ギブユー・ベイビー


 お袋から電話があった。
 出生届は出していなかったそうだ。


『うち来たときはもう、心中するつもりだったんだって。最期に私に会うつもりが、子供だけはって思い直して置いて逃げたってわけ』
「じゃあ身体壊したって、つまり……」
『そういうこと。今は落ち着いてるしバカなことも考えてないけど、身体がね。けどもうすぐ退院できるよ』
「……そうか」

 叔母の退院はすなわち、ベイビーがここからいなくなることを意味する。叔母のことが昔から好きになれなかった俺にとっては、めでたいと思えなくても不思議はなかった。
 それでもこの前みたいに取り乱さないで済んだのは、母親としての叔母が、この子を産んでからたった一人の半年間を想像できたからかもしれない。
 預けられた時は正確には生後半年だったそうだ。サバ読んだのは、少しでも大きく見せたほうが預かってもらいやすいと考えたからだとか。ほんの一か月や二か月なんて、と以前の俺なら笑い飛ばしていただろう。でも、今ならわかる。その一、二か月でどれだけ子供が変わるかってことが。
 だからと言って叔母のしたことを許せる気はしない。ベイビーがいなくなることを、良かったと思えもしない。
 だが俺の母親は、思いがけないことを言い出した。

『それでさ。あんたに赤ん坊任せてるって言ったら、あの子喜んでてさ。あの子はあの子であんたのこと避けてたのに。やっぱり母親になると少しは違うのね』
「あっそう……つか、俺嫌われてたのかよ!?」
『懐かない子供なんて、親戚とはいえ他人だからね。だからあんたにはあんまり会わせないようにしたじゃない。考えてみりゃ私もあの子をもう少しおだてて子育て助けてもらえば良かったわ。つうかあんた、顔に出過ぎなのよ。間に挟まれた私の身になんなさいよ。我が子と妹どっち取るかって言ったら我が子でしょうが。しょうがないからあの子と疎遠にしてたのにあの子ときたら』

 相変わらずかあちゃんはマシンガントークをカマし、俺は一切口を挟めずひたすらケータイを耳に数十分当て続けるという苦行を強いられたあと、

『で、あんたに名前つけて欲しいって。出生届は先に出すけど、あんたたちで呼んでる名前があんでしょ? それ書いて、こっち送って。命名!みたいな紙買ってきてさ』
「は……!?」
『ところでなんて呼んでんの?』
「や、アレだ、その」
『まあいいわ。頼むわよ、急いでね。書くだけだし』
「ちょっ、待てや!」


 ――切られた。

 あのかあちゃんが俺の話なんぞ大人しく聞くわきゃねえし、ベイビーって呼んでるなんて言ったら一時間くらい語られそうだ。あ、金時が付けたんだっていったら『あっそう』で済むかも。なんか金時のことめっちゃ気に入ってるし。


 金時はもう出勤したあとだったから、俺はベイビーの寝顔を見ながらひとり考えた。
 記憶に残らなくても、名前を残すことができる。
 母親のくせに名前も付けようとしないのかと少し腹立たしい気もするが、この子に俺の手で、形に残る物を贈れるのが嬉しくて叔母のことはどうでもよくなった。

 どうか、幸せに。

 人生の始まりは混乱の極みだったけれど、これから歩む人生は幸せであってくれ。






「何がいいと思う」

 これまで世話になった連中にも少し意見を聞いてやってもいいかな、なんてホトケ心を出したのが間違いだった。
 例によってベイビーを大学に連れて行き、高杉たちと学食でダベりながら命名のことを(軽くだぞ。まるっと採用するつもりなんかねえからな)話した。
 途端に目がギラギラし出すバカども。

「俺の名前、一文字やってもいいぜ」
「晋子かよ! 目付き悪そう!」
「では私の名を一文字どうぞ」
「テメーはもっと変なかんじになんだろ!? 変だろそもそも!?」
「平のほうでもよいのではござらんか」
「そっちはマズイだろいろいろと!」
「アタシの名前はひらがなッスから、『ま』か『た』あげるッス」
「いらねえよ! なに自分の名前に由来させようとしてんの!? 図々しくね!?」
「拙者の名は取らずともよいゆえ、ここは『露有羅』とかどうでござるか」
「読めねえ! 書けねえ! テストんとき恨まれんだろがァァ!?」
「ここはエリートに任せるべきです。『せん』とか『よど』とか、姫君にあやかって……」
「由緒正し過ぎるわ! テメーは引っ込んでろ」
「ふふ、仕方ないね君たちは。鳥の名を取って未来に羽ばたくことを願」
「テメーはネギ背負って鍋にダイブしろォォォ!」


 ろくでもなかった。だがベイビーは至ってご機嫌だったから良しとしよう。帰ろうとしたら高杉たちが、お前と金時のセンスだけで決めるんじゃねえぞ絶対にだと絡んできてウザかった。

 驚いたことにミツバまで電話してきた。

「や、気持ちはありがてえがお前の名前はちょっと……」
『あら私の名前から取ってくださいなんて言わないわ。「辛」の字を取ったらどうかしらと思って』
「おま、それ『ツラい』とも読めるって知ってる!?」

 この人も少しおかしかった。ていうかなんで名付けに参加しようと思い付いた。総悟の差し金か。止めろよ姉として。


 金時は金時で、いきなり広辞苑買ってきて『あ』から熟読し始めた。何か月掛かるんだっつーの。そりゃ俺も掛けたいけど。せめて付けたい名前の漢字を調べろ。


「なあ、どんな大人になりてえ?」
「なーあ」
「わかんねえよなぁ。この先どんなことが起きるんだろうな」
「ぶーぶ」
「お、ぶーぶ来たなぶーぶ。あんなん乗り回せるといいな」
「ぶーぶ」
「ああオメーは女だから、迎えに来させりゃいいな。そういう女になれ」
「ぶーぶ」
「あんま高飛車だとただのイヤな女だけどな」
「ヤー」
「いい女になれよ」


 たとえその時、俺はお前のそばにいなくても。




「いきなりひとりぼっちの人生が始まっちゃった訳だけど」

 金時は最近ベイビーを抱っこしたがらない。俺が抱いてるのを覗き込むか、ベイビーが伝い歩きするのを見守るか、どっちかだ。

「十四郎がいて、十四郎の友達がいてさ。ベイビーちゃんは幸せだと思うよ……施設も悪かねえけど、行かねえで済むならそれに越したこたないし」
「預けるなっつったり預けろっつったり、テメーはよくわかんねえ」
「あはは、ごめんね。ひとりぼっちには、ならないで欲しくてさ」


 金時の笑顔がこのところ沈みがちなのが気になる。
 いちばん世話したのは、金時なのに。手放したがらなかったのも金時だったのに。

「この先いろいろあんだろうけどさ。ベイビーちゃんには、ひとりぼっちになって欲しくないな」

 いつになく真剣な面持ちで、誰に言うともなくぽつり、と零れたのは、金時の滅多に見せない本心だったのではないだろうか。






「ああ、今日送ったぞ。速達にしたから遅くとも明日にゃ届くだろ」
『そう。ちょっと時間掛かり過ぎじゃないの? 届出がただでさえ遅くて怒られてんのにさ』
「だからって、これは思いつきで決めちゃいけねえモンだ。妥当な時間だ」
『…….あら珍しい。私に意見するたぁ偉くなったもんだね。まあ、子供育てりゃ強くもなるか。ところでなんて名前にしたの?』




「友恵――友に恵まれますように」




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