8. 平穏 明日神楽がここに寄るから、と坂田はなんでもないことのように言う。 「明日? 何時に」 「わかんね。俺は新八と先にやることあるから、俺がいなかったら悪ィけどここで待たせといて」 「おい、」 「新八と神楽には言ってあるから」 坂田は俺を見ようとしない。PCに目を落とし、調べ物に余念がない。 「言ってあるって、何を」 「土方先生と住んでるってこと」 「……」 「保護者みてえなモンだと思ってるよ、二人とも」 「……」 「松陽がいなくなったのも知ってるし。不自然じゃねえだろ」 不自然極まりないと、坂田自身が思っている証拠に坂田は一切目を上げない。いつになく真剣な顔でキーボードを叩いては小難しい顔で画面を見つめている。 「俺は出かけとく」 「イヤそれじゃ神楽入れねーじゃん。俺のほう時間読めねえし」 「鍵持たせとけ」 「ヤダよ、つき合ってる女でもねえのに鍵渡すとか」 「……」 「諦めろよ、先生」 坂田はやっと目を上げる。覇気のない視線で、投げやりに俺を見る。 「一緒に住んでるとは言ったけど、セックスする仲だとは言ってねえし」 「!」 「そら先生だもの、そこはマズイんだろ。教師としても、土方先生としても。それくらい弁えてるから心配すんなって」 「さか……」 「万事屋のほうでとも思ったんだけど、移動の効率考えっとここで落ち合うのが合理的なんだわ。休みのとこ悪いんだけど。頼むよ」 仕事のときはこんな顔もするのか。 甘い顔で俺の機嫌を取ることもできるのに。 坂田は冷ややかとさえ感じるほどの無愛想さで、俺の返事を待つ。 甘えてくればにべもなくはねつけることも出来たのに、こんな男くさい顔をされては。 思わず頷いていた。 その日坂田は朝早くから出て行った。 昼ごろにインターホンが鳴って、こんにちはヨーという陽気な声がスピーカーから流れてきた。 「久しぶりネ」 坂田になんと言われたのか、神楽は当たり前のように入ってきて靴を脱ぎ始めた。 「お腹空いたネ。買ってきたからここで食べてもいい?」 「ああ」 「トッシーも一緒に食べるアル」 「……」 「あ、トッシーよりマヨラーのほうがいいアルか?」 「呼び捨てのほうがまだマシだな」 在学中はこの学年の生徒たちと『オイ土方!』『先生をつけろバカ!』という罵声の応酬をしたものだ。どの学年も同じようなもので、今でも俺はその応酬をし続けているのだが、神楽にとっては懐かしいやり取りだろう。どの教師も陰で渾名をつけられているのは知っているが、自分のを面と向かって聞かされたのは初めてだ。 「マヨラーも持ってくるアル」 「いや、俺はまだ」 「ご飯ちゃんと食べてるか見張っとけって銀ちゃんに言われてるネ。持ってこいヨ」 「………は?」 「どうせあの天パが用意してあるネ。冷蔵庫見てみろヨ」 「……」 それは開けてみるまでもなくその通りだ。朝起きたらテーブルにメモが置かれていて、必ず温めて食べろと書いてあった。 「ふーん。麻婆アルか」 電子レンジから取り出してきたのを、遠慮なく首を伸ばして覗き込んだ神楽は、これまた遠慮なく口を出した。 「日本のマーボーあんま好きじゃないけど、銀ちゃんのマーボーは好きネ。たまごスープもあるはずヨ」 「?」 「銀ちゃんセットで作ってくれるネ。絶対あるから見てみ」 もう一度冷蔵庫を覗くと、確かにスープが隅っこのほうに追いやられていた。 「なんでわかった」 「万事屋に呼ばれるときはご飯食べさせてもらえるネ。麻婆豆腐も麻婆茄子も麻婆春雨も、よく作ってもらうからヨ」 「……そうか」 坂田の料理を食べられるのが俺だけではないという、考えてみれば当たり前のことに俺はたじろぐ。神楽に手伝わせたときの報酬は食事と、坂田は言っていたというのに。 「いつからヨ」 「……何が」 「銀ちゃんがここに来たの」 「いつだったかな」 なんと答えるのが正解なのか迷って口を濁す。神楽は特に不審に思った様子もなく、ふうんと言ってコンビニ飯を豪快に口に運んでいる。 「銀ちゃんのパピーに頼まれたアルか?」 「……何を」 「銀ちゃんのこと。ケンカ別れしたって言ってたけど、心配はしてたアルか」 「ケンカ別れ?」 「あれ、知らない?」 ならいいや、と神楽はまたしても興味を失い、大きなハンバーガーに齧り付いた。 「なんだか知らないアルけど、良かったヨ。銀ちゃんご飯食べるお金もなくてピーピー言ってたし」 「ピーピー?」 「先生、何にも知らないアルな」 大きな青い目が、真っ直ぐ俺を見る。 「なんかケンカしたらしいヨ。松陽センセーは連れてくつもりだったのに、銀ちゃんが言うこと聞かなくてケンカになって、一人でやるからいいって意地張ったけどお金ナイ、みたいな」 三者面談で会った、人当たりのいい顔を思い出す。始終笑顔で、『銀時の人生は銀時が決めますから』と余計な指図をしようとしない、担任としては非常にやりやすい保護者だった。 あの人が銀時と仲違いするほどのことが起きたということだ。何があったのか。 何かがあったことすら、俺は坂田から聞いていない。神楽に、そしておそらくは志村にも話したであろうことを、俺は知らされていなかった。 麦茶が飲みたいと遠慮なく要求する神楽に麦茶を出してやりながら、内心は穏やかではいられない。 神楽はそのまま勝手にテレビをつけてソファに寝転んでいる。先生が部屋で仕事するなら私ここで勝手にしてるネ、などと言いながら大欠伸している。 言葉通り、部屋に下がらせてもらって仕事の続きをしようとするが、確実にペースが落ちていた。 坂田には坂田の世界がある。 俺といるときだけの坂田を知っていればいいと思っていた。というより、それ以外の坂田を知ろうと思ったことがなかった。 坂田はなぜ俺に同居を持ちかけたのだろう。 身体の関係がすでにあったから、男女の同棲をイメージしているのだろうと思っていた。実際坂田は俺の身の回りのことに気を配ろうとするし、俺はそれにずいぶん助けられている。 だがそれは、同性同士の同居でもあり得ることなのだ。単に以前の関係にたまたまセックスが加わっただけで、坂田は単純に保護者を必要としていただけなのではないのか。 それでいいはずだ。俺は単なる同居のつもりでいたはずだ。 『俺の部屋に来ればいい。部屋は余ってる』 『……わかった。じゃあそうする』 わざわざ二人で部屋を探す時間と手間が惜しかった。男二人が同居するのに、互いの価値観をすり合わせる労力を俺は惜しんだ。坂田がわずかに失望したような顔をしたのにも気づいていたが、俺はそれを黙殺した。 これはただの同居。坂田には何かしらの思い入れがあるかもしれないが、ともに暮らすうちにそんな甘ったるい感情はなくなる。俺はそう思っていた。そう思うようにしていた。 身体の関係は一度や二度ではなかった。だとしても、この歳になればセックスに必ずしも気持ちが伴わないことがあると知っている。若い坂田が性欲を解消するのに、ちょうど良かったのだと思いたかった。 だが坂田は同居してからも俺を丁寧に抱いた。若者が持てる知識のすべてを使って俺の身体を労った。それが見当外れな心遣いだったことは一度や二度ではないし、的外れな気遣いにうんざりしたことは多い。 それでも俺は、坂田と抱き合うことに慣れた。この温もりを知るのは俺だけだと思い上がる程度には慣れ切っていたのだ。本当に俺だけかどうか。そんなことを、知ろうともしなかったのに。 坂田のことを、俺は何も知らない。 唐突に鍵の開く音がした。坂田の声がして、それに続いて志村が『お邪魔します』と律儀に言うのも聞こえた。案外早く終わったアルなとかそうでもねえとか、三人が話しているのを扉越しに聞く。神楽が何か言うのに、坂田が答える。志村がそれに口を出し、神楽がまた何か言い、坂田が笑った。志村がさらに言い募ると、今度は坂田と神楽が大笑いする。 あれは、坂田の世界だ。俺が入り得ない、坂田だけの世界だ。 俺は耳を塞いだ。知らなくていい世界を、わざわざ知りたくない。坂田の依頼人が女だっただけで心がざわめいたことなど忘れたのだ。この上坂田が仕事仲間と親しく笑い合うところなど、見たくも知りたくもない。 扉がノックされ、坂田が俺を呼ぶ。 「先生、忙しい?」 「忙しい。構わず行け」 「うん……遅くなるかもしんねえんだけど、晩飯どうす」 「適当にする。テメェは三人で食ってこい」 「……でも、」 「ガキじゃねえんだ。それぞれで何とか出来るだろうが」 「……わかった。終わったら連絡する」 「しなくていい」 坂田の顔を見られなかった。 先生ごちそうさまヨ、と神楽が言った。土方先生お邪魔しました、と志村が礼儀正しく挨拶した。坂田はもう何も言わなかった。 その何もかもが、煩わしかった。 坂田の世界を知らない自分が、坂田の世界から弾き出された自分が惨めで哀れで、そんな自分を見せつける元生徒たちが憎いとすら思った。 それでも坂田との生活を手離す気にはなれない。 教師の身で元とはいえ特定の生徒を疎ましく思う気持ちを抱きながら、坂田と暮らす日々を変える勇気はない。すでに馴染んだこの日常を根底から覆す勇気も気力も、もう俺にはない。 坂田はきっと帰ってくる。 今日は坂田の夕食を味わうことはないけれども、坂田は帰ってくる。 それだけで、俺の日常は守られる。 それがあれば、俺はまだ平穏でいられるのだ。 前へ/次へ 目次TOPへ |