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何もしてないよ



名前ちゃんと喧嘩をした。最近よく口論になる気がする。
この間なんか「松野さんにそばにいてほしい」なんていじらしいこと言ってくれたのに、最近はやれ靴下を脱いだらちゃんと籠に入れろだの、やれ冷蔵庫を開けっぱなしにしないだの、母さんかよ。でもまあ、昨日せっかく作ってくれた餃子を食べなかったのは、悪かったかもしれない。帰ってきたら謝りたい、のだけど。

現在、くだんの彼女は合コンに行っている。合コン。合同コンパ。要するにいい男としっぽり飲んでやろうって、そういうことだろ。あーあ。名前ちゃんが合コンとか行ってるの、なんかやだ。めっちゃやだ。
名前ちゃんと俺はそりゃ恋人でこそ無いけど、それでもただの同居人以上の関係ではあると思っていた。そう思っていたのは、どうやら俺だけだったみたいだけど。

「名前ちゃん、お持ち帰りとかされちゃわないかなあ……」

1人だけの空間でつぶやく。彼女は普段しっかりしているくせに、変なところでへなちょこなんだ。危機感がない。ていうか多分、自分が男に襲われるとか考えたことなさそう。なんてったって身知らぬ男を家に泊めちゃうくらいだし。その危機感のなさに甘えてる俺が言えたことじゃないけど、もうちょっとくらい自意識高めてほしい。

時刻は23時半。合コンの場所が会社の近くだとするなら、そろそろ終電が無くなる時間だ。帰ってくるよな……?どうしよう、不安になってきた。まさか名前ちゃんがまじでそんなことになるわけないと思うけど、帰ってこなかったらどうしよう。朝帰りとかされたらどうしよう。早朝に帰って「あ、ま、松野さん……」って気まずい空気出されて目も合わせず風呂場行かれたらどうしよう。いや石鹸の香りで帰ってこられても嫌だけど。多分泣く自信がある。

そわそわとリビングで立ったり座ったり歩き回ったりしていると、玄関から鍵を開ける音がした。帰ってきたようだ。良かった、俺の名前ちゃんが持ち帰りとかされなくて。

「おかえり、名前ちゃ、……だれ?」

見知らぬ優男に支えられて、ぐたりとした姿の名前ちゃんがいた。
男は、リビングからやってきた俺の姿を見て、誰だこいつって顔をしている。多分俺も全く同じ顔をしているだろう。……ああ、こいつ、そういう。

「え、えっと、ここ、苗字さんの家、ですよね」
「そうだけど、……なに、送り狼とか期待してた?」

大方合コンで女の子を酔い潰して介抱する振りして家まで届けていただいちゃおうって、そういう魂胆だ。
悪いけど、それは無理な話だ。今からこの子抱くんでしばらく出てってもらえますかなんて言われたら目の前の男を殴る自信がある。この状況でまさか言われないだろうけど。
挑発するように鼻で笑えば、男は一瞬、戸惑った顔をした。それを隠すようにすぐに先ほどの人当たりのいい顔に戻ってそんなんじゃないですよ、酷く酔っていたから送ってあげようと思って、とこれまた良い声で返される。

「うん、まあそういうことだからさ。その手離してくんない」

名前ちゃんの肩を抱く男の手を上から掴む。少し強く掴み過ぎたのか、男は顔をしかめた。ああ、駄目だ。加減が出来ないほどには苛ついている。

「送ってくれてどうも。もう大丈夫だから、帰れば」




「名前ちゃんさあ……、何やってんだよ」

聞こえてないことは承知で思わずぼやく。
何前後不覚になるくらい飲んでんの、馬鹿なの。男が女漁りに来てるような場所でこんなになる意味分かってんの。俺がいなかったらお前食われてたよ。だから言ったじゃん。名前ちゃん自分で思ってるよりしっかりしてるわけじゃないよって。

ひとまず自分の寝床兼椅子のソファベッドまで運ぶ。力が入ってないからか、しっかり座ってくれない。
台所で彼女のマグカップに水道水を注ぎ、彼女の前に差し出す。

「ほら、とりあえず水飲めって」
「まつのさん、ここ」

呂律の廻っていない声を出して、自分の正面をぼすぼすと叩いている。座れってか。それ言いたいの俺だよ。お前ちょっとそこに直れって言いたいよ。今説教しても明日覚えてなさそうだよなあ。
マグカップはとりあえずテーブルに置きソファベッドの上に胡座をかく。「何?」と聞くと、名前ちゃんが突然抱きついてきた。は?
何これ。彼女が頭を俺の首元にうずめた。もたれかかられ、全体重が俺にかかる。

「昨日、ごめんなさい。心配してもらったのに、ひどいこと言っちゃった、おこってますか」
「え、いや、怒って、ないけど」
「へへへ、良かった」

首に名前ちゃんの熱い息が当たる。正直、下半身にゾクゾクと来るものがある。

「名前ちゃんさあ、もし送り狼されたらどうすんの、男はみんな狼なんだよ」
「うちに帰れば、松野さんがいるから、大丈夫かなって」

それとも、まつのさんもおおかみですか?

上目遣いで首をこてんと傾げている。何なの本当。もうやだこの子。

「……違うけど」
「よかった」

ぎゅ、と抱きしめられる力が少しだけ強くなる。名前ちゃんの体温が熱い。アルコールのせいか、鼓動が早いのが伝わってくる。俺の体温が高くなっていることと、鼓動の早さには、どうか気が付かないでほしい。

不意に名前ちゃんが両手を俺の首にかけて、引き寄せる。
視界が目を閉じた名前ちゃんの顔で埋まった。唇に、熱く柔らかいものが触れ、そしてゆっくりと離れた。
キスをされたのだと気がつくまで、3秒かかった。

「名前、ちゃ、」

彼女はよく分かっていないのか、ぼんやりとした目で俺を見ている。
酒の勢いでキスなんて、いくら何でも酔いすぎだ。

彼女の細く長い指が、俺の唇を撫でる。優しく触れるだけのキスが繰り返される。
どうにかして彼女を止めたいのに、身体が金縛りにあっているかのように動かない。
俺がされるがままでいると、いつの間にか彼女の舌が咥内に入ってきた。上顎を、歯列を、舌の裏を、ぬるりとした舌が撫でる。アルコールの味が口いっぱいに広がった。
薄く目を開けた彼女と目が合う。心臓がどくんと跳ねる気がした。

「んぅ……ふっ、はぁ……」
「は……、ふ、はあっ」

熱い吐息が、お互いの口から漏れる。
ああ、もう知るか。先に始めたのはそっちだからな。
もう自棄になって、彼女の唇に噛みついた。強く抱き寄せて、後頭部を手で抑える。

形勢逆転。キスのやり方なんか知らない。目の前の彼女にたった今奪われたのがファーストキスだ。それでも本能は、どうすればいいのか、どうしたいのかを理解していた。彼女の唇を、舌を、咥内を、夢中で貪った。

「んっ、……ふ、あっ……、まつ、のさん」
「っは、名前、ちゃん、名前っ……」
「……っ、ん!んんー!」

息が苦しくなったのか、胸板をたんたんと叩いてくるけれど、しょせん酔っ払った女子の力だ。俺の気が済むまで我慢してもらう。十分に彼女の唇を堪能したあと、名残惜しくもゆっくりと唇を離した。

俺のものか、それとも彼女のものか、唾液で濡れている唇がいやらしく光っていた。涙の膜が張った瞳が、ゆっくりと閉じられていく。静寂が部屋を支配して、数秒。彼女の口から、規則的な吐息が聞こえてきた。

は?
寝た。寝やがったこいつ。人の心配をよそに好き放題酔っぱらって、人のファーストキス奪って、その気にさせて、寝やがった。
もう無理、何なの。名前ちゃん酒癖悪すぎでしょ、まじで俺が童貞であることに感謝してほしい。俺じゃなかったら絶対このまま襲われてるからね。

「はあー……、あー……、無理」

海よりも深いため息をついて、下半身で燻る熱を便所で解放するためにと立ち上がろうとしたが、生憎それは叶わなかった。名前ちゃんが、俺のパーカーの端をしわになりそうなほど強く握りしめている。
……この野郎、隣で抜いてやろうか。
もう明日のことなんて知るか。悪いのは俺じゃなくて名前ちゃんだ。彼女を抱きしめて、今日はこのまま寝てやることにした。





「私、あの、何か粗相をしていませんか……?」

どうやら、酒ですっかり記憶がないらしい。まああんなに酔ってたからもしかして、とは思ったけれど、どうやら、本当に思い出せないようだ。
まじで覚えてないの?あんだけ激しいべろちゅーしておいて?なんだよそれ。俺の動揺返してくれよ。めちゃくちゃ振り回されたよ、お前に。
文句の一つでも言ってやろうかと思ったけど、言ったところで誰も得をしないことを俺は知っている。名前ちゃんのことだから、多分昨日の自分の行動を知ったら顔真っ青にして謝るだろう。キスしちゃってごめんなさいだなんて、言われたくなかった。
だから、何も言わないことにした。昨日のことは、絶対教えてやんねえ。自分がどんな迷惑をかけたかハラハラして後悔して、それでもうあんなに酔っぱらうのをやめてくれたら、それでいい。

「……何もしてないよ」

俺のファーストキスを奪った以外は、何にも。