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もうほぼ自己満足です。慣れないものは駄目だ





ナマエ・アブナー・ベイルは対人外専門の科学者であるイジャスラフ・ベイルとその妻、人類専門の医者であるエレノア・ベイルが生み出した対ブラッド・ブリード専用の人間兵器である。彼はBBを殲滅するために作られ、産まれ、そのためだけに生きている。最も生きている、というよりは無理やりに生命維持を行われている、と言った方が正しいだろう。世界の様々な英知、最新医術から極東の呪術に至るまで、全てを血液に詰め込まれた彼の脳髄はそれに耐えられなかった。夫妻は彼が産まれて数年後にその失敗を悟ったと言う。凡人には分からないであろう僅かな知能の低下。産まれた直後に未発達の骨髄に埋め込んだ砂粒よりも小さなナノマシンに組み込まれた命令には確かに血液を通して脳に働きかけるためのIQ上昇プログラムが存在していたはずだった。

夫婦はそれが発覚してすぐに、ナマエに対BB用の技術を教え込み始めた。夫妻の持つ全ての伝手を使い世界中の有段者、裏の世界の人間からも手ほどきを受けた彼は11歳の時点で牙狩りへと入社し、その若さにも関わらずブラッド・ブリードとの戦いに置いて十分な成果を発揮し続けてきていた。ナマエ・A・ベイルと言えば、牙狩りの最年少。異様な強さでBBを弊し続ける期待の新人。性格は穏やかでマイペース、普段は争いを好まないがブラッドブリード戦時のみまるで人格が変わったかのような激情を見せる。場合によっては長老級とある程度渡り合うことすら可能であり、彼に命を救われた牙狩りは決して少なくない。

そんな彼が壊れたのは4年前、15歳の時。恐らく転化したばかりと見られるBBの殲滅戦後であった。BBの手足を引きちぎり握りつぶした手から血を滴らせたまま立ち尽くす彼に声をかけた者が、その表情に違和感を覚え彼の両親に連絡をとった。ナマエが牙狩りへと入社した際に唯一組織に求められたもの。それは彼の様子に異常が見とめられた場合、直ちに両親へ伝えること。連絡を受けてすぐ、まるでそうなることが予めわかっていたかのようにベイル夫妻は彼を回収し、自らの研究所へと運んでいった。

それから彼の姿を見た者はいない。簡潔に辞表が書かれた文が牙狩りの上層部へ届き、ナマエ・A・ベイルは表の世界からも裏の世界からも完全に姿を消した。

「すてぃーブン・A・スターふぇイズ殿は我らの息子であるナマエをご存知デしょうカ」
「ええ、6年前に2度ほど共闘したことが。それから彼が牙狩りを引退するまではよく手紙のやり取りをしていました。善き友人だと思います・・・・・彼が、何か?」
「ハイ、今回はその件でライぶラへと参りました。エイブラむス殿にお聞きしましたが、何デも長老級のBBが何体も潜伏シてイルと・・・」

ライブラ本拠地の応接間にて。上等な皮張りのソファに腰かけ、訛りが強いがために少々不鮮明な声で話しながらイジャスラフが物憂げなため息をついた。その視線は目の前に座るスティーブンを通り越して、窓の外から霧にまぎれてぼんやりと見える奇妙な街並みをとらえている。

「シかし、まぁ・・・本当ニ興味深い街でスな。あちらにもモこちラにも、何度死ンでも見る事が出来ないヨウな個体ガ沢山生息しテいる。流石はヘルサレムず・ロット」
「・・・・・イジャスラフ博士、住民の外部への持ち出しは禁止されておりますので」
「たった一欠けラの細胞デも?」
「ええ、人間界に持ちだした途端、何が起こるか予測できないのがHLにすむ生物ですから」
「そうデすか、残念です。サンプルは破棄してオキましょう」

アノ個体も、この個体も皆研究し甲斐がありそうだったノですが……と悲しげなため息をついたイジャスラフにスティーブンが苦笑する。無償で牙狩りへ多額の援助を行うスポンサー。それがベイル夫妻だ。彼らが少しでも望んだことは牙狩りのメンバーならある程度、いや、全力で叶えるべきだった。

「ああ、そうだ。もしサンプルを破棄なさるのでしたら、良い場所があるのですが」
「ほう?」
「アッシュトローテ三番街、ツーデイルと書かれた看板を掲げる喫茶店。合言葉はキルギリコーヒーにショーラムーンアゲハの粉末を一摘み」
「ふむ、ふム」
「先に話は通しておきますので……役立てて頂ければ、と」
「感謝シまス、スてィーブン殿」

妻も喜ぶデしょう、と満面の笑みを浮かべたイジャスラフへスティーブンは心からの笑みを返した。経験上、明日にはライブラの活動資金が何倍にも増えている。一体誰が?答えは簡単だ。夫妻は彼らの欲望を満たそうとする協力者に援助を惜しまない。

「おット、本命ノ話を忘れてオリました。そう、すてぃーブン殿。我らの息子、ナマエについテデすが」
「はい、彼が、一体?」

本題へと戻った話に、思わずすこしだけ身を乗り出す。ナマエが戦闘後に体調を崩し、前線を退いたと聞いてからすでに4年もの歳月が過ぎている。表、裏、どちらの世界にも未だに顔を見せないことが気にかかるが・・・イジャスラフの口ぶりから彼の体調が完治したのではないかと、スティーブンが淡い期待を抱くのは仕方がないことだった。

「ヘるサレムズ・ロットは人外魔境。使えるモのは一つデモ多いほうがヨいでしょう」
「もしや、」
「ハい、我らはナマエをここデ役立ててもらいたいト思ッていまス」

思わずガッツポーズをとりそうになった手をスティーブンは必死で抑えた。あのナマエが来る。HLに、ライブラに。これほど嬉しく、頼もしい事があるだろうか。個人的に話をしたいことが幾つもあるのだ。それに、我らがリーダーであるクラウス・V・ラインヘルツとナマエ・A・ベイル、この二人が揃えば眷属との交戦は格段に難易度が下がるだろう。二人共相当な実力者だ。ナマエには幾らかブランクがあるだろうがそれでもーーー

「戦エはしマセんが、そレでも幾らか役には立つデシょう」
「…え?」
「申し訳ないノでスガ今のあの子ハ動けないのでス」

思考の海に沈みそうになっていたスティーブンをイジャスラフの声が現実に引き戻す。ナマエが戦えない?あのナマエが?聞いた情報によれば重い怪我はしていなかったはずだが・・・眷属との戦いで呪いでも受けてしまったのだろうか。思い描いていたブラッドブリード殲滅の段取りを掻き消して、スティーブンは佇まいを正した。

「いいえ、彼のもつ知識と経験は我らの助けとなってくれるでしょう。これほど心強いものはありません。イジャスラフ博士、感謝致します」
「ア、それモ無理なノデす。脳が壊れてイましテな」

まるで大したことではないかのように、さらりとそう言ったイジャスラフ博士にスティーブンは思わず絶句した。脳が壊れている。それはつまりナマエ・A・ベイルが廃人になってしまったということに間違いないだろう。では一体どうして、イジャスラフが言うようにナマエがライブラの力となれるのか。スティーブンは六年前にたった二度出会っただけの、ナマエの幼い顔を脳裏に浮かべた。顔も性格も平々凡々な彼の顔がまだ鮮明に思い出せるのは、それだけ彼から受けた印象が強かったからだ。ジャポンの知り合いは彼の戦い方をなんと表現していたか・・・キシンの如き強さ、だったか。八百万以上もの彼らの神の中でも、最強に近いものに例えられるような子供だった。

「なノで我々は強化しマした」
「強化、ですか?」
「アの血液は我らの叡智デす。私と妻の知識ノ結晶ナのです。ステぃーブン殿、我らの研究成果ハ必ず貴方ガたの力と成りエるはず」

もはやイジャスラフはナマエの名前を呼ばなかった。それはこの科学者がナマエを息子として認識していないことの表れに違いなかった。先ほどから薄々思っていたことだったが、K・Kを博士と会わせてはならない、とスティーブンは脳内のメモに刻んだ。家族を愛する彼女がもし今ここにいたなら、博士との会談は終わりを告げていただろう。自分とて思うところがいくつもあるのだから、イジャスラフの物言いは即座にK・Kを激昂させるに違いない。

「………つまり、彼の血に意味があるのですか」
「ええ、ソれを今から解説しようとオモいます」

イジャスラフはスティーブンの問いに嬉しそうな笑みを見せた。まるで自分の気持ちそのままの、適度な気温を保った部屋の中で霜が降りるほど冷えたコーヒーカップをゆっくりと口元へ運びながら、スティーブンは小さく息をついた。飲みなれているはずのクリスタルマウンテンが、今日はやけに苦く感じた。

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