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急所とタイプ一致で実質12倍



洗濯機で洗ったばかりのバスタオルを、宙で大きく払う。パンパンと大きな音を立てるこの作業が、洗濯という家事の中で一番好きだ。
今日は朝からからっとした快晴で、その上ほどよく風もあって、まさに洗濯日和。先に洗濯にかけて干していたシーツも、すでにずいぶん乾き始めていた。

こんな日は、窓を開けてお昼寝でもしたら気持ちいいんだろうなあ。そう思うものの、今日の予定は日がな一日自宅で勉強だ。哀しき哉、受験生。特に私は学校推薦狙いなので、定期試験の手も抜けないのだった。

ベランダの手すりに腕をついて心地よい空気を名残惜しんでいると、お向かいの研磨くん家の、彼の部屋のカーテンが閉ざされているのが視界に入った。いつもならもう開いている時間だけど、今は試験前で部活もないし、まだ眠っているのかもしれない。……なんだか夜遅くまでゲームしてそうだな。うちの弟みたいに。

そんなことを考えながら一階の居間へ降りていくと、ソファで弟が眠っていた。布団のシーツを洗うために無理やり起こしたけど、ようやく部屋から移動したと思ったら、こんなところで二度寝に勤しんでいたらしい。

「隼人、ほら起きて。早く朝ごはん食べちゃって。片付けできないでしょ」

横になっている身体を揺すり、半分くらい夢の中にいる弟をダイニングテーブルの席につかせる。台所に用意していたベーコンエッグを温めて目の前に運ぶと、隼人は緩慢な動きで食事を始めた。

「どうせ昨日も遅くまでゲームしてたんでしょ」
「いいじゃんべつに……休みなんだし」
「中学だって試験前でしょ? 勉強はしてるの?」
「名前はガミガミガミガミうるさいなあ……」

バタートーストを頬張りながら、隼人は顔を背けた。最近の弟は、私のことを呼び捨てにする。昔はお姉ちゃんって呼んでいたのに。
宮城に引っ越したころはあんなに甘えただった弟も、いまや中学二年生だ。すっかり思春期の真っ盛りで、姉からの過干渉を厭うようになってしまった。健全な成長と言えばそうなのだけど、姉としては寂しいと思わずにはいられない。

お母さんは仕事で忙しいし、どちらかというと放任主義で、「赤点取ったり問題起こしたりしなきゃ好きにしたらいいわよ」と言うタイプだ。だから隼人からすれば、なおのこと姉が鬱陶しく思えるのだろう。

「ヨーグルトもあるよ、食べる?」
「いい。ごちそうさま」
「お粗末様でした」

隼人が手を合わせるのを見届けて、空になったお皿を片付ける。
食器を洗ってシンクの掃除も済ませたらぼちぼち勉強を始めようっと。得意な英語から始めて、調子が乗ってきたら苦手な物理に手を付けよう。午前のうちに復習は終えて、午後からは演習問題に取り掛かりたい。お昼ご飯は簡単に済ませちゃおうかな。素麺は水曜の夕飯に食べたばっかりだし……。冷蔵庫の中にたしか玉子とレタスが残っているから、炒め物かレタスチャーハンはどうだろう。

「ねえ隼人。お昼ご飯、レタスと玉子の炒め物かチャーハンだったらどっちがいい?」
「俺、昼いらないよ」
「えっ、どこか出かけるの?」
「図書館の自習室。昼ごはんはコンビニとかで済ませるからお金ちょうだい。六時くらいには帰る」

そう言って弟はあくびをしながら、着替えるためにか階段を上がって行った。
じゃあ家にいるのは私一人だけか。一人分だけだったら、ご飯作るの面倒くさいな……。家族の分を用意するのはさほど手間に感じないのに、自分だけしか食べないと分かると途端に手を抜きたくなってしまう。どうしようかな、まあ、お昼になったら考えればいいか。



「んん〜……、もうお昼か……」

弟を送り出し、勉強を始めてから数時間。なんだか集中力が途切れてしまって、椅子の上で身体を反らすように伸びをした。肩を回すと、凝り固まった身体がほぐれていく感覚がする。壁にかかった時計を見上げると、昼食を取るにはちょうどいい時間だった。
自分の部屋を出て、適当に空腹を満たせそうなものを探しにパントリーを覗く。この家で食品の買い出しをするのは基本的に私だけだから薄々分かってはいたけど、めぼしいものはほとんど見つからない。作るのは面倒だし、食べすぎると眠たくなるし……、コンビニにおにぎりでも買いに行こうかな。

「わ、あっつい……」

簡単に身支度をして外へ出ると、夏の強い日差しに思わず目が眩む。早朝のそよ風はとうに止んでしまったのか、外で快適に過ごすには無理がある気温になっていた。午前中からエアコンの効いた部屋にこもっていた身には厳しい暑さだ。ひんやりと冷えていた肌が汗ばんでしまう前に、コンビニまでたどり着きたい。
家から徒歩で十分足らずのコンビニまで足を進めながら、私はお昼ご飯と一緒にアイスを買うことを決意した。

普段なら気にならないたった数分の道のりの途中で何度か挫けそうになりながら、ようやくコンビニの駐車場へたどり着く。空調がよく効いているであろう店内が、オアシスのように見える。
もうだめだ。お行儀悪いけど、アイス食べながら帰ろう。この暑さじゃ家に戻るまでにアイスも溶けちゃうし、何より私の身体が耐えられない。
駐車場を通って店内へ向かっているさなか、入口そばの駐車場の端に立っている男の子が何やら話しているのが耳に入った。

「えー!? もう芝山着いちゃったの!? 俺、道分かんないんだけど!」

電話中……? 道に迷ってるのかな。
そう思ってちらりと視線を向けると、ずいぶんと背の高い、銀髪の男の子と目が合ってしまった。
うわ、気まずい。何もなかったかのように目を逸らそうとしたけどタイミングを逃してしまい、咄嗟にへらへらとした愛想笑いを浮かべて会釈をすると、男の子も不思議そうな顔をしながらぺこりと会釈を返してくれた。彼の(なんだあいつ)という表情から逃げるように、慌ててコンビニの店内に入る。うん、今のは私が悪い。すごく変な女だった。

迷子で困っているようだったとはいえ、誰かと電話しているみたいだし、なんとかなるだろう。いざとなったらコンビニの店員さんに道を訊けばいいし、何より、いきなり初対面の女から「なにかお困りですか?」なんて話しかけられたら不審がられるだろうし。怪しい女が怪しい行動を重ねる必要はない。

それにしてもあの子、すごく大きかったな。身長、何センチくらいあるんだろう。近くに並んだわけじゃないから分からないけど、もしかしたら黒尾くんよりも大きかったかも。背の高い知り合いなんて黒尾くんくらいしかいないから、つい彼の姿を頭に浮かべてしまう。でもやっぱり背の高い人って、それだけでちょっと迫力があってびびっちゃうな。

おかかとしゃけのおにぎり、それから歩きながら食べられそうなパピコを買って、店員さんの間伸びした「ありがとうございました」を背中に浴びながら店の自動ドアをくぐる。数分ぶりの茹だるような暑さに思わず顔をしかめる。それと同時に、先ほどの男の子の声がふたたび耳に飛び込んできた。

「だからぁ、 研磨さんちの隣って言われても研磨さんちも黒尾さんちも分かんないんだって! ……あっ!やべ、電池切れた」
「えっ」
「……ん?」

聞き覚えのある二人の名前に、つい反応して声を上げてしまった。男の子が、私の声に振り向く。目が、もう一度合ってしまった。




「助かりました! こんなとこで黒尾さんたちの知り合いに会えるなんて!」
「あはは……」

音駒高校バレー部の一年生だという灰羽くんと私は、二人横に並んで家までの道を歩いていた。家までと言っても、私は自宅、灰羽くんは黒尾くんの家が目的地だ。それはまあ要するに、ほぼほぼ同じ場所なんだけど。

あれから、先輩である黒尾くんの家に向かう途中で道に迷ってしまったという灰羽くんを、やむを得ず私が道案内することになってしまった。
声を上げて目が合ってしまったら、誤魔化すわけにも知らんぷりをするわけにもいかないし。知らない場所とかならまだしも、黒尾くんの家に行きたいっぽいのも、会話の内容から分かっちゃったし。
もっとも、なぜだか幼いころから見知らぬ人に道を尋ねられやすいので、あそこで声を上げていなくてもどのみちこうなっていた可能性はある。どうしてなんだろう。道案内以外でも、写真撮ってくださいとかもよく声かけられるし……、頼めば断れなさそうな顔つきでもしてるのだろうか。

「あー……、えっと。こう暑いと、困っちゃうよね」
「ほんと暑いですよね! 夏って感じします!」
「そう、夏だから……。うん、夏って暑いもんね」

ああもうだめだ、世間話が下手すぎる。
初対面の男の子と二人で並んで歩くのって、正直気まずい。これが同級生相手だったら、受験いやだよねとか、次の模試受ける? とか、そういった話でもできたかもしれないけど、彼は二つも年下の初対面の男の子だ。一体何を話せばいいんだろう。灰羽くんだっていきなり上級生と歩くことになって緊張してるだろうし、私がなんとか場を繋がないといけないのに。会話に困ったときは天気の話と言っても限度がある。

「えーっと、夏、夏って、太陽も眩しいよね」
「あっ、こっち歩きます!? 俺影でかいんで!」

片手で日差しを遮るふりをして、こめかみに手を当て密かに頭を抱えると、彼は慌てて自分の右側を指差した。うわ……後輩の無垢な優しさが眩しい……。歳下の彼が良い子であるほど、己の不甲斐なさに落ち込みそうになる。それにしても背が高いと自分の影をどうぞ日除けにお使いくださいと差し出す機会があるんだなあ。すごい。

大丈夫だよ、ありがとう。そう言おうと口を開いた矢先、ふと己が手に持っているエコバッグに気がついた。中にはアイス(と、おにぎり)。幸運にもアイスは、二人で分けることが出来るタイプのパピコだ。
……もしかしてこれがあれば、会話が弾まなくてもなんとかなるんじゃないだろうか。

「は、灰羽くん、アイス! アイス食べない!?」
「えっ、アイス!? いいんですか!? 食べます!」
「食べよう! いっぱい食べて!」

必死さのあまり、かなり強引にアイスを押し付ける人になってしまったけれど、灰羽くんは特に引いてしまうこともなく、むしろ嬉しそうにアイスを受け取ってくれた。た、助かった……。

「いただきます!」

大きな声でいただきますが言えて偉いね。食べ歩きは褒められたことではないけれど、緊急事態ということで許してほしい。会話は気まずいし、パピコは棒付きじゃないから、食べ歩きしてもそんなに危なくないはずだし。それに何より、ものすごく暑いし。
幸い、この猛暑の中でもアイスはまだ溶けていなかった。シャリシャリした感触のミルクコーヒー味が舌の上に広がる。甘い、冷たい、美味しい。その上、気まずい会話からも救ってくれるし、アイスって最高だ。

「そういや俺んち、ちっちゃい頃よくおやつにパピコ出たんですよね。うち姉ちゃんいるんで、二人で分けられるようにって」

あれ!? だめだ、思ったよりも会話は止まらない。予想は外れ、むしろアイスを分けてあげたことで良い人だと思われたのか、灰羽くんはさっきよりも口数が増えた。たぶん、もともと人懐こくておしゃべりが好きな元気な性格なんだろう。

灰羽くんは、自分にはお姉さんがいて、過干渉気味なところに困っているのだと話した。背だってもう自分の方がずっと高いのに、いまだに小さいころのように子供扱いするとかなんとか。なんだか耳が痛い話だ。

「……私はお姉さんの気持ち、少し分かるな。私も四つ離れた弟がいるんだけど、いつまで経っても心配で、本人からは鬱陶しがらちゃったりして」

思わず、弟を頭に浮かべてそう口にしてしまった。
どんなに背が伸びても、どんなに大人びた顔つきになっても、いつまで経っても隼人は私にとって幼い弟で、いくら疎まれても煙たがられても、それでもいじらしくてかわいくって、世話を焼かずにはいられないのだ。

「そういうもんですか?」
「そういうもんじゃないかな。姉弟って」

ふうん、と彼は首を傾げた。お姉さんを少し鬱陶しく感じてしまう、どこにでもいる思春期の男の子。そう認識すると、さっきまで未知の存在だった灰羽くんが、なんだかとても可愛く思えてきて、さっきまでの気まずかった気持ちが霧散していく。
それから灰羽くんは、アイスを一つ食べ終わるまでの間に、彼のお姉さんの話、最近遊んだゲームの話、バレー部の友達の話、部活の大会の話、いろんな話を聞かせてくれた。

「俺の試合見にきたいって姉ちゃんが言ってるんですけど、俺まだ始めたばっかで試合出らんないんですよ。ゴールデンウィークも、みんなは遠征合宿だったのに、俺は不参加で」
「そうなの? 残念だったね。プレイしなくたって、他校の人たちを見て励みになったり勉強になることもあるだろうし」

まあでも、見学のためだけに宮城までっていうのも、お金がかかるもんね……。そのシーズンの交通費に宿泊代、すごそうだ。
そういえばこの前黒尾くんと研磨くんから連名で宮城のお土産をもらったのはその時か。長期休暇のたびに遊びに行ってはいるけれど、久々に食べたずんだのお菓子、美味しかったな。
 
「今日は試験前なんで黒尾さんちで勉強を教えてもらう約束で、同じ一年の奴らで集まって行くつもりだったんですけど、俺寝坊しちゃって」
「この辺は目印になりそうな建物もないし分かりづらいよね。他の子たちは迷わず行けたのかな」

この辺りって、畑か住宅くらいしかないから迷いやすいんだよね。小学校の頃、黒尾くんが道に慣れるまでは案内として一緒に帰っていたなあ。慣れてからも、何となく一緒に帰ることが多かったけど。

「黒尾さんって、夜久さんほどじゃないですけどすげえ厳しくて、こないだも俺、ブロックでめちゃくちゃしごかれたんですよ」
「へえ……、そうなんだ」
「同じポジションなんで、コーチたちにも基礎は黒尾さん見て覚えろって言われてて」

黒尾くんが後輩に厳しいというのが意外で、思わずひとりで驚いてしまった。夜久くんは、黒尾くんと喋ってるときの口調とかでなんとなく分かるけど、黒尾くんが激しい口調で指導しているところはあんまり想像がつかない。……球技大会で私が怪我したのを知ったときみたいな、有無を言わさずに笑顔で迫ってくる感じかな。あれは怖かった。

それから灰羽くんの話題は、本格的なバレーボールのプレイに移っていった。「どしゃっと」、「ええぱす」、聞き馴染みのない単語が、それが片仮名なのかどうかもわからないまま頭の中を通り過ぎていく。どしゃっとって、なんか擬音語みたいだな。多分違うんだろうけど。
黒尾くんや研磨くんが話に絡んでいればともかく、本格的にバレーの話になると、途端に話についていけなくなって、適当な相槌しか打てなくなってしまった。何を隠そうバレーボールはさっぱりだ。疎いのはスポーツ全般に言えることだけど。

研磨くんが黒尾くんに誘われてバレーを始めたのは、私たちが小学三年生のころだ。それまで遊びといえばゲームばかりだったのに、ある日を境に彼らは放課後になるたび川原に走っていくようになって、バレーボールをいつまでも宙に上げあっていた。私は運動が苦手だったから、彼らがボールで遊んでいるのを眺めているだけだったけど……、もしあのとき、少しでもあの中に交じっていたら、もう少しバレーボールというものに詳しくなっていたんだろうか。

「……灰羽くん。バレーボールは、楽しい?」
「はい!」
「……そっか、良かった」

満面の笑みでリエーフくんは答える。
眩しいな、と思った。太陽じゃなくて、灰羽くん自身が。ひいては、バレーボールに一生懸命取り組んでいる彼らが。
自らそれに触れない選択をしたくせに、ほんの数ヶ月前から始めて、それを心の底から楽しんでいる彼を、思わず妬んでしまいそうなくらいだ。

「まだ始めたばっかですけど、すぐ俺がエースになりますよ! そうだ、こないだユニフォームもらった写真が――、あ、電池ないんだった」
「え、ああ……そういえば言ってたね」

少し感傷的になっていたところを、彼の言葉でハッと我に返る。
彼がポケットから取り出したスマホは真っ暗で、たしかに電源が落ちていた。地図も見られない、目的地の住所も分からない、友人と連絡も出来ないで、途方に暮れているところに私が声をかけたのだ。

今更だけど、灰羽くんを案内しているよ、って黒尾くんに連絡しておいた方が良い気がする。どうせあと少しで到着はするけれど、迷子のまま連絡が取れなくなってしまった後輩のことを、きっと心配しているだろう。

「念のために、私の携帯で黒尾くんに連絡しておこうか」
「げ、遅刻怒られそう……」

あとは通話ボタンを押すだけの画面にしてスマホを差し出すと、灰羽くんは渋々受け取りはしたものの、液晶の上で指を迷い箸みたいにして躊躇っている。
先ほどの、バレーが楽しいと快活に答えたときの笑みから一転、不安そうな表情を浮かべる彼に、ついつい庇護欲をかきたてられた。灰羽くんにはどうも姉心をくすぐられてしまう。

「𠮟られるかは分かんないけど、連絡するかしないかだったら、しておいた方がいいんじゃないかな」
「そうですかあ……? 電話と対面で二回怒られるより、一回のがマシじゃないですか?」
「うーん……。じゃあ、私が横からフォローするよ。黒尾くんも、部外者の前ならそんなに叱らないだろうし。ね?」

私がそう言うと、灰羽くんは観念したかのように通話ボタンをタップした。
呼び出し音が大きな音で鳴り始める。あ、スピーカーにするんだ。別に良いけど。
黒尾くんが電話に出るのを、黙って歩きながら待つ。コール音が二十回くらい繰り返されたころ、二人で顔を見合わせた。

「……なかなか出ないね」
「このまま出ないでほしいです」

灰羽くんは真面目な顔をしてそんなことを言う。まあね、それなら連絡を取ろうとしたっていう言い分は立つもんね。

「うーん、マナーモードにしてて気づいてないのかも……」
「それなら仕方ないですよね」

灰羽くんが安堵した表情で通話を終えようとした、そのとき。道路に大音量で響いていた呼び出し音が唐突に途切れた。

『……っ、もしもし苗字?』
「あ"!? 黒尾さん!?」
『……は? リエーフ?」

灰羽くんが声を発した瞬間、今まで聞いたことのない低い声が返ってきた。え、怖い。黒尾くんって部活の後輩にはこんな声で話すんだ。ていうかそんな声出るんだ。

『リエーフなんで、そのスマホどうした? ていうか今苗字と一緒に居んの?』
「え、っと! 寝坊して、道に迷って、コンビニで知り会った苗字先輩が黒尾さんち知ってるって言うんで今連れてってもらってます! あっ、スマホは借りました! えっとそれから、遅刻してすみませんでした!」

黒尾くんの捲し立てるような早口に対抗するように、灰羽くんも必死に事情を説明する。
灰羽くんは大きい身体を折り曲げて、その場で頭を深く下げた。ドラマに出てくるサラリーマンの人みたいだ。彼の長躯でやると、ただの謝罪がなんだかアンバランスでちょっと面白いなと思って一瞬見入ってしまったものの、助けを求める視線に気づいて、はっと我を取り戻す。そうだ、助け舟を出す話だった。灰羽くんが握っている私のスマホに向かって、慌てて話しかける。

「あの、あんまり怒らないであげてね。灰羽くんもね、マップ見ながら来てたからスマホの電池がなくなっちゃったんだって」
「そうなんですよ! 近くまでは来てたんです!」
『待て待て待て、何!?お前ら近くない!?』
「苗字先輩、あとどんくらいですか?」
「もうすぐで着くよ」
『じゃなくて! お前ら今どういう距離感で電話してんの!?』
「距離……?」

私と灰羽くんは、また二人して顔を見合わせる。
普通に、横に並んで歩いているだけだ。私も話しやすいように、灰羽くんがスマホを鳩尾のあたりで構えてくれてはいるけど。
黒尾くんは一体何をそんなに慌てているんだろう。

「……? えっと、それでね、今、黒尾くんちに向かっているところで――」
『今どこ?』
「えっ」
『今どこ歩いてんの』

どこを歩いているって言われても、家の近くとしか言いようがない。目印になるような建物も場所もないって、黒尾くんも知ってるはずなのに。

「ええっと、バス通りの角のコンビニから裏道に入って、小学校の通学路のほうをずーっと……」
『分かった、向かう』
「でも」
『いいから』
「は、はい」

有無を言わさぬ剣幕に、思わず静止の言葉を飲み込んだ。向かうって言っても、もう私の家の屋根が見えてるし、本当にあと少しで着いちゃうのに。電話をかけてから黒尾くんが出るまでに時間がかかったこともあり、もう家は目前だ。

外出の準備をしているのか、電話の向こうでガシャガシャと物音が聞こえる。誰のかは分からないけど、他の男の子の声も。灰羽くんの同級生の子だろうか。

「なんか、黒尾さんすげえ怒ってませんでした……?」
「ごめんね、私ぜんぜん役に立たなかったね……」

灰羽くんが通話をミュートにしながらも声をひそめて呟いた言葉に咄嗟に謝罪する。というか、あんまり彼の遅刻に対して怒ってた感じでもなかったような。何に対しての動揺だったんだろう、あれは。

黒尾くんの身支度の音を聞きながら歩いているうちに、彼の家の前まで辿り着いてしまった。これは、インターホンを押したほうがいいのかな。電話の方、なんか物音大きくて話しかけても聞こえてなさそうだしな。

「えっと……灰羽くん押す?」
「苗字先輩どうぞ!」

そんな先輩に先を譲りますみたいな言い方したって、押したくないだけなのは分かってるんだからね。灰羽くんの甘え上手に流されながら、呼出ボタンを押すのとほぼ同時に、玄関の扉が開いた。

「『あ』」

電話の声と肉声が重なる。黒尾くんはスマホを耳に当てて、ポカンと口を開けて私たち二人を見た。

「え、えっと、こんにちは……?」
「お、お疲れさまです!」

黒尾くんは、呆けたような口を閉じると、私たちの挨拶を無言でスルーして、ずんずんとこちらに歩み寄り、灰羽くんの頬を片手で挟むように掴んだ。
ひえ。
え、止めたほうがいい? 私で止められるかな? これ、先輩による後輩への暴力には当たらないかな? ギリギリ指導の域なんだろうか。

「リエーフお前ぇ! 寝坊すんなって言ったろ!」
「ひゅ、ひゅみまへんれした!」
「ったく!!」

灰羽くんは解放された頬をさするように撫でる。大丈夫っぽい。なるほど、男子運動部員特有のコミュニケーションだ……。あ、やっぱり灰羽くんの方が身長高い。へえー。
他人事みたいに異文化の触れ合いを観察していると、黒尾くんは灰羽くんから私に向き直った。さっきの電話越しに聞こえた、あの低い声を思い出してぎくりとする。

「苗字」
「う、うん」
「リエーフだからまあよかったものの、知り合ったばっかの男にスマホ貸すのやめなさいよ、危ないだろ」
「ご、ごめんなさい……?」
「それに苗字からの電話かと思って出てんのに男の声が聞こえたらビビるでしょーが」

確かに。千枝に電話かけたつもりで男の人が出たら確かにびっくりするな。掛け間違いとかを疑っちゃうかも。
はあ、と黒尾くんは深いため息をつく。驚かせちゃって申し訳ないなあ。

「まあ、連れてきてくれたのは助かったわ。ありがとうな」
「ううん。帰り道だったし、それに灰羽くんがずっと話してくれてたから私も楽しかったよ」
「アイスもらいました!」
「子守りかよ。リエーフちゃんとお礼言ったか?」
「言いましたよぉ!」
「言われたよ、大丈夫」
「ほら!」

アイスもらいましたの言葉と共に、印籠みたいにアイスのゴミを掲げた灰羽くんの手から、そのままゴミを受け取る。ゴミ袋は持ってないけど、家はすぐそこだし手で持てばいいや。
アイスのお礼を確認する黒尾くんがなんだか"先輩"らしくって、少し笑いながら答える。

「……つーか二人、なんか仲良くなってない? 初対面だよな」
「そうです!」
「なんかね、灰羽くんお姉さんがいるんだねって話から仲良くなって」

私が男子と仲良くしているところが意外だったのであろう黒尾くんにそう説明すると、彼は突然片手で顔を覆って項垂れた。な、なに……。

「あーそうだ。この子、弟属性に弱いんだった……! 」
「苗字先輩、弟属性ってなんですか?」
「弟ってこと、かな……」
「そのまんまですね」
「そうだね」

属性に弱いってそんな、ほのおタイプがみずタイプに弱いみたいな。咄嗟に、灰羽くんの話題に出てきたゲームに例えてしまう。
まあたしかに、歳下の子に頼られると断れない自覚はあるけど……。あまり頼られることはないものの、研磨くんがまさにその筆頭だ。
一人でなんだか落ち込んでいるらしい黒尾くんを尻目にひそひそと話す私たちを、彼は恨めしげな目で見た。

「てかそれなら俺も姉ちゃんいますけど?」
「えっ、うん、覚えてるよ。……?」
「そうだよな知ってた! なんでもない!」

離婚して母方にいるお姉さんがいるのは知ってるけど、お姉さんがいるからどうしたっていうんだろう。発言の意図が分からず小首を傾げると、黒尾くんはなんだかとても悔しそうな顔をした。黒尾くんも姉弟トーク、混ざりたかったのかな。


それから二言、三言くらい言葉を交わして、そろそろ私はお暇しようかなと思い立つ。これから勉強会だろうし、あんまり長話も良くない。お腹空いたし。

「それじゃあ私はここで失礼するね」
「ああ、ありがとな」
「苗字先輩、ありがとうございました!」
「灰羽くん、勉強頑張ってね」
「げっ、そうだった」
「リエーフには遅刻した分、俺がみっちり教えてやるから安心しろよ」
「ええ!?」

黒尾くんがわざとらしく楽しそうな顔で灰羽くんの肩を後ろから掴む。灰羽くんはとても嫌そうな顔をしているけど、たぶん、まあ、仲良し、ということでいいんだろう。
これにて私はお役御免と彼らに背を向けて、数メートル先の自宅に帰ろうとした矢先。

「あっ! じゃあせっかくだから、苗字先輩も一緒に黒尾さんちで勉強していきませんか!?」
「え"っ」

お説教の空気を含んだ先輩からの指導から逃れるためか、はたまた純粋なお誘いか。どちらなのかは判別がつかないけれど、灰羽くんは期待を込めた眼差しで私を見つめる。
そのキラキラした瞳を向けるのは、やめてほしい。

苗字名前、ノーマルタイプ、人からの頼み事と、弟属性に弱い。4倍弱点、こうかはばつくんだ!


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