小説
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どこにもいかないって



随分とでかい音が聞こえて、どうした転んだかと思いながら玄関へと続く廊下へ出る。
ドアのすぐそばでしゃがみ込んでいる名前ちゃんが目に入った。

「名前ちゃん?おかえり、そんなバタバタ帰ってきてどうしたの」

返事は返ってこなかった。ひどく息を荒くして、ぜえぜえげほげほと咳き込んでいる。走ってきたのかもしれない。

「……なんかあった?」
「なんでも、ないです」

なんでもないわけないじゃん、そんな青褪めた顔して。身体を丸めて小さくなっているのを見下ろす。何かに、怯えているみたいな、そんな様子だった。もしかして、何か怖いことがあったのかもしれない。変質者やら、痴漢やら、嫌な想像をして思わず顔が強張る。

「もしかして変なやつに尾けてこられた?会社でやなことあった?」
「だ、大丈夫、です」

何言ってんだよ、全然大丈夫な声じゃないから聞いてんだっつーの。何かあったのは明白だ。なんで話してくれないわけ、なあ、俺は頼りにならないの。

名前ちゃんの目の前にしゃがみこむと、彼女がぴくりと震えたのが分かった。俯いた彼女の頬に右手を添えて、無理矢理視線を合わせる。俺の顔を見た途端、ひどく泣きそうな顔をされて、思わず何かしてしまったかと不安になるが、心当たりはない。名前ちゃんは、不安気で、今にも崩れてしまうんじゃないかってくらい弱々しい顔をしていた。今にも雫が零れ落ちそうに潤んだ瞳は、俺の目をじっと見つめている。そんな様子で、何が大丈夫だっていうんだよ。

「じゃあなんで泣いてんの」

彼女の瞳からはらりと落ちた涙を親指で拭う。ガキのとき、あいつらが泣いたらいつも鼻水と涙を袖で乱暴にぬぐっていたけれど、女の子相手だとそういう訳にもいかない。

「松野さん」
「うん」

どうしたの。何があったんだよ。

「だきしめても、いいですか」

そんなことでいいんだったらいくらでもするよ、何だってするよ。
目の前の小さい体を抱きしめると、思った以上に細く弱々しくて、力一杯抱きしめたらぼろぼろに砕けちゃうんじゃないかとさえ思えてしまう。痛くしてしまったかもしれないと思って少し力を緩めると、名前ちゃんが俺の背中に手を回して、縋るようにパーカーをつかんだ。さっきまで外にいた名前ちゃんの身体はすごく冷えていて、室内にいた俺の体温を奪われるような感覚がする。背中をとんとんとあやすように叩くと、彼女が俺の胸に顔を埋めた。ぐっと顔を押し付けるようにしている。

俺さあ、多分名前ちゃんが好きだよ。
頼ってくれるのが、甘えてくれるのが、弱っている姿を見せてくれるのが、こんなにも嬉しい。女の子が弱っている姿を見て、思わず喜んでしまう俺は、家を出ようが出まいが、弟がそばにいようがいまいが、変わらずクズだった。笑ってしまうくらいにクズだった。

「名前ちゃん、俺、ここにいるからさ。安心して」

そう言えば、俺の背中に回った腕の力が少し強くなった。
言いたくないなら無理に聞かないけれど、無理に1人で溜め込まないでほしいし、1人で泣いたりしないでほしい。贅沢を言うなら、名前ちゃんが泣くのは俺の前だけであってほしい。

「名前ちゃんが嫌だって言うまでずっとここにいる、約束するから」

  ◇

ココアを入れて彼女の風呂上がりを待つ。
彼女は今頃、浴槽でまた泣いているんじゃないか。きっと1人で、考え込んでいるんじゃないか。もしそうだとしても、俺がそこに行って慰めることも涙を拭いてやることも出来ないのだけれど。

そう心配してたけど、風呂から上がった彼女の目は腫れていなくて、少しほっとする。
ココアを渡すと、嬉しそうに顔を綻ばせながら礼を言われた。風呂に入って落ち着いたみたいだ。

湯気の上がるココアをふうふうと息を吹いて冷ましているのを横目に見ながら、隣に座り込む。ホットミルク、少し冷ましてから作れば良かった。彼女がゆっくりと、喉をこくりと言わせてココアを一口ずつ飲む様子を、じっと見ていた。

「それ飲んだらもう寝なよ」

あんなに取り乱して、きっと疲れてるだろうから。そう思って、飲み干した空のコップを持って立ち上がりながら声をかけた。
台所へ行こうと足を出して、少しつんのめる。彼女の手が、俺のスウェットの裾を控えめにつまんでいた。なんかデジャブ。

「どうかした?」
「あの、」

何か言うのを躊躇っている様子だった。じっと彼女の口が開くのを待つ。

「一緒に、寝てくれませんか」
「……ごめん、もっかい言って?」

どうやら聞き間違いじゃないらしい。思わず頭に浮かんだ最低な期待を無理矢理打ち消す。
いや多分言いたいことは分かるよ、心細いとかそういうことだよね、分かってる大丈夫。けどさ、正直男だと思われていないってことじゃないの、それって。
あのさあ、名前ちゃんは俺のことべつにそんな風に見てないんだろうけどさ、相手が自分と同じように考えてるとは限らないんだよ。ていうかそういう感情持ってなくても女のこと抱ける男なんて、世の中大勢いるんだよ。そういうの、ちゃんと考えてんの。
ここは流石に強く言った方がいいか、そう考えて口を開いたと同時に、名前ちゃんが小さな声でつぶやく。

「一人で寝るのが、こわくて」

開いた口を閉じて、結局、しぶしぶ一緒に寝ることに了承する。好きな子にあんな顔されて断れるわけなくない?仕方ないじゃん。俺は雄である前に男でありたい。

毎朝勝手に入ってる彼女の部屋に、少し緊張して足を踏み入れる。普段は何も考えず入っているのに、今から名前ちゃんと2人で寝るんだと思うと少し緊張した。大丈夫、下心は絶対に出さない。そこまで馬鹿じゃない。
名前ちゃんの布団に入り込むと、ふわりと彼女の香りが鼻腔を蕩かした。ごめん、本当ごめん。馬鹿じゃないし下心も隠し通すけど、むらっとするくらいは許して。
これ以上理性を揺るがされたらたまらないので、もうさっさと寝てしまうことに決めて、名前ちゃんの反対側を向く。

「こっちを向いて、寝てくれませんか」

うん、そうだよね、心細いから一緒に寝たいんだもんな、俺が悪かったよ、ごめん。もうやけくそだった。

「わかった、いいよ」

そう答えて向き合えば、彼女は安心したように表情をゆるめた。目じりを下げた彼女の頭を撫で、おやすみと言って目を閉じる。


目を閉じたまま息を吸っては吐く。寝付けない。寝付けるわけがなかった。一度名前ちゃんを抱きしめて寝たことはあるけど、あれはまだ好きだとか思ってなかったし、まだ自分のベッドだったし。今日のとは状況が全然違うじゃん。ていうかこんな、好きな子の布団で好きな子と数cmの距離にいるような状況で寝られるような奴とかいなくない?いたら男じゃないし、インポかなんかじゃないの。
台所で水でも飲んでこようかな、そう思って目を開けようとした時だった。頬に温かい手が触れる。名前ちゃんが触れているのだと分かった。まだ起きてたの。なんとなく、狸寝入りをしてじっと待つ。

「……どこにも、いかないで」

そんな、だれにも伝える気のないくらい小さな声が聞こえて、それから、頬から体温が離れる。布団がごぞりと動いて、名前ちゃんが頭まで布団にもぐったのがなんとなく伝わった。

心配すんなよ、名前ちゃんを置いてどこにもいかないって。