わず口ごもる。関係を隠すのも変だし、だからと言って元彼ですと何でもないように告げるのもおかしな気がした。とりあえず何か答えないと、そう思って口を開いたタイミングで、彼が遮る。

「あー、ごめん。言いたくないなら別にいいや」
「……いえ。……その、ただ、前付き合っていた人です」

「……ふうん」

彼が、息を吐き捨てるように言ったその声が、静かなタクシーの中で、妙に響いた。