小説
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こうしていると、まるで



仕事を終え自宅へ帰って、松野さんに玄関でおかえりと出迎えてもらう。そんな日常が当たり前になったある日のこと。

「名前ちゃんさ、最近慣れてきて、頭撫でてもあんまり表情変わらなくなったよね」
「そりゃ毎晩やられてたら慣れますよ」
「またあの初々しい照れた顔が見たいなー」

そんなこと言われても、もう松野さんの手が私の頭を撫でるのは当然のようになってしまっている。最初でこそ真っ赤になって恥ずかしいですと主張していたけれど、今では撫でられながら家事をこなしたりテレビを見たりできるようになった。

「よし、決めた。今日は絶対名前ちゃんを照れさせる」

そう言って彼は謎の決意を胸に、私へのスキンシップを始めたのであった。よく分からない。

「名前ちゃん、まずはこっち」

松野さんが、ソファに座った自分の胡座の上を手でぱんぱんと叩く。そこがどうかしたのだろうか。

「ここ、座って」
「え?」
「あ、胡坐だと足がしびれるか……。はい、いいよ」

胡坐をくずし、伸ばした足を45度ほどの角度に開かれて、さあ来いとばかりに手を広げられる。

「あの、趣旨がよく分からないんですけど、」
「とりあえず俺が、名前ちゃんを、照れさせる。おーけー?」

俺が、名前ちゃんを、のところで指差し確認をしながら彼は言う。顔は大真面目だ。どうやら冗談を言っているつもりはないらしい。
おーけーじゃない。全然、全くもっておーけーじゃない。

「松野さんは私を甘やかすのと照れさせるのと、どっちが目的なんですか……」

何なんだ、照れた顔が見たいって。今まで労いの意で頭を撫でてもらっているのかと思っていたけれど、もしかしてただ私の照れた顔を面白がっていただけなのだろうか。

「ぐだぐだわがまま言うなよ!座れって!」
「もう松野さん面倒くさい」
「めんどくさいって言うな!」

諦めて彼の言うとおり、彼の足の間に体育座りをする。腹の前で松野さんの手が組まれた。肩の上に彼の顎が乗る。
彼は満足そうに笑いながら、私の腹をぎゅうぎゅうと抱きしめる。少し苦しい。
照れた顔が見たいんじゃなかったのかな。どうやらこの体勢になったことで満足しているようだった。

その体勢のままスマートフォンをいじる。いつ登録したかも覚えていないメルマガの内容を読まずに既読にしていると、ふと占いのメルマガに目が留まる。「今日は周りの人に感謝するとラッキー」、なるほど。占いを特に信じているわけではないけれど、普段お世話になっている相手にお礼を伝えることにデメリットはない。
首を少し斜めに向けて、ぼんやり私の肩に頭をのせる彼を見る。

「松野さん、」
「んー?」
「いつも、ありがとうございます。私、あなたにいつも助けられてます」

そう言いながら、彼の頭を撫でる。
ぶわ、と勢いよく、彼の顔が真っ赤に染まった。茹で蛸みたいな、という言葉はきっとこういうときに使うんだろう。触れてないから分からないけれど、きっと彼の頬は熱くなっている。

「カウンターきっつ……。ていうか何、どうしたのいきなり」
「松野さんの照れた顔もなかなか珍しいですね」
「うるさい……。違うって……、今日は俺が名前ちゃんを照れさせるんだって……」
「じゃあやめましょうか」
「……やめなくていい」

彼は少し拗ねた顔をしたあと、私の手の上から自分の手を重ねる。続けていいと解釈して、頭を撫でる。
あんま顔見ないで、と言いながら彼の顔が私の首元に埋められた。髪の毛が少しくすぐったい。

「……名前ちゃん、いい匂いがする」
「そうですか?お風呂上がりだからかな」
「同じ石鹸使って同じ洗剤で服洗ってんのに、なんで匂いが違うんだろうな」

すん、と彼が私の髪を横にかきあげて、うなじの匂いをかぐ。ぞわりと、くすぐったいような不思議な感覚が身体を襲う。

「っ……! 今のは、少し恥ずかしいです」
「はは、ほんと?目的達成だ」

彼はそう言って満足気に笑う。

「こうしてると、まるで俺たち恋人みたいだね」
「……そうですね」

そう言って、2人で笑った。

  ◇

今日の晩ご飯は何にしよう。まだ21時だしスーパーで買い物をしていこうかな。最近は妙に冷えるし、鍋にでもしようか。水炊き、豆乳鍋、すきやき、色々な種類の鍋を思い浮かべた。冷蔵庫の中は何も無かったはずだ。あ、おでんでもいいかもしれない。おでん出汁で炊き込みご飯作るのも美味しい。
そんなことを考えていると、「うわ!」と男の人の悲鳴が聞こえた。どうやら、彼が持っていた買いもの袋が破けて、地面に買ったものが転げ落ちてしまっていたようだ。

「大丈夫ですか?」

声をかけて、落ちた食料品を拾うのを手伝う。大根、じゃが芋、厚揚げ、牛筋、巾着。この人も今晩はおでんなのかな。

「これで全部ですかね」
「おう、わりーな!」
「じゃあ私、これで」
「あっそうだ!お前、オイラの店来いよ!拾ってもらった礼にご馳走してやるからさ!」

話を聞くと、どうやら彼はおでんの屋台を営んでいるらしい。今日は暇だからこの時間に具の仕込みをするのだという。なるほど、専門の屋台のものなら、家で作らなくて済むし美味しいものが食べられそうだ。

「ごちそうなんて悪いです、私、お金払いますから」
「いいっていいって!金のことは気にすんな」
「家でご飯を待っている人がいるんです。だから、2人分買わせてください」

そう言うと彼は、親指を立てて、「ははーん、これか」とにやりと笑う。そういうんじゃないですよと笑い返せば、じゃあなんだ、友達か?と問われ、思わず口ごもってしまった。彼との関係は、恋人とも友達とも違う気がする。同居人と言えば少なくとも間違いではないのだろうけれど、そう言い切ってしまうのもなんだか味気ない。

彼と並んで歩きながら話していると、おでん屋台ならではの話や自営業特有の苦労を聞かせてくれた。何でも最近は、ツケを払わず入り浸る常連客の一人がぱったりと来なくなって、嬉しいような寂しいような、そんな複雑な気持ちなのだと彼は語る。

「着いたぞ、まあ適当にそこ座って待っててくれよ」

屋台にたどり着き、備え付けの椅子に腰かける。
屋台の一面には、ハイブリットおでんと書かれていた。ハイブリットおでん、カード可。Wi-Fiあります。最近のおでん屋台は随分とハイテクだな。
面白くて屋台の周りを見ていると、「何の具が好きだ」と聞かれたので「大根、あとはがんもが好きです。あ、あと牛筋とかお肉系のがあればそれを多めにください」と答える。松野さんがおでんが好きかは分からないけれど、多分お肉を買ってあげれば問題ない。

ふと。目を屋台の壁に向ける。1枚の張り紙に目が奪われた。

探しびと。松野おそ松。赤いパーカー。見かけた方は松野家までご一報ください。
そして、張り紙には、私が毎日見ている彼の写真があった。

身体が固まった。手足の感覚がなくなって、何も考えられなくて、まるで心臓が誰かの手で掴まれて動くことを許されていないかのような、そんな感覚に襲われる。

どれほど張り紙と見つめあっていただろうか。はっとして、その場で立ち上がる。

「ご、ごめんなさい。私、急用を思い出して」
「あ?でももう包み終わって……」
「ごめんなさい!失礼します!お金は置いてきますから!」

返事も聞かずに財布から出した千円札を机に叩きつけるように置いて、走ってその場を逃げて、まっすぐへ家に向かう。あの人の元へ。

彼を、求めている人が、必要としている人がいるのだ。私以外にも。