小説
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息を潜めて気配を消して、鬼に見つからないように



苗字名前は、常に一歩後ろに控えている子供だった。それは、烏森を守る任務のことでもあり、人間としての性質を指している表現でもある。前衛に出ることはなく、正統継承者である二人を後ろから補佐する。自分の気持ちをひた隠し、時音を想う良守を見つめている。
自分の力量を、立ち位置を弁えている、とも言えるだろう。己の力量も理解できず、下手に出しゃばって自滅する人間を、大勢見てきた。彼女のそれは美点である、と思っている。
天才でも秀才でもない彼女のことを、墨村正守はそれなりに評価していた。

「どうぞ」
「あ、ありがとうございます……!」
「ありがとう」

刃鳥が机に湯呑みを二つ置き、部屋を静かに後にする。いつもの湯飲みとは異なり小ぶりな茶器から見るに、客人用に用意した玉露だろう。夜行本部に客人が来ることなんてほとんどないから、使う機会がなくて台所で燻っていたやつだ。実のところ正守は炊事場の実情に詳しくはないので、刃鳥や調理班が以前ぼやいていたのを耳にしただけだった。でもまあ、戸棚で腐らせる前に客人が来てくれて助かったというものだ。
火傷しないよう気を付けながら正守はお茶を一口啜る。普段自分たちで飲むことはない高い茶葉だ。口の中で転がして、その香りと甘さを堪能する。流石に茶菓子まで出さなかったのは、刃鳥の配慮だろう。再従姉妹が会いに来たといえど、思い出話に花を咲かせるつもりはないし、相手も口を付ける余裕などないに違いない。正面に座り、正座を崩せずお茶にも手を付けず、見るからに緊張している名前を見て、ふっと笑みがこぼれる。

「冷めるぞ、お茶」
「あ、い、いただきます……!」

正守の言葉に慌てて名前は湯呑みを手に取り、勢いよく傾ける。「あっつ!」という声が聞こえて、思わず吹き出す。緊張しているのは、初めて訪れた場所へ対してか、改まって再会した自分に対してか、はたまたこれから話すであろう話題に対してか。おそらく、そのすべてが彼女の緊張の要因だろう。

「大丈夫か?」
「だ、だいじょうぶ……」

正守は笑いをこぼしながら、懐紙を差し出す。照れくさそうにそれを受け取り、口許を拭く名前の様子からして、どうやら少しは緊張もほぐれたようだった。

「あの、正兄、きっと今すごく忙しい時期だよね。急にごめん……」
「べつにいいさ。バタバタしてるとこなのは否定しないけど、部下が優秀だから仕事はどうにかなってるしな」

正統継承者ではなく、術者としても平凡な少女。弟と同い年の再従兄弟。齢も離れている上、彼女が七つか八つになるかという頃には烏森を出ていた正守と名前のつながりは正直希薄と言っても良い。親戚といえど近くも遠くもない縁の彼女が、こうして自分に直接連絡を取ってきたのは、正守にとって珍しいと目を見張る出来事だった。もしかすると、良守や家族を抜きして二人きりで会うのは初めてかもしれない。まあ、そりゃ緊張するってものか、と正守は一人納得して玉露を堪能しながら、彼女の言葉を待った。
こうしてわざわざ夜行本部まで足を運んで話をしに来たのだ。世間話をしにきたわけでないのは分かっている。

「それで、話って?」
「じ、実は……烏森じゃないとこに、進学しようと思ってるんだ。うちからは通えないくらい、遠いとこに」
「へえ」

正守の視線から逃げるようにうつむいたままながらも、意を決した様子で彼女が発した台詞に、彼は淡白な相槌を打った。

「いいんじゃないか。わざわざ受験するってことは、烏森じゃ出来ない、何かやりたいことがあるんだろ?」
「…………っ、う、ん」

良守によって烏森が封印された結果、夜の仕事もなくなった。もとより墨村でも雪村でもない彼女は、あの地に縛られる道理はない。
だが、それだけではないことを――、彼女が正守に告げたかったのはそれではないことを、彼は察していた。その上で、あえて意地の悪い感想を口にしたのだ。これが時音相手であれば、おそらく正守はこんな言い方はしない。遠縁といえど、彼女が身内だからこその態度だ。もちろん時音が正守相手にこんな要領を得ない言い方をすることは今までもこれからもないだろうけれど。
やりたいことがある、なんて積極的な理由ではないのは分かっている。彼女の動機はもっと消極的なものだ。彼女は正守が予想した通り、きまりが悪そうな表情を浮かべている。

「……それで? おばさんたちの説得でも手伝ってほしいのか?」

正守は素知らぬふりで続きを促す。名前は噛みしめていた唇をほんの少しゆるめ、かぶりを振った。

「ううん。お母さんたちは、自分で説得する」
「じゃあなんだ。良守の説得なら、俺は向いてないと思うけど?」

良守という単語がでた途端、ぴくりと肩が揺れる。真意を確信して発した言葉に、彼女は分かりやすく動揺する。

「…………私が良くんから離れることも、離れる理由も、良くんには、絶対言わないでほしい」

自分の意図を正守が察していると分かるや否や、彼女は単刀直入に、本題を切り出した。
姿を眩ますつもりであれば、家族以外の誰にも言わずに行動すれば良い話だ。事前に正守のもとまで来てわざわざ話を通す必要はない。それでもあえてこうして相談をしにきたのは、なんの力も持たない自分の居場所を特定することなど、彼であれば容易いと分かっているからだろう。良守が兄への意地も己の矜持も投げうって、名前を探してほしいと正守へ頼んでしまうことを想定すれば、先に根回しをしにくるのも納得できる。いまだ仲睦まじいとは言えない仲の兄に大きな借りを作ることになるだろうし、嫌味や説教の一つや二つは言われるに違いない。それでも良守はきっと、目の前の彼女のためならばそれくらいは平気ですることができるだろう。けれどそれは、家族へ対する愛情故だ。彼女が彼に対して抱いている、名前が欲している感情からの行動ではない。
名前が良守に抱いている想いを、良守は時音に向けている。幼いころからそうだった。今までもそうだったのに何を今さらとは思わない。外野である正守から見ても、最近の良守と時音の関係は今までのそれとは明らかに変化していた。そばで見ている名前からすれば、その進展はなおさらだろう。今までぎりぎり堰き止めていたものが、ついに決壊したのだ。“居たたまれない”。文字通り、そう思ってもおかしくはない。

「時音ちゃんがいるから、もう自分は要らないと思ったか?」
「……っ、そういうわけじゃないよ!」

彼女の真意を知るために、あえて意地の悪い質問を投げた。まるで時音のせいにするかのような言い方に、彼女はばっと顔を上げて否定する。時音を言い訳にはしたくないのだろう。名前ならばそう返してくると、正守は分かっていて聞いていた。

「……私ね、良くんのこと、大好きだよ」
「よく知ってるよ」
「もちろん時姉のことも好き。大好き」
「そうだな、それも知ってる」
「大好き、なのに……っ。大好きだから、だから……っ!」

言葉を詰まらせ俯く名前を、正守はただ黙って見ていた。
いっそ時音を恋敵だと憎んでしまうことができればどれほど彼女は楽になれただろうか。たとえ自分が恋い慕う良守の想い人であっても、それでも。名前にとっては、時音すらも大切な存在だった。彼女が幸せになってほしいと、強がりでもなんでもなく、心からそう思ってしまうのだ。
そして良守に対しても、嫌うことも、諦めることもできずにいる。大好きだから辛くて、大好きだからこそ、苦しんでいる。感情で雁字搦めになってしまっている彼女はきっと、あの地では息をするのも辛いような境遇のだろう。

「こんな状況で、こんなときだから、良くんを支えてあげるべきだって分かってる」
「…………」
「分かってる、けど……」

もう、彼らを後ろから見ていることは出来ない。それが、彼女が悩みぬいて出した結論だった。
家族同然ともいえる名前が忽然と姿を消せば、良守は、ひどく狼狽えるに違いない。身内と呼べる存在が、立て続けに目の前から消えることになるのだ。良守は今、母親を失い深く傷ついている。その上、名前さえもそばから消えてしまえば、その動揺は計り知れないだろう。
だがそれを妹同然の彼女が見捨てるなんてと詰ることなど、誰が出来ようか。彼女には彼女の人生がある。彼女は、墨村でも雪村でもない。妹同然の存在に過ぎず、結局は妹ではない。彼女には、良守を支えてやる義理はあっても義務はないのだ。
自分の説得など無用だろう。それは自分が行うべきことではないし、したところで徒労に終わることは目に見えている。それを正守は理解していた。

ちらりと、名前の正面に置かれた湯飲みを目に止める。刃鳥が淹れたときには立ちのぼっていた湯気はとっくに消えていた。せっかくの中身は、すっかり冷めてしまっているのだろう。永遠に変わらないものなどない。人間も、人と人の関係だってそうだ。

彼女は、後ろから見ていることしか出来ない子だった。異能の才があるわけではない。物心がつく頃から慕う彼の唯一になることも出来ない。いつも一人で、良守の背中を眺めていた。十五年余り続けてきたそれは、ようやく限界を迎えたのだ。
家を出たい。烏森を出たい。一人になりたい。良守を見ずに済む、遠くへ行きたい。
彼女のそれは、有り体に言ってしまえばただの幼い我儘にすぎない。子供じみた、社会に出てしまえばそんなものと笑い飛ばされるような、青臭くくだらない悩みだった。
義務教育もまだ終えていない子供が、たかが色事のために進路を、ひいては人生を左右させるなど馬鹿げていると裁定するのは簡単なことだ。けれど、彼女は真剣だった。それに真剣に向き合う必要があると、正守は理解している。
今まで何人も、居場所を失った子供たちを見てきた彼だからこそ、彼女が心の中で慟哭しているのが分かるのだ。自分の心を守るために逃げたいと思うことは、見たくないものを見ずに済む場所へ行きたいと思うことは、生物として当然の生存本能なのだということを、正守は他人よりも理解していた。ようやくそう思うことが出来たのは、むしろ彼女にとって僥倖と言えるかもしれない。

「高校って、寮はあるのか?」
「えっ!? あ、ううん……。一人暮らしするつもりで」
「その高校へ進んで、そのあとはどうする?」
「そ、そのあと?」
「高校を卒業したあとも、ずっと苗字の家には戻らないつもりなのか?」
「それ、は……、わかんない……」
「……考えが甘いな」

外部へ進学する前提で質問されることは考えていなかったのか、正守の矢継ぎ早な問いに名前は言葉に詰まりながら返していく。名前とて、自分の行動を否定された場合のことを考えて、必死に建前の理由は考えてきている。だが、烏森を発ったあとのことを訊かれるとは想定していなかった。
未来のことを考えられるのは、余裕のある人間だけだ。名前は、ただ目の前の現実から逃げるということだけで手一杯だった。
しどろもどろになる名前を見て、正守は深く息を吐く。その溜め息に含まれる感情は、はたして呆れか怒りか、またはそれ以外か。名前はこれから彼の口から出てくるであろう言葉に、肩を震わせ身構えた。

「……お前の気持ちの整理がつくまでだ」
「…………え?」
「大体お前ね、中学生がいきなり保護者もなしに一人暮らしなんて無茶だよ。おばさんたちだって心配するだろう」
「え、っと……つまり?」
「幸い俺は、世話のかかる子供を抱え込むのには慣れてるんだよ」

観念したかのような口ぶりの正守の言葉は、名前が納得するまで、自分が彼女の援助をするという宣言でもあった。その言葉に、名前の暗かった顔がじわじわと希望に満ちた表情に変わっていく。

「正兄……!」
「かわいい妹分に頼られちゃあ、仕方ないからな」

名前は思わず、しばらく前まで良守にそうしていたように、正守に飛びつきたくなるのを咄嗟にこらえる。ただ口止めのための根回しのつもりだったのに、正守が協力してくれるなんて願ってもない話だ。

「正兄、ありがとう……! わたし、私……!」
「もちろんただでとは言わないさ。働かざる者食うべからずだぞ」

安堵のあまり涙を薄く浮かべる名前に、正守は薄く笑って付け加える。

「たまにはこっちの仕事、手伝えよ」

名前が過剰に気に病まないようにか、あえておどけるようにそう言った正守の言葉に、名前はほっとした表情で大きくうなずいた。

 ◇

名前が正守という心強い協力者を得てから、一週間後のこと。夜未といつもの喫茶店で落ち合った正守は、季節限定のプレミアムチョコレートパフェを注文してご満悦の様子だった。大柄な男が背中を丸め、柄の長いスプーンでチョコレートソースのかかったバニラアイスを頬張る不釣り合いな姿に、夜未は呆れて息を吐く。
仕事の報告は早々に終わったし、この男相手に和気藹々と世間話をするつもりもない。あとは机上の自分の緑茶を片付けてさっさと帰ろう。そう思って彼女が湯飲みを持ち上げたところで、目の前の男が食べるパフェの甘い匂いが夜未の鼻腔をくすぐった。若葉のようにさわやかな緑茶の香りと、チョコレートのかぐわしいカカオの香りが混ざる。少し変わった組み合わせの香りにふと、いつかの烏森の地で、目の前の男の身内が用意したチョコレートケーキを思い出した。ああ、そういえば。

「あんたんとこの分家の、苗字の娘。烏森を出るんですって?」
「相変わらず耳が早いな、君は」

鬼童院ぬらという大叔母以外の人脈はほぼ無いに等しい彼女だが、春日夜未には高い諜報能力があった。名前のことについては、まだ夜行の一部にしか明かしていない上に、閃のような特に烏森に近しい者の耳に入らぬよう緘口令を敷いている。だがそれすらも潜り抜け、さながら近所の娘の進路先が町内に知れ渡っているかのような口ぶりで、彼女は話題に挙げた。
諜報を得意とする相手に情報の出所を探るだけ無駄と悟っている正守は、スプーンにのせていたブラウニーを頬張り嚥下すると、口を開く。

「じゃあ大体知ってると思うけど、夜行の仕事も手伝わせるつもりなんだよね。春日さんもあいつとは知らない仲じゃないし、会ったらよろしく頼むよ」

へらへらと言う彼に、夜未は思わず眉をしかめた。知らない仲じゃないなどと、よく言えたものだ。そりゃ既知ではあるが、侵略を仕掛けた者と仕掛けられた者が、よろしく頼むで済むものか。
だがまあ、墨村の弟でも雪村の娘でもなく、彼女が。かつて夜未が烏森へ足を踏み入れた際、正統継承者である二人だけでなく彼女のこともあらかじめ調べていた。烏森における彼女の立ち位置も、彼女の弱点も。当の本人にも雪村の娘にも己の慕情を上手に隠していたようだが、所詮は子供だ。

「まあ……、大方、動機の予想はつくわよ」
「そう?」
「どうせ、あんたとおんなじでしょ」

良守が怖くて逃げるのだ。あんな頭の悪い子供っぽい男、いっそ嫌いになれたら楽なのに、それすら叶わない。彼が無邪気に自分を照らす度、己の薄汚い感情を引き起こされる。だからせめて、自分から相手を避けるために、逃げるために、烏森を出ることにしたのだろう。苗字名前も、目の前の男も。
敵である自分にすら情けをかけた馬鹿な子供の面を思い出し、夜未は目の前の男と、あの日後ろで控えていた彼女の共通点を脳裏に浮かべていた。

「……俺、もしかして良守のこと大好きそうに見えてる?」

夜未が吐き捨てるように言った言葉に、正守はあからさまに困惑した。自分の顔を指差し、心外とでも言わんばかりの表情をしている。
彼が珍しく浮かべた間抜け面が、当の弟の顔と少し似ていたのがひどくおかしくて、夜未は鼻で笑ってやった。