犬が座っている。ぼろぼろの毛並みに浮いた肋。永遠に帰ってこない飼い主の帰りを待っている。撫でても唸りはしないが、こいつはなんだろうというような目でこちらを見る。目の前に食べ物を置いても食べようとはしない。何度か匂いを嗅いで、ふんと鼻を鳴らす。水だけは飲むが食べようとはしない。朝も夜も晴れの日も雨の日もそこで動かない。ナマエを待っている。もう帰ってはこない人間を待ち続けている。

「お前、名前はなんといったっけ」

確かあいつ、名前を付けていた。昔村で飼っていたやつに似ているからと同じ名前をつけていた。幸せそうにそう呼んで撫でていた。忍犬として育てられた畜生に情をこめた名なんてつけるもんじゃないのに、一人と一匹だけだと思っていた時はこっそりと呼んでいた。やめたほうが良いぜと言っても困ったように笑っていた。たしかその時もこの犬はわけがわからないと言ったような表情で俺のことを見つめていた。

「教えてもらったんだ俺様。お前の名前」

な、と話かけると犬はちらりとこちらを見た。すぐに視線が外されて、元の場所に戻る。もう二度と聞こえてこない足音の主を待っている。もう半分死んだようなからだをしているのに目だけが力を持っている。こいつのためにと置いた生肉の、乾いた表面に蠅が集っている。

「でも忘れちまったんだよなぁ」

名前を教えておきますと言われた。こいつはきっと佐助様のお役に立ちますよ、と自信満々な面で言われてありがとよ、と返したのはいいがきっとこの畜生は俺のお役になんてこれっぽっちも立たないだろうとはもうその時から思っていた。おい、ナマエ、お前の足元を見て見ろよ。この雌犬ときたら将来主になるだろう俺様のことをどんな目で見つめていると思う。

「覚えてないんだよ、な、お前」

野良犬がここで誰を待っているんだ?そう問いかけると強情張りな忍犬は力なく鼻を鳴らして、それからよろよろと立ちあがった。木の器に張った水をがぶがぶと飲んで、蠅が集った生肉を一口で飲み下した。ふらつきながらも何処かへ向かおうとする後姿に声をかける。

「お前の飼い主はさ、俺が焼いて埋めたよ。八ヶ岳に埋まっているよ」

骨と皮だけになってしまった頑固な野良犬は最後に一振りだけ尻尾を振って、それから飼い主と同じように二度と帰ってこなかった。



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