小説
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もういいよ



スニーカーが砂利を踏みしめる。ザ、と足元で大きな音が鳴る。
苗字の家に、良守がタッパーを持って突然やってきたのは、ある夏の日のことだった。

「あれ、良くん。いらっしゃい、どうしたの?」

砂利を踏みしめる音に来客を察知した名前が玄関の扉を内側から開けたのと、良守が呼び鈴を押そうと指を伸ばしたのは同時だった。
彼女が行方を眩ませてから五年間、なにか便りはないかと何度も足を運んだ苗字の家に、ずっと会いたかった名前がいる。何の用かと呑気に尋ねる彼女の姿を、どれほど待ち焦がれたことか。それがいきなり、久々の帰省だなんてテンションでひょっこり帰って来やがって。
こちらの気も知らないで、と思わず詰ってやりたくなるのをこらえ、良守は不思議そうな顔を浮かべる名前の眼前に、手持ちの袋を突き出した。

「わ、なにこれ」
「こないだうち来たときさ、なんかしょぼくれて、変だっただろ、お前……」
「変?」

 良守の言葉に、名前は首を傾げる。心当たりは当然あるが、素知らぬ顔をして返した。大方、繁守と話したあとのことだろう。これから良守へ対してどう振舞っていくべきか、と悩んだ夜のことだ。翌日ケーキ屋に行って誤魔化せたと思ったのだが、完全に疑惑を晴らすことは出来ていなかったらしい。
中学生のころはもう少し、自分の動揺を上手に隠せていたんだけどな。久々にこちらへ帰ってきたから、以前の調子が戻っていなかったのかもしれない。人生の岐路とも言える、心中で常にぐるぐると暗い感情が渦巻いていたあの頃の方が、よほど感情を表に出さないことに長けていただなんてずいぶんな皮肉だ。

「だから、好きなもんでも食えば元気出るかと思ってよ」

 好きなもの? 頭の上にはてなを浮かべて名前は袋の中を覗き込む。まず最初に気が付いたのは鼻腔をくすぐる甘い香りだった。透明なタッパーの中には、焦げ茶色が見える。

「チョコレートケーキ?」
「お前、好きだったろ」

 お菓子の城を作ると言う野望を抱いていた当時、良守はしばしばお菓子作りを行っていた。城とまでは行かずとも、夜の仕事に自作の洋菓子を持ち込んでは腹ごしらえしていたものだ。当時の名前は、良守の手作りのそれを深夜にありがたく頂戴しては、翌日のニキビに悲鳴をあげたものだった。
 厳密に言えば、良守の認識は誤解だった。チョコレートケーキが嫌いなわけではない。誇らしげに完成品をかかげる良守の嬉しそうな顔を見るのが名前は何より好きだったのだ。だが良守からすれば、いつ渡しても嬉しそうに笑うのだから、そういう理解になるのも当然だった。
 名前の記憶の中の彼とは異なり、良守は自信なさげにぼそりと言う。だけど、元気がない相手に対して元気が出るようにと好物を差し入れるような優しいところは、名前が知る彼と、なんら変わっていない。
気恥ずかしいのか視線を逸らす良守の姿に、思わず名前の中にふつふつと悪戯心が芽生えた。

「……今は、サバランとかオペラとかの方が好きかなあ」
「マジ!?」
「うそ」
「はあ!?」

 くるくると表情を変える姿がおかしくて、思わず名前は吹き出す。笑われたことに対して良守はさらに衝撃を受けて、唇を尖らせた。

「おい、なに笑って――」
「好きだよ、今でも」

 ふわりと名前は笑う。夏祭りの日のような、造られたような大人びた笑みではない。五年前まで毎日のように見てきた、無邪気な笑顔でもない。それは、思わずにじみ出たかのうような、悲しみを帯びた微笑みだった。

「名前……?」
「ずっと、ずーっと大好き!」
「な、なんなんだよまじで……」

 良守は初めて見る名前の笑みに、思わずたじろいで目を瞬かせる。二、三度まぶたを上下させてもう一度確かめたときにはすでに、先ほどの表情など見間違いだったのかと目を疑うほど、名前は屈託のない笑顔を浮かべていた。いつも通り、いや、昔と同じ無邪気な笑顔だ。いつも通りかどうかは、良守には分からない。なにせ彼女の“今”を、彼は知らなかった。
ありがとね、と礼を言いながら名前はタッパーを受け取る。

「わ、美味しそう! 良くん、前もお菓子作り上手かったけど、ずっと上手になったね」

良守が名前の“今”を知らないように、名前も良守の“今”を知らない。中学生が作っていたそれよりも遥かに高い技術を駆使して作られたであろうケーキを前に、名前は目を見張った。

「ねえ、今食べていい? あのね、うちにケーキに合うお茶あるんだ! ほら、上がって上がって」
「お、おう……」

調子が狂う、とでも言いたげに、良守は片手で後ろ頭をかく。彼女が先ほどの言葉に潜ませた感情に、良守はまだ気が付かない。
なにせ二十年もの間、秘めてきた想いだ。五年間、拗らせてきた感情だ。いきなり何かを発展させようだなんて思わないし思えない。
 好きだよ、良くん。ずっと好き。

 ねえ良くん。
 いつか私を、私の本当の気持ちを、あなたは見つけてくれるかな。




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