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もういいかい、まあだだよ



閃が取り組んでいた任務が一段落して本部へ帰還した矢先に、秀が「今日は名前ちゃんが来ているよ」とご丁寧に教えてくれたのが十分前。じゃあ挨拶くらいしておくかと、荷物を置いてから声がする大広間の方へ足を運ぶことにしたのが五分前。そして現在、なぜか閃は泣きべそをかいた名前に縋りつかれていた。

「閃くんお願い、見捨てないで!」
「いやもう無理だろ、諦めろよ」
「やだやだ、閃くんに匙投げられたら私もうだめだよ!?」
「お、閃なにやってんだ、一丁前に修羅場か?」
「あんたもそんな歳になったのねえ」
「違いますよ!」

次々にやってくる野次馬たちの誤解を必死に解く閃に対して、名前は周りが見えていないのか彼の襟ぐりをつかんで身体を揺らしている。

「この時期にこの判定なら、志望校のレベル落とした方がいいだろ。ふつうに考えて」
「そんなこと言わないで!」

名前がこんなにも取り乱している理由、そして閃が今現在、彼女に縋られている理由。それは、机の上の高校入試の過去問と、模試の成績表だった。
深い事情あって、名前が烏森学園の高等部ではなく、外部の高校へ進学することになり数か月が経った。その理由ゆえに、彼女が受験生らしく勉強に取り組んでいたのは知っている。もちろんその実、受験は手段に過ぎず、烏森を離れるのが彼女の実際の目的なのは周知の事実だ。実際すでに中学の転校は出来ているので、当初の目的は達成しているのだが、だがまさか受験すら怪しいというのはどういう了見だ、と閃は首を傾げる。
机の上に投げ出された過去問と、その回答が書かれた名前のノートに閃はちらりと視線を向ける。ごく普通のありふれた試験問題だ。難問だとかひっかけ問題だとかそういう類いでもない。しかしノートに記された回答は、堂々の不正解だった。

「今までよっぽど勉強してこなかったんだな……」
「うう……。返す言葉もございません……」
「ほら名前ちゃん、前回の模試より成績は上がっているんだから泣かないの。影宮も、分からないことを責めたってなにも始まらないし、勉強見るくらいいいじゃない」
「……副長が言うなら、まあ……」

肩を落とす名前を刃鳥がフォローすると、閃は渋々頷いた。副長に任されては仕方がない。
名前を閃に任せ仕事に戻った副長の背中を見送ると、閃はため息をついて、机上の解答用紙と成績表をもう一度眺める。何をどうしたらこんな成績になるのか、こんな回答になってしまうのか、彼には分からない。元々成績の良い閃は、名前がなぜこの程度の問題でつまずいているのか理解が出来なかった。

「はあ……。で? 何が分かんないんだよ」
「数学……」
「どの単元? ああ、空間図形か」

名前が開いた参考書のページには、直方体や円錐などの図形が多く並んでいる。
こんなもの中一で習う範囲だろ、と閃はため息をついた。そもそも高校受験なんてものは、中学で習った範囲しか出題されない。せいぜいが教科書に載った応用程度だ。試験本番ならまだしも、教科書を横に並べて解けないなんてことはないだろう。

「図形ってのはさあ、空間を分かってりゃ解けんだって」
「なにその抽象的な説明……」
「立方体の展開図、って言われてぱっと出てこないやつでも、六面サイコロをバラした図って言われたらすぐわかるだろ? ほかの図形でも同じだって。自分の頭ン中でその図形をちゃんと想像できれば、分かりやすいだろ」
「……そ、そうかなあ?」

閃の説明に、名前は首を傾げるばかりだ。サイコロならまだしも、教科書には普段身の回りでは見かけない円錐や五角錐まで多種多様な図形が描かれている。簡単には言うものの、それらすべてを想像する、という時点で名前には少し難易度が高い。

「苗字お前、分家って言っても墨村の血縁なんだろ? 空間支配能力なんだからそういうのむしろ得意なんじゃねーの?」
「いやいや、そんなの関係ないよ!?」

立方体や直方体を自分の手足のように操る良守の姿を思い出しながら閃が言った言葉に、名前は即座に反論する。そんな無茶苦茶な理由で数学が得意になるのであれば苦労していない。

「まあそっか、良守も馬鹿だったもんな」
「そ、そうだよ。時姉は数学得意だったけど、それは時姉の頭がいいからで、結界師の能力とは関係がない、はずだよ……たぶん……」

閃は自分で出した仮定に、すぐさま反例を出して否定した。今ここにはいない二人の名前が話題に上がり、名前は少しだけ動揺する。
結局彼らのもとを離れようとしたところで、名前は二人の存在を忘れることなどできず、そして閃と名前の共通の話題はやはり烏森のことに偏っていた。当然、会話の中には頻繁に良守と時音が出てくる。今までの人生で、名前にとって家族を除けば最も近しい存在と言って相違ないのだから当然のことだった。
――今頃二人は、どうしているかな。良くんは今も授業中に寝てるのかな、教壇の目の前で。時姉は、元気にしているだろうか。二人は……、もう付き合ってるのかな。きっと両想いなのは間違いない。恋人関係に進展するのも、時間の問題だったと思う。中学はまだ早いかもしれないけど、高校生になったら、流石にお付き合いはするだろう。するんじゃないだろうか。
彼らのことを考えるのが苦痛で家を出たのに、忘れるどころか、むしろ烏森にいたころよりも彼らのことを思っている気さえする。これではなんのために家を出たのか分からない。

「ほら、手止めんな。次だ次」
「スパルタだ……」
「スパルタ指導じゃなきゃ合格が怪しい奴が文句言ってんな」

ノートの一点を見つめてもやもやとしていた名前の思考が、閃の声で現実に戻ってくる。
彼はぶつぶつと文句を言いながらも根気強く勉強に付き合ってくれている。結局なんだかんだ面倒見がいいんだよね、閃くんは、とその様子を上目遣いで見ながら名前は思う。彼のこういうところに、彼女は救われていた。それは今日のように、勉学のことだったり、こうして下手に気遣うことなく、今まで通りに接してくれることだったり、多方面において。

「なにぼけっとしてんだよ、さっさと次の問題」
「はーい」

名前は、せっつかれて参考書をめくる。

『問十五、次の立方体の辺ABとねじれの位置にある辺をすべて挙げよ』

ああ、これ苦手なんだよなあ。思わず名前は眉間に皺を寄せた。
ねじれの位置。平行ではなく、交わることもない位置関係。まるで、今の私と良くんたちみたいだな、なんて。そんな馬鹿馬鹿しい比喩を頭から消し飛ばすように、名前はシャープペンシルを握りなおした。


 ◇


「よろしくお願いします……!」

絞り出すような声に、またかと溜め息をつくのももう何度目か。大学のスポーツ推薦による受験を控える名前から、見てほしいと差し出された小論文の原稿用紙を、閃は渋々受け取った。ここ三年余り、名前に何度も頼られ閃はその度に不承不承ながら勉強を教えてやっている。いい加減にしろと口では言うものの、彼がけして非情になりきれないということを、所属としては新入りにあたる名前はじめ、夜行のだれもが知っていた。
根気強く教えてやったおかげか、名前の高校在学中の成績は悪くない。その甲斐あって、勉学面も素行にも問題なしと学校から太鼓判を押され、名前はスポーツ推薦で大学進学をすることができることになった。

「またやってんのかお前ら」
「巻緒さん、翡葉さん!」
「お疲れさまです」
「苗字お前、いつも閃に頼り切りだな……。大学平気かよ……」
「だ、大丈夫ですよ、たぶん……! でももう、閃くんには頭上がんないですね」
「頭上がんないとか言う割にお前、俺にめちゃくちゃ口答えするよな……」
「生徒としては頭上がんないけど、いまだにご飯のとき秀くんに野菜押し付けてるじゃん閃くん」
「いや関係ねーだろそれは!」
「相変わらず仲良いな」
「「仲良くないですって!!」」
「おーおー、そういうことにしとこうな」
「ま、頑張りなよ」
「ありがとうございます!」
「任務、お気をつけて」

もはや見慣れた恒例のやり取りに、通りがかりの巻緒や翡葉が声をかけて去っていく。
学業面ではもちろん感謝こそすれど、三年余りの年月を経て、二人は気の置けない仲になっていた。名前にとって、年が近く気心の知れた相手である閃や秀は希少だ。すっかり彼女が夜行に馴染んだ今でも、最も気兼ねなく話すことが出来る相手の一人だった。
名前が渡した原稿用紙をぺらぺらとめくり、閃は目を通していく。一時間かけて彼女が取り組んだ小論文は、ものの五分で読み終えられた。

「……まあ、前よりは良くなってんじゃねーの?」
「ほんと!? やった!」
「最初がひどかったんだって。あれじゃ小論文じゃなくて作文だからな」

数か月前、初めて書いたという名前の小論文もどきを思い出し、閃は遠い目を浮かべる。それに比べれば、随分上達したものだ。同い年の生徒の成長を嬉しく思いながら、閃は赤いボールペンで原稿用紙に直接添削をしていく。
だが、流石にこうして名前につきっきりで教えてやるのも、大学受験までだろう。閃は名前と違い、進学するつもりがなかった。
自惚れではなく事実として、閃は自分の成績が全国的に見ても良い方だと自認している。実際、進学しようと思えば選択肢は選り取り見取りだろう。だが、その選択を取るつもりはなかった。

閃が諜報班に移ってから、三年が経っている。諜報班主任の細波に師事し訓練を重ねた結果、能力はいまや当時の比ではない。出来ることが増えるにつれて、任される任務も、その任務から得られるやりがいも桁違いに増える。今は何より夜行での仕事が充実していて、もともと熱心だったわけでもない学業はかなりおざなりとなっている。もちろんそれでも平均以上の成績を残しているので、誰にも苦言を呈されたことはない。
頭領である正守や細波の勧めもあって、閃は高校まで通うことになった。細波曰く、「同世代の一般人連中が何を考えているか、“普通”ってもんを知っておくことが俺たちみたいな能力には必要なんだよ」だそうだ。
だが、それから先の進路は、本人の意思に一任されていた。大学というのは、門戸を大きく開いているのが特徴の一つでもあり、学問を修めたいと思い立ってから幾つになっても通うことが出来る。夜行での活動が充実している今、わざわざ大学まで行く必要がない。それが、閃の出した結論だった。

「……閃くん、本当に大学行かないの?」
「それ、何回訊くんだよ」
「だって、せっかくこんなに頭いいのになあって思って。三年もずっと助けられた身としては、ちょっともったいないなーって」
「なんももったいなくねーよ」

朱入れをした原稿用紙を突き返すと、その赤文字の多さに少し苦笑いをしながらも、名前はありがとうと礼を言った。これをたたき台に、もう一度書き直しだ。彼女は早速A4のクリアファイルからまっさらな原稿用紙を取り出して、記憶が新鮮なうちに取り掛かり始めた。

三年、三年だ。十八歳になる彼らからすれば、これまでの人生の六分の一を占める年数。長かったとも言えるし、短かったとも言える。
名前が烏森を離れてから、もうすぐ三年。閃は良守と連絡を取り合っていたが、名前は、良守はもちろん、墨村の者とも雪村の者とも、ずっと接触をしないまま、歳月が過ぎて行った。
名前が一人いなくなっても、時の流れは当然に進んでいく。烏森のころのクラスメイトは、彼女の突然の転校に戸惑いながらも、一つ空いた机をいつの間にか片付けた。彼女の消失に最も動揺した良守も時音も、生きていることは周りから保証されていたので、心配こそしたものの、この三年間何も手が付かなくなるほど憔悴しきったわけでもなかった。良守は当然の流れで烏森高等部に進学し、時音と同じ学び舎に通っている。今まで烏森しか知らなかった名前も、夜行というもう一つの居場所を手に入れた。世界が広くなり、彼女が当時思い詰めていた“自分の居場所がない”という悩みは取り除かれたはずだ。実際、閃の目から見て、三年前から名前も随分落ち着いたように見える。高校卒業、潮時ではないだろうか。

「……なあ、もういいんじゃねーの?」

シャープペンシルでがりがりと文字を書き進めていた名前に、ぽつりと声をかけた。名前は原稿用紙から顔を上げて、きょとんと閃を見つめる。

「なにが?」
「決まってんだろ」

あえて核心を口には出さず、閃は名前の目をじっと見つめる。言わなくても伝わるだろうと思っていたし、実際に名前は閃の最初の言葉の時点で彼が言いたいことを大方察していた。

「……うーん。まだ、だめ……、かな」

眉尻を下げて、情けない顔で、名前は笑う。閃はその表情に、それ以上なにも言うことは出来なかった。

「…………そうかよ」
「うん。まだ、だめ」

まるで自分の言葉を反芻するかのように、名前は繰り返した。まだ。もう少し。もうちょっとだけ。

「……なんか、急かすみたいな言い方して悪い」
「ううん。気にしてないよ。……あっ、ごめん嘘、すっごく傷ついた。今度閃くんが美味しいお菓子買ってきてくれなきゃ立ち直れない」
「おっまえなあ……!」
「最中がいいな、良いとこのやつ」

名前が口にした冗談のおかげで、部屋に漂いそうになった重い空気は霧散する。調子のんなと大声を出す閃に笑いながら、名前は三年前のことを思い出していた。

――お前の気持ちの整理がつくまでだ。
それが、烏森を出るときに名前が正守から言われた言葉だ。いつまでもこのままではいられないのは分かっている。気持ちの整理を、いつかはつけなくてはいけない。整理がつくのが、明日か一年後か、はたまた十年後か。名前にはまだまだ、分からなかった。