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はいこの話おわり!



「名前ちゃーん、体調どう?」

松野さんに布団の上から肩を叩かれ、顔を拭われ、声をかけられ、揺すられ、ようやく覚醒する。体調?体調ってなんのことだろう。……あ。そういえば昨日熱を出したんだった。駄目だなあ、寝起きは本当に頭が回らない。

「おはようございます……。ええと、んー、もうだるくないです」
「あ、ほんと?おでこ触るよー」

まだベッドの上で寝転んでいる私の額に、松野さんの掌が触れる。普段、髪の上から撫でられることは何度もあったものの、皮膚と皮膚が直接触れ合うことはあまり無かったので、少し慣れない。熱はないな、と確認するかのように一人頷く松野さんに、頷き返す。もう大丈夫です。

「名前ちゃん、今日仕事行くの?」
「はい。突然休んだら、周りに迷惑かけちゃいますから」
「んー、1日くらい大事を取って休んじゃえばって言いたいけど、ニートの俺が偉そうに言えたことじゃないしなー」

松野さんは腕を組んでしかめ面をする。たしかに周りに移してしまったら大変だろうけど、多分疲労が主な原因であると思うから、その辺は大丈夫じゃないかなあ。でも、心配してもらっているのは、素直に嬉しい。
眠たくて閉じそうになっていた目がどうにかようやく開くようになったので、起き上がりベッドに座った。蒸しタオルを片手に持ちベッドの脇に立つ松野さんを見上げる。

「そういえば私、熱でぼんやりしていて、昨日のことあんまり覚えてないんです。……多分、たくさん迷惑かけちゃいませんでした?」
「えっ!? え、ああ、そうなの?覚えてない?」
「はい。ご飯とか、氷枕を用意してくれたことはなんとなく覚えているんですけど……」
「そっかぁ!そっかそっか!うん!平気!大丈夫!気にすんなって!」

一体どうしたというのだろうか。松野さんが思い出したかのように突然焦りだす。まくし立てるような早口になって、目を合わせてくれない。

「あっ、もう着がえるよね名前ちゃん!俺、部屋出るから!」

そう言って、彼はリビングへと続くドアを通り、部屋から出て行ってしまった。
残されたのは私と、彼が用意してくれた今日着るブラウス。彼の態度を不審に思いながら、パジャマを脱いでブラウスを身につける。
一体どうして、あんなに焦っていたんだろう……。何か私、忘れているのだろうか。

あ。
思い出した。思い出してしまった。
高熱で沸いた頭で、彼に対してとてつもなく恥ずかしい甘え方をしてしまったこと。そして。
よく眠れるおまじない。彼がそう言って、私の額に口付けたことを。

なんてこと。駄目だ、恥ずかしい、恥ずかしすぎる。どうしよう、もう彼と目が合わせられない。でも家を出る時間は刻一刻と迫っている。リビングと寝室を隔てる扉を、恨めしく見つめた。このドアを開けなければ、家を出られない。このドアを開ければ、松野さんと顔を合わせなければいけない。……残念ながら、選択肢は一つしかないのだ。

「あ、名前ちゃん、あのさ昨日――」
「おはようございます!私!シャワー!シャワー浴びなきゃ!洗面所入らないでくださいね!」

私は、逃げた。

  ◇

問題を先送りにしたって、解決しない。そんなこと分かっている。分かっていたけれど。
自宅の玄関戸の前で、思わず俯いて溜息を吐く。結局、朝はシャワーを済ませた後、洗面所ですべての支度を済ませて、目を合わせず家を出た。昨日あんなに看病してもらったのに、恩を仇で返すみたいな真似をしてしまった。

「怒ってるかなあ……」
「怒ってないよ」
「え、」

少し篭った声が、扉越しに聞こえた。それと同時に、内側から扉が開く。目の前に松野さんが立っていた。

「鍵開ける音聞こえたのに、一向に入ってこないから、心配したじゃん。寒いんだから早く入りなって。また風邪引くよ」
「は、はい」
「どうせあれだろ、昨日めちゃくちゃ甘えたの思い出して恥ずかしくなってたんだろ?名前ちゃんそういうの苦手だもんな」
「……そうです」

見抜かれている。でもそれだけじゃないのに。松野さんがあんなことするから、それも理由の一つなのに。私だけがあのことを気にしているみたいで、なんだか悔しい。朝は松野さんだって焦っていたのに。少しくらい言い返してみようと、口を開くと、同時に松野さんが話し出す。

「……昨日のめちゃくちゃ甘えてくる名前ちゃん、可愛かったよ」
「う、あの、そういうこと言うの、やめてください」
「でも疲れ溜まって熱出すくらいなら、もっと休んでほしいし頼ってほしい」
「……え、」
「俺、名前ちゃんに迷惑かけない程度に家のことやるし、仕事もするから」
「え、えっ?」
「いいから返事」
「あ、は、はい!」

「はいこの話おわり!」

彼は回れ右をしてすたすたとリビングへ行ってしまう。それでも「おかえり」と言うのは忘れないのだから流石だった。


彼が沸かしてくれた風呂につかり、身体を温めた。溜まっていた疲れが一気に体の外に出ていく。普段はお互いシャワーで済ませてしまうのに、お湯が張ってあるのは、おそらく、いや十中八九、体調を崩した私のためだろう。
『名前ちゃんに迷惑かけない程度に家のことやるし、仕事もするから』
彼はそう言っていた。彼にどんな心境の変化があったのだろう。もしかして、私が体調を崩した負い目を感じた?そうだとしたら、とんだ勘違いだ。彼がいることで、どんなに私が助けられているか、彼は知らないのだ。家で帰りを待ってくれる人がいることが、「おかえり」を言ってくれることが、どんなにありがたいことか。
でもまあ、彼がそうすることを決めたのなら、私はそれを止める権利もないし、止めるつもりもないのだけれど。

「お風呂、上がりました」
「んー、じゃあ次はいるわ」
「松野さん、昨日はありがとうございました」
「え、いやいや、そんな改まらなくても」

彼の目の前に正座して深々とお辞儀をすると、つられて彼も向き合って正座をする。
隙あり。

彼の額に軽く唇を触れさせた。

「え、」
「ふふ、よく眠れるおまじない、ですよね」

少し悪戯っぽく微笑みながら、自分の寝室へと入る。ああ、まだおやすみを言ってなかった。いけないいけない。閉めかけたドアを少し開けて顔だけ出す。松野さんは、私と向き合った状態のままでいた。ぽかんと口を開けている。

「それじゃあ、おやすみなさい。また明日」

1日恥ずかしかった仕返しだ。これくらいは、許してもらえるだろう。