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どこにもいかないで



息を切らせて走って、逃げこむように家へ帰った。派手な音を立てて家の玄関を内から閉める。重たい扉に背中をつけ、ずるずるとその場にしゃがみ込んだ。
咳き込み、ぜえぜえと呼吸する。肺が、身体の全てが、酸素を求めていた。喉がひりつくように痛い。

「名前ちゃん?おかえり、そんなバタバタ帰ってきてどうしたの」

心配そうな彼の声が頭上から聞こえた。大丈夫です、何でもないから気にしないでくださいと返したいのに、思うように声が出ない。

「……なんかあった?」

彼の顔だった、彼の名前だった。あの張り紙は、彼を、松野さんを、探しているのだ。誰がだなんて、分かりきったこと。彼には、5人の弟がいるのだ。彼らが、兄を探している。どうして今まで気が付かなかったんだろう、考えなかったんだろう。私が彼を必要としているように、彼を必要としている人が私のほかにもいるということ。きっと無意識のうちに、気が付かないように、考えないようにしていたのだ。
私は、こんなに取り乱しているのに頭のどこかはやけに冷静で、あの張り紙のことを彼に伝える気もなければ、彼の弟たちに連絡する気もなかった。だって、そんなことをしたら、彼はきっと家に帰ってしまう。出会って数か月の私と、生まれて十数年か、二十数年か、ずっとそばにいた弟たち。彼がどちらを選ぶのかなんて、考えなくてもわかりきったことだ。
彼が、もしいなくなったら、私は。

「なんでも、ないです」
「なんでもないわけないじゃん、もしかして変なやつに尾けてこられた?会社でやなことあった?」

ちがう、全部ちがう。そんなことじゃないの。

「だ、大丈夫、です」

彼が目の前にしゃがみ込んだのが分かった。彼の手が私の頬に添えられて、無理やり上を向かせられる。彼の顔を見て、あの張り紙がフラッシュバックする。下から見上げた彼の瞳の中には、酷い顔をした私が映っていた。じっとこちらを見つめられる。心の中が覗かれるような、見透かされるような、そんな視線だった。

「じゃあなんで泣いてんの」

涙が頬を伝って、はらはらと零れ落ちる。この涙は、彼を失うことへの恐怖なのか、彼が目の前にいることへの安堵なのか、それともその両方なのか。彼の親指が涙をぬぐう。そんな仕草すらも優しくて、また泣きそうになる。

「松野さん」
「うん」
「だきしめても、いいですか」

そう言えば、彼は何も言わず、苦しいくらい強く私のことを抱き寄せた。彼の掌が、まるで赤ん坊をあやすみたいに私の背中をとんとんと叩く。冷えた身体が、彼の体温で暖まっていくのが分かった。彼の胸に顔を埋めて深く息を吸い込めば、肺いっぱいに彼の匂いが詰め込まれる。ゴミ捨て場で出会ったときとは違う、私と一緒の柔軟剤と、石鹸の香りの混じった、彼の匂い。
彼はここにいるのだ。私の、すぐそばに。

この体温を手放したくない。
彼を必要としている人がいるのに、それでも私は彼が私の前から去ってしまうことを何より恐れている。

私、松野さんが好きだ。どうしようもないくらいに、彼に惹かれて、恋い焦がれて、依存していた。

「名前ちゃん、俺、ここにいるからさ。安心して」

彼にとってはきっと何でもない、ただ私を安心させるためだけの言葉だったのだろう。でも、その言葉は今の私にとってまるで免罪のようだった。

「本当、ですか」
「うん」
「ずっとここにいてくれますか」
「名前ちゃんが嫌だって言うまでずっとここにいる、約束するから」

彼の胸に顔をうずめながら、名前も顔も分からない彼の弟たちに、心の中で謝罪する。
ごめんなさい、私は彼を手放せない。

  ◇

彼に促されて、熱いシャワーを浴びる。すっかり冷え切って強張った身体が緩んでいくのが分かる。明日の朝腫れるといけないからと氷を渡され冷やしていた瞼にシャワーをあてると、じんわりと熱が広がっていった。温かい。

落ち着いて一人でいると、やけに冷静になって、彼に取り乱した姿を見せたことがはずかしくなってくる。
家出だと、彼は言っていた。つまりそれは、彼が一方的に家を出ただけで、彼の家族は彼が戻ってくることを望んでいるということだ。もしかしたらこうしている今も、彼らはあの人を探しているのかもしれない。それでも彼にそれを告げる気はさらさらないのだから、自分の身勝手さに呆れてしまう。

風呂から出ると、彼が台所に立っているところだった。そばでヤカンが湯気を挙げている。

「あ、名前ちゃん風呂出た?ココア入れたよ」
「ありがとうございます」

ココアの入ったマグカップを受け取り、ソファに座る。そのあと彼が隣に座り込み、ソファが少し沈む。マグのなかで茶色い液体がぽちゃりと揺れた。

「それ飲んだらもう寝なよ、今日はもう遅いから」

彼が、赤いマグカップを傾けて中身を飲み干す。立ち上がった彼の寝巻の裾を思わず掴んでいた。

「ん?どうかした?」
「あの、」
「うん」

彼はいつだって優しい。私が言いよどんでも、急かさずにゆっくり待って、私の口が開くのをじっと待っている。私は彼の優しさにすっかり慣れきっていたし、甘えていた。

「一緒に、寝てくれませんか」
「……ごめん、もっかい言って?」
「今日だけ、今日だけでいいんです。私のベッドなら二人でもそんなに狭くないと思うし、」

言い訳でもするみたいに口からぺらぺらと言葉が出てくる。

「一人で寝るのが、こわくて」

そう言うと、彼は少し困ったように頬をかき、分かったと了承してくれた。
私の部屋に二人で移動して、少しぎこちない動きで、お互い反対側からシーツと布団の間に身体を滑り込ませる。

「じゃあ、おやすみ」

そう言ってベッドの端に身体をむけて寝ようとする彼の服の裾を思わず掴む。驚いたように振り向いた顔が私を見つめる。

「こっちを向いて、寝てくれませんか」

明日の朝、起こす声が聞こえなかったら。目を覚ましたら、部屋に私一人しかいなかったら。そんな考えが頭をよぎって、怖かった。
わがままを言い過ぎているだろうか。彼の表情を見るのが怖くて、俯く。ふうと息を吐く音が聞こえて、それから頭を撫でられた。

「わかった、いいよ」

安堵して、思わず笑みがこぼれる。


彼の寝顔を見るのはこれで二度目だ。以前見たときは、私が合コンで酔いつぶれて帰ってきたとき。あのときも、彼が私を心配してくれたんだっけ。こんなにも、日常に彼が溶け込んでいる。彼の甘いやさしさに、まるで砂糖漬けにされているようだと、そんなことを思った。

寝ている彼の頬に手を添える。規則的に息を吸って吐いているのが分かる。掌で、彼の存在を確認する。彼はここにいる。私の、すぐ目の前に。

「どこにもいかないで」

だれにも届かない声でささやいて、目を閉じた。