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笑わせてあげようと思って



松野さんを探す張り紙を見かけてから数日経ったけれど、私はやっぱり彼にそれを告げずにいた。ずるいことは分かっているけれど、私は結局自分が可愛かったのだ。私は何も見なかった、そういうことにしてしまえばいい。そうすれば、これからもこの平穏が続くのだから。

ソファに並んで座ってテレビを見ている松野さんの横顔を見る。ぽかんと口を開けて、何も考えていないような、そんな顔をしている。あほ面だなあと思った。でも、それが愛しいと思ってしまえて、なんだか悔しい。
私はきっと、松野さんのことが好きだ。多分、どうしようもないくらいに。

松野さんって、どうしてわざわざ深夜にグルメ番組見るんだろう。前もこういうのを見て、餃子が食べたいなんて言い出していたなあ。
テレビの中では笑顔の可愛い女子アナウンサーが、料理下手でも簡単白菜ベーコン鍋の作り方を紹介していた。これが食べたいのかな。テレビに移した視線を戻して、もう一度松野さんの顔を見てみると、やっぱり無表情だった。……もしかしてテレビ観てないんだろうか。

「……あのさ、名前ちゃん」
「はい?」
「そんなに見つめられてると、流石に照れるんだけど……」

彼はそう言って、鼻の下を指でこする。それは彼が恥ずかしいときの癖だった。

「……私、さっきからそんなに見てました?」
「うん」
「……ごめん、なさい」

恥ずかしい。見ていたことを本人に指摘されるなんて。ぼうっとしていたから、気が付かれていないものだと思っていた。

「いや、別にいいんだけどさ」
「はい……」
「あ、あー……。そういや名前ちゃんってさ、料理そこまで好きじゃないよね?」

流れを変えるように、彼が話題を変更する。
彼の言う通り、私は料理が好きじゃないし得意でもない。一応食べられるものは作れるものの、すごく美味しいってほどのものは作れない。正直松野さんが来るまで自炊はしない方だったし、胃袋で男の心を掴むなんて言葉とは縁遠い場所にいた。

「あー、まあ、はい」
「……あ、ごめん、気にしてた?」
「いや、あの、今まではそんなに、気にしてなかったんですけど……」

自分で作って自分で食べる分には、力不足が原因だしもうどうしようもないことだと諦めていたけれど。料理を毎日食べてもらってる人に面と向かって言われると、ぐさっとダメージが来る。何より、母親の味が恋しいなんて言ってふらっと家に帰ってしまうんじゃないかと考えてしまって落ち込んでしまった。……今度母さんに電話して、ちゃんと料理教えてもらおうかなあ。

「いや、そこはほら、『じゃあ自分で作れよ』くらいで返してくれていいんだけど」

この間までの私なら、多分そう返していたと思う。「そんなこというなら自分で作ってくださいよ」と、軽口を叩いていた。松野さんもそんな軽薄なやり取りを期待して話を振ってくれたんだと思う。
でも駄目だった。あれ以来、どうにもぎくしゃくしてしまう。今までみたいに接したいのに、上手く振舞えない。私、この間までどんな風に松野さんとおしゃべりしていたんだっけ。

「あー……、なんかごめんね」
「いえ、私こそ、ごめんなさい」
「……」
「……」

思わず2人して黙りこむ。部屋の空気が落ち込んでいく気がした。
沈黙が満ちる部屋でため息をついた、その時。

「っ、ひゃっ!?」

脇腹を、くすぐられた。犯人なんて1人しかいない。隣で素知らぬ顔をしてとぼけている彼を睨みつける。とてもさっきまで気まずそうな顔をしていたとは思えない。

「あれ?どうしたの、名前ちゃん」
「ひっ、やっ、無理無理、むり!!」

知らん顔しながらも、手はがっちりと私の脇腹を掴んでいる。くすぐったくて思わず身体をよじらせて笑う。なに、何なの急に。

「ひっ、ひゃっ、やっ、くすぐった、ふふ、やだやだ、やめてください!何するんですか!」

くすぐる手からどうにか逃れたくて、脚をバタバタとさせたり手で松野さんを押し退けようとしたりするけれど、力が入らず効果はまったくなかった。抵抗している間も彼の猛追は止まらない。脇腹から脇の下、膝裏まで手が伸びてきた。目の前の彼はひどく楽しそうににたにたと笑っていて、止めてくれる気はどうやら無いらしい。生理的な笑いと涙がこみ上げてきて、呼吸が苦しくなる。思わず笑い過ぎて咳をすると、焦ったように手が留まった。咳き込みながら睨み付けると、嬉しそうに歯を見せて彼は笑う。

「ようやく笑った」
「……え?」
「こないだっからずっと名前ちゃん浮かない顔してんだもん。だから笑わせてあげようと思って」

そう言って彼はにかっと笑いながら両手をわきわきと構える。私のことを心配してくれたのが嬉しくて、少し顔が熱くなった。

「心配、してくれたんですね」

ありがとうございます、そう続けながらにっこり笑って、

「お礼に、松野さんも笑わせてあげますね」

彼の脇腹に手を添える。彼の笑顔が途端に固まった。心配してくれたのは素直に嬉しいけれど、一回は一回だ。

このあと2人で少しヒートアップしすぎて、若干、いやかなり後悔したけれど、そこは略筆させてほしい。