9. 早退


 授業が終わって数学科準備室に戻る途中だった。視界が歪んで、胃の奥が重苦しくなった。頭痛もあったような気がする。気づいたら、保健室ベッドに寝かされていた。

「貧血だろうってさ。でも念のため病院行こう、俺が車出すから」

 傍らにいたのは近藤さんで、もうそれは俺が寝ている間に決まったことだと言った。

「仕事……」
「明日土曜日だよ。持って帰る? じゃあ職員室まで一緒に行くわ」
「……ああ。すまねえ」
「直帰な。家まで送るから」
「いや、それは」

 早く支度してこいと急かされて有耶無耶になったまま病院へ。診察だけのつもりが点滴を喰らい、思ったより長く拘束されることになった。

「近藤さん、もういいから」
「ダメだよ。どうやって帰るつもりだ」
「タクシー呼ぶ。ほんとにもう大丈夫だから」
「一人暮らしだろ。帰った後もなんなら手伝うぜ」
「……」

 なんと説明しよう。
 今まで説明するのが面倒で、坂田のことは俺の関係者には知らせていなかった。
 いや、言えるはずがないのだ。元生徒と、同居しているなんて。

「一人でやれるから」
「過労って言われたろ。甘えろ」
「こんくらいなんてことねえ」
「なんてことあったからこうなってんだろ」
「……もう大丈夫だ」

 同居自体は悪くないはずだ。誰かと共同で生活している。不自然ではない。相手が坂田だと言わなければいいだけではないか。きっと大丈夫な、はず。

「同居人がいる。だから大丈夫だし、一人で帰れる」

 名前は出していないものの、坂田の存在を初めて他人に話した。元生徒と知られなければ問題はないと自分に言い聞かせても、心臓の音がやけに耳の中に響く。

「ん? 為五郎さん、こっちに出てきたのか」
「兄貴じゃない」
「……悪い、知らなかったわ」

 近藤さんは一瞬絶句したが、すぐにニヤリと意味深に笑った。

「なんだ、言えよ。余計なお節介焼いちゃったじゃねーか。連絡した?」
「メッセ送った。さっき」
「来られるって? 来られねえならタクシーまでは一緒に行くから」
「……来る、って」

 だからあんたはもう帰っていい、と言うつもりだったのだが、近藤さんはホッとしたような顔になって、

「よかった。じゃあその人来るまでいるわ」
「えっ」
「またぶっ倒れたら困るだろ。ちゃんと引き渡すから、座ってろよ」
「……や、」
「この時間にすぐ来られるってことは、専業主婦?」
「……え、と、その」
「女の人じゃトシが倒れたら支え切れないじゃん。家まで行くって」
「……」


「土方先生」


 坂田の声が後ろから聞こえた。近藤さんが目の前で固まっている。

「同居人て、坂田のこと?」
「……」
「アレ、ゴリラじゃんおひさ。土方先生連れて帰っていい?」

 坂田の緩い声と共に、腕を無造作に掴まれて引かれ、俺はよろめく。

「え、トシ、マジで?」
「……」
「なにが?」
「坂田、おまえトシと同居してんの」


「違うよ?」


 坂田の声は怠く、冷たく、事務的で眠たげだった。

「俺いま万事屋っつー何でも屋やってんの。土方先生を家に送るって依頼なわけ。仕事で来てんの、邪魔しねーでくれよ」
「あっそうなんだ」
「ゴリラがいンなら俺呼ぶことなくない? まあこっちはギャラもらえれば何でもいいけどよ」

 背中に冷水を浴びせられたような気がした。坂田の手は冷たいし、掴まれた腕は痛む。それだけのはずが、なぜか寒気がして目の奥が熱くなる。

「手伝うよ、トシんちまで行けばいいの?」
「ゴリラって土方先生んち知ってんの」
「知らねえや」
「じゃあダメかな。個人情報バラしたらマズイから」
「ああ、おめーの会社から漏れたことになるもんな。わかった、カノジョさんなら手伝おうと思ったけど坂田ならいっか」

 じゃあお大事にな、と近藤さんは笑って、タクシーに荷物を積むところまで手伝ってくれた。坂田はといえば、俺を雑にタクシーへと押し込んで、近藤さんと一緒に荷物を運び入れている。俺は一人、車内で冷たいガラス窓に頭を押し付けた。
 坂田が戻ってきて、俺とあからさまに距離を置いた隣に滑り込む。じゃ、ゴリラありがとな、ゴリラじゃないからね、というお約束のやりとりをのんびりと交わしてドアが閉まった。行き先は坂田が指示して、車は動き出した。

「先生」

 坂田は前を向いたまま低く気怠く呼びかける。

「まだゴリラ見送ってるし、ここら辺は生徒がうろついてるから」

 だから素っ気ない態度でいるのだ、という意味だと理解した。
 違うのだ。
 俺が驚愕しているのはそこではない。俺自身に俺は、驚き呆れているのだ。
 坂田が関係を隠そうとした。
 俺との関係を否定した。
 そのことが自分を打ちのめした。完膚なきまでに。
 その打ちのめされ度合いに驚愕しているのだ。
 同居などしていない、と。
 同僚がいるなら呼ばなくても良いだろう、と。
 隣り合うのに距離を置くのは当然だと。
 坂田がそう示したことに、俺は衝撃を受けている。
 ほんの少しでいい。あと三センチでいいから近くに行きたいのに、それも拒絶される。
 何もかもが、こんなにも俺を打ちのめす。
 ああ、もう駄目なのだ。いくら取り繕っても、

「辛え? 熱出てそうだしな。でももう少しだから」

 坂田は冷ややかに窓の外を眺める。チラリともこちらを見ない。
 俺は目を閉じた。
 何もかも今さらだ。そんなことに、今さら気づくとは。

「飯が食いたい」

 自分の声と信じられないくらいに掠れていた。

「わかった。帰ったらな」

 この話題なら喜んで食いつくだろうと思ったのに、素気なく躱された。
 ため息しか出なかった。自分自身の情けなさに。情けないのなんぞ今に始まったことではないのに、そのことに目を逸らしてきた、今までの哀れな時間に。






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