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甘やかすの、俺得意だよ



松野さんとの奇妙な同居生活が始まって5日目。これで6日連続松野さんに起こしてもらっていることになる。起こしてくれる人がいるというのは存外に良いもので、朝も今までより余裕ある出勤が出来るようになっていた。

「名前ちゃん、俺のコーヒー砂糖入れてね」
「スプーン2杯ですよね。パンは2種類ありますけど」
「俺左のやつ、チョコチップの方」

松野さんは確かに毎朝起こしてくれる。しかも寝坊助を起こすのが得意と言っていただけあって、眠りが浅くなっているのを見極めて本当に根気強く起こしてくれる。寝起きの私に少し熱めの蒸しタオルを差し出して顔を拭かせてくれたり、布団から出られるように、部屋を暖かくしておいてくれたり、よくもまあこんなにと思うほど至れり尽くせりだ。
ただ。それ以外のことは全くしてくれない。料理も、洗濯も、掃除も、何もしない。気になって同居2日目に、私が会社にいる間何してるんですかと尋ねてみたところ、テレビを観たり昼寝をしたりしているそうだ。それって暇すぎてつまらなさそう。

「松野さんは、あの、働いてないんですか?」
「俺は将来ビッグなカリスマレジェンドになるからさ、それに見合った求人じゃないとなかなかね」

相変わらず何を言ってるんだろうこの人は。要するにニートであることは分かった。でもその変な言動も5日目にして慣れてきてしまった自分が悲しい。一昨日スマホで「人間国宝 なり方」で検索していたのを見かけてしまった時は、どうしようかと思った。

朝、起こしてもらう代わりに、衣食住を提供。まるで馬鹿高い高性能目覚まし時計を買った気分だ。

あ、でも、余裕のある出勤が出来ることに加えて一つだけ。一つだけ、松野さんが家にいて良かったと思うことがある。
それが、挨拶だった。朝おはようと言われて起こされ、いってらっしゃいと言われて出かけて、おかえりと言って迎えてもらい、おやすみと言われて床につく。何気ないことだけれど、一人暮らしで寂れた心に潤いが、とでも言うのだろうか。なんだか、そのなんでもない挨拶が、とても嬉しいのだ。
今までそんなことを気にしたことはなかったのに、今や帰った時に松野さんの「おかえり」がないと不安になってしまう。

「じゃあ私、そろそろ行きますね。合鍵はいつものところにあるので、もし外出するときは戸締まりしっかりお願いします。それから、もし雨が降ってきたら最低でも1番右の洗濯物は取り込んでおいてもらえますか。濡れてしまったら、今日の替えの下着ありませんからね」
「はいはい、分かった分かった。名前ちゃんは心配性だなあ」
「この間は取り込んでくれなかったじゃないですか」
「あれは昼寝してたからしょうがないじゃん」

溜まった洗濯物を1度にまとめて洗った日に大雨が降って、それがまとめて雨に濡れて洗濯し直しになったのは記憶に新しい。今日は降水確率40%だ。

「名前ちゃん、いってらっしゃい」
「はい、行ってきます」

思わず顔が緩む。今日も1日頑張れそうだ。

  ◇

「苗字さん、最近朝早いね」

自分のデスクでメールを確認していると、隣の席の先輩が出勤してきた。

「おはようございます! あ、新しい目覚まし時計を使い始めたので……、そのおかげだと思います」
「ふーん。あなたしっかりしてるし仕事も出来るのに、いつも朝は遅刻寸前だったもんね。良かったじゃん」

うっ。確かに出勤が遅刻寸前でいつもバタバタして注意されていた。本当に反省しています。まあ最近は早いし文句なしに出世頭だねーと先輩に誉め殺しされる。こういうときって、なんて返すのが正解なんだろう。思わず顔を真っ赤にして、俯いた。評価されるのはとても嬉しいのだけれども。

今頃松野さんは二度寝している頃だろうか。そういえばあの人、朝かならず起こしてくれるけど、目覚ましも使わずにどうして起きられるんだろう。二度寝しているとは言っていたから、とくにショートスリーパーという訳でもなさそうだし。

「苗字、来週のプレゼン資料どうなってる?」
「あ、はい!そちらは……」

今頃夢の中であろう彼のことを考えていると、上司に仕事を頼まれた。いけないいけない、集中しなくちゃ。
大口契約を目前にしたプレゼンに、まだ新人の部類にあたる私が関わらせてもらえるだけでもありがたいことなのだ。精一杯頑張らないと。

  ◇

「おかえりー」

玄関のドアを開けると、数秒置いて松野さんがリビングから顔を出す。
ぺたぺたと裸足で廊下を歩いてわざわざ玄関まで迎えてくれた。裸足だと少し寒そうだから、今度休みのときに松野さんのルームシューズかスリッパでも買いたいな。ただでさえ彼の生活品は足りないことだし。よし、次の休日は買い物だ。決めた。

「ただいま帰りました」
「今日も遅かったねー、残業?」
「はい、来週プレゼンが迫っているので、それの準備で少し」

準備は大方終わっているけれど、ブラッシュアップの余地はまだまだ残ってる。時間はいくらあっても足りないのだ。

「ふーん。やっぱ名前ちゃん大変なんだねー。おつかれさま」

松野さんの手が私の頭を撫でる。思わずびっくりして目を丸くした。

「あ、悪い。俺、弟たくさんいてさ、長男だったからこういうの癖になってんだよね。やだった?」

嫌じゃない。子供のとき以来されたことないことをされて、正直動揺しているけれど、けして嫌ではなかった。もっと撫でて欲しいとさえ思った。

「弟いるんですか」
「うん、いるの、5人。そんで俺が長男。家出してきちゃったけど」
「家出、だったんですね」
「そう、嫌になっちゃって、出てきちゃったんだよね」

松野さんは何でもないことのように話す。彼が自分のことを話してくれるのは、初めてだ。心を許してくれているみたいで、正直少し嬉しいと思ってしまった。

「だからこうやって、甘やかすの、俺得意だよ」

松野さんの胸に抱き寄せられ、背中をトントンと叩かれる。もう片方の手で、頭も撫でられて、まるで泣いている赤ん坊をあやしてるみたいだ。

「は、恥ずかしいです」
「いいじゃんいいじゃん。俺、何も出来ないからさ、せめて甘やかすことくらいさせてよ」

久しぶりに感じた人肌は、すごく暖かくて、すごく心地が良くて、心がじんわりと溶かされていくような気がした。