グッバイ・ベイビー


 ベイビー――いや、友恵は一歳の誕生日を迎えた。


 やっと取り寄せた予防接種の用紙を見ながら、うちにいる間にできるものはやっておこうと金時が言い張るので、いくつか予防接種を受けた。
 そのときアレルギー検査も勧められて、一応受けたら軽い卵白アレルギーだった。金時が卵を食わせようとしなかったのは、正解だったわけだ。もっとも、俺たちは大豆や小麦粉なんかノーマークだったから、たまたま合ってたに過ぎないと医者には注意された。

 だから可哀想だが初の誕生日にケーキはなしだ……と思っていたら、

「卵使わないケーキのレシピ見つけたよ」

 当日、金時はあっという間に自作のケーキを綺麗に作ってくれた。しかも仕事を休んで、俺たちは三人で誕生会を開いた。俺はポテトサラダを作った(前からマヨネーズ抜きのポテトサラダに納得いかなかったんだが、卵を使わないほうがいいなら仕方ない。早く食えるようになるといいのに)。それと、友恵が最近ハマっているひと口ハンバーグも作れた。進歩したな俺。すげえ。

 金時は主に大人の料理を担当して、その上で友恵が何故かどんなメニューでも必ず要求する味噌汁を作った。純洋食に味噌汁ってどうなんだと思うが、ないと友恵がものすごくびっくりした顔でテーブルの、いつも汁椀を置く場所を見つめるので、もうとっくに負けて毎食出すことにしてた。金時の味噌汁は美味いしな。それに金時の主義で、うちはわりときちんと一汁三菜を守ってたから、友恵の反応はきっと正しい。うん。

 誕生会は高杉たちを呼ぼうかって最初は思ってたけど、いつの間にか俺と金時の間では、三人だけでやる、という暗黙の了解ができていた。それでも来島が大学で『友恵ちゃんにッス』とファーストシューズをプレゼントしてくれたり、高杉が何故か餅くれたり、武市がフリフリのワンピースくれたり、岡田が焼きそばパンくれたり、今井がミスド詰め合わせくれたり……本当にいろんなヤツが祝ってくれた。あの英語の婆さん先生まで祝ってくれて、フォトフレームをくれた。

「誕生日ごとにフォトを撮れば成長がわかります。親はそれが楽しみなものです」
「……生まれたときのがあればいいんですけど」
「たとえなかったとしても、長い人生の中の、たった一枚がないに過ぎません」
「……」
「そう思えるほど、今後の人生が幸せであるよう祈っています」
「!」
「それから、あなたは努力しました。あの時は学業との両立は難しいだろうと思っていましたが、撤回します」
「え、ありがとうございますけど、な」
「私の課目は合格でした」


 オマケしてくれるような融通の利く婆さんじゃねえのはあの時よくわかったから、この評価は言葉通りで、それ以上でもそれ以下でもないと思う。育児と両立できたことを評価されたのではなくて、婆さんにしてみれば合格点を取った学生が育児もしていたってことだ。
 だが、そこに触れてくれただけでも俺は充分嬉しかった。友恵の存在を否定しないでくれた、初めての他人だったからかもしれない。


「さて、始めますか」
「うし。こっち来い、ベイ……じゃねえやトモエ」
「十四郎ったら最初はあんなにバカにしてたくせに、ねえ? 名前ついたんだから名前呼んでほしいよね」
「とーお」
「テメーのセンスを疑ってたんだっつの。今でも疑ってるけどな」
「きーん」
「ハイハイ、言葉遣いには気をつけようねートモエちゃんが変な言葉覚えちゃうでしょうが……よし、ハッピーバースデートゥーユー!」
「きゃあ!」


「ふうっ、てするんだよ。今年は十四郎兄ちゃんと一緒に、ね?」


 俺と一緒に蝋燭の炎を吹き消す真似事をする友恵の向こう側で金時は、確かに満面の笑みを浮かべていた。
 でも、俺には笑っているようには見えなかった。
 理由はわからないけれど。

 金時は少しも笑っていなかった。



 一歳を過ぎると、友恵はもう赤ん坊ではなくなっていた。誕生日の辺りから立ち上がって足を動かしては地面にデコをぶつけるのを繰り返していたんだが、転ばなくなった。俺がこいつを抱いて走ってた公園に、手をつないで歩いて行けるようになった……ものすごく時間はかかったけど。かえって疲れるけど、友恵が抱っこをガンとして受け付けないので付き合うしかない。そのくせ帰りは「だっこー!」って泣くんだけどな。
 ミルクっつーもんを飲ませなくなって、フォローミルクとかいうモンを飲むんだ。それも、ストローで。哺乳瓶じゃねーんだぞ。びっくりだ。金時は過保護だからフォークを持たせたがらないんだが、ンなアホな、と俺が箸を持たせてケンカになった。でも、相変わらずデカい声が嫌いな友恵に泣かれて二人とも慌てた。結局箸は使うことにした。だっていずれは練習するんだから、ちゃんと俺たちが見てれば済むことだろ。
 公園で滑り台に昇った。逆走しようとして近所のガキんちょに押し退けられたときはイラッとしたが、友恵が悪いんだからしょうがない。謝れっつったら泣いたけどそこんとこは謝らせた。ルールは守らないとな。

 そうやって、春は過ぎて夏が近づいてきたんだ。





 別れの日はやって来た。

 俺はちょうど試験休みに入ってた。
 金時は結構な売れっ子になってて、おいそれと休みなんぞ取れねえだろうと思ってたんだがしっかり休んだ。
 そして俺たちは久しぶりに田舎に帰った。
 母ちゃんは記憶より少し痩せてた。もともとこんなんだったかもしれない。まあ、相変わらずよくしゃべった。だから元気なんだろう。金時すら口を挟めないマシンガントークっぷりには心底参った。なんか恥ずかしいだろ。
 叔母の記憶はあんまりなかった訳だが、ずいぶん小さい人だなあと思った。ていうか俺が最後にこの人に会ったのって、中学生とかじゃなかったか。そら大きく見えたかもしれねーな。
 友恵を見て涙を浮かべるところまでは想定通りだった。でも、

「今までありがとうございました」

 丁寧に頭を下げられたのは予想してなかった。俺はたぶん、動揺してたんだと思う。友恵を渡しに来たのに、そのためにはるばる帰って来たってのに、腕が動かない。

「とーお」

 友恵がくすぐったがって笑った。無意識に引き寄せていたらしい。それで、ああ返さなきゃ、と思い出した。

「俺たちが見てた間の、連絡ノートみたいなのです。もしかしたらこれから役に立つかもしれないから、持ってきました」

 母ちゃんには敵わない金時も、叔母には営業スマイル全開だ。そして、俺たちが……いや、俺のためにつけてくれてた連絡帳を叔母に渡した。それは、あっさりと。

 そこには友恵と過ごした時間がぎっしり詰まっていた。
 ベイビーと呼び、オムツ替えの回数から散歩の時間から離乳食のメニュー、レシピ、買ったおもちゃ、夜泣きにめげたこと、金時が倒れたこと、しばらく見ない金時を忘れて泣いたこと、大学に連れてったこと、来島と遊んだこと、保育所に預けようとしたこと、膝立ちの日付け、最初に話した言葉……
 俺たち三人の数か月が、ぎっしり詰まっていたのだ。
 俺はその記録まで手離すつもりはなかったのに。

「俺たちが持ってるよりお母さんが持ってたほうがいいんじゃないかな。ね、トモエちゃん」

 金時は俺の顔を見ずに、初めて俺たち三人が顔を合わせたときのように、友恵に話しかけた。叔母でもなく、俺でもなく、友恵――ベイビーに。

「きーん、あそぼ」
「今日は遊べないな」
「あそぼ!」
「きっと忘れちゃうだろうけど、楽しかったよ。ありがとうね」
「あり、とー」
「うん。ありがとう」

 叔母は泣きながら笑った。そして友恵の頬に触れた。友恵は喜んで笑った。

「十四郎」

 金時が囁く。

「もう、決めただろう。トモエちゃんにいちばん必要なのは……」


 叔母が腕を差し伸べるのにつられて、俺はつい、友恵を差し出した。大学に連れて行ったあの日、来島に渡したように。毎朝金時に頼んだように。

「うわあああああん!」

 泣いてる。早く抱き上げないと。ああなったら俺か金時じゃないと泣き止まない。おもちゃや食い物じゃ誤魔化せない。俺たちのどっちかが宥めないと治まらない。

「ダメだ、十四郎」

 金時に酷く腕を掴まれた。痛い。腕がいたい。それより胸が、

「これからはお母さんと一緒だよ。ね、トモエちゃん?」
「長い間ありがとう……ごめんなさい」
「……っ、」
「とーお! とおおお! うあああああん」
「姉さんから名前の由来、聞いたよ。本当に……ありがとう」
「とおおおお! ぎゃああああああ!」
「……」
「十四郎、」
「……わかってる」


 わかってたんだ。
 最初っから、こうなるって決まってたんだ。これが友恵にとっていちばん幸せな選択なんだって。だから最初から俺は一時預かりのつもりだったし母ちゃんは叔母を探すために俺に預けたんだし金時は期間限定で俺の部屋に引っ越してきたんだ。

 わかってたはずなのに。


「俺は、帰るからな」
「うえええ……っ」
「母ちゃん困らせんなよ」
「ひっ、ひぐぅ、えええええ」
「早く寝ろよ。ちゃんと飯食え」
「とーお! ヤー!」



「さよなら。トモエ」




 さよなら、ベイビー。

 いつまでも、幸せに。



「十四郎。せっかくだからさ、通学路とか見て帰らね?」

 駅までの道すがら情けなくも涙が止まらねえ俺に、金時はいつもと変わらない口調でそう言った。

 本当に、金時だけは何も変わらないと思ってたんだ。


「さて、俺もお役御免だな。荷物はもうまとめてある。明日昼間に引き上げるから一晩だけ置かせてもらってい? 俺、このまんま自分の部屋ァ帰るわ」


 失うものがまだあったなんて、思いもしなかったのに。





------------------
ウチはヨーグルトで作りました<ポテトサラダ
でも、お医者さんと相談!絶対!



前へ/次へ
目次TOPへ

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -